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金比羅大権言社

運河神社の下の宮

金比羅大権言社

読み方 こんぴらだいごんげん-しゃ
所在地 名古屋市港区中川本町5丁目 地図
創建年 1934年(昭和9年)
旧社格・等級等 不明
祭神 不明
アクセス 地下鉄名港線「築地口駅」から徒歩約20分
駐車場 なし
その他  
オススメ度

 中川区月島町にある金刀比羅社(西宮神社)地図)を運河神社の上の宮(かみのみや)、港区中川本町にある金比羅大権言社を下の宮(しものみや)と呼び、二社は対の関係とされている。ただし、創建時期には大きな開きがある。
 月島の金刀比羅社は鎌倉時代後期の1290年創建ともいわれ、境内社のような格好になっている西宮神社も戦国時代創建とされる。
 それに対して金比羅大権言社は昭和9年(1934年)創建の新しい神社だ。そのとき、上の宮と下の宮は運河の守り神ということになった。

 ところで金比羅大権言社の名称は間違いではないのか?
 通常、金比羅に限らず権現は権現であって権言とは表記しない。権現は仮に現れるという意味なので、権言では意味を成さない。入り口の社号標にもしっかり刻まれているから金比羅大権言社を正式に称しているのだろうけど、やはり違和感はある。
 まさかとは思うけど、最初に間違えてそのまま引っ込みがつかなくなってしまったとかではないのか。

 神社の東にある中川運河は、自然河川だった中川(上流は笈瀬川)を運河化したもので、大正15年(1926年)に工事が始まり、昭和5年(1930年)に完成した。
 中川(笈瀬川)は西区名塚に水源を持を持ち、名古屋城(web)の西を通り、蛇行しながら南下して伊勢湾に注いでいた。
 運河にしたのは、明治40年(1907年)に熱田沖に名古屋港が開港したことに伴って水路による物流を強化するためだった。荷物が増えて名古屋城築城の際に掘った堀川だけではまかなえなくなっていたのだ。
 開削のときに出た土を使って運河両岸の敷地も造成した。中川運河右岸沿いの中川本町もそのときに生まれた町だ。
 運河沿いには工場などが建ち並び、当時は東洋一の大運河と呼ばれていた。
 金比羅大権言社創建の昭和9年は、そういう時期で、町の発展と運河の無事を願って建てられたものだった。
 中川運河ができると荷を載せた船で生活する人間が増え、一時はそういった水上生活者が二千世帯を超えて、水面町と呼ばれた。
 昭和40年代に入ると、それは子供の教育上よくないということになり、最後に残っていた二百世帯が解散し、水上生活者はいなくなった。

 一見すると公園内神社のようにも見えるのだけど、一応全域が境内地ということになるのだろうか。隣接する中川本町公民館の敷地の中に神社があるようにも見える。公民館が社務所も兼ねているようだ。
 東鳥居の前には何故か伊藤萬蔵が寄贈した石灯籠が置かれている。明治廿四年三月とあるから、この神社ができるずっと前に奉納したものだ。どこかから移してきたには違いないのだけど、もともとどこにあったものかは分からない。

 金比羅大権言社の名前からして金比羅を祀っているのは間違いないだろう。
 本家の金刀比羅宮(web)は明治の神仏分離令以降は大物主を祀るとしているけど、こちらもそれにならっているだろうか。
 金比羅はもともとインドのガンジス川にすむ鰐(ワニ)を神格化した水の神・クンビーラから来ているとされる。仏教に取り込まれて仏法守護の薬師十二神将のひとつとなった。日本では神仏習合の神となり、金毘羅大権現と呼ばれた。海の神、航海の守り神とされ、江戸時代以降全国に広まった。
 中川運河の守り神は、昔も今も金比羅で変わっていない。

 運河神社としての例祭がどんなふうになっているのかは知らないのだけど、運河まつりは今も行われているはずだ。中川運河ふれあいまつりと運河神社の祭りは連動しているのか同じなのか別なのか、そのあたりの事情は掴めていない。
 とりあえずこの神社は地元ではもっぱら運河神社と呼ばれて親しまれている。

 

作成日 2018.6.29(最終更新日 2019.7.18)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

中川運河の下の方担当、金比羅大権言社

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