太(ふとし)という名前からどういう神社か思いつかなかったのだけど、祭神が天照大神(アマテラス)で太となれば、「太一」から来ている可能性が高い。 『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。下屋敷の神として氏子の崇敬あつく明治12年11月19日据置公許となる」
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、春田4丁目は戸田村の村内だっただろうと思う。北から春田村、戸田村、供米田村はつながっていた。 神社があるのはかつての戸田村の田んぼの中で、供米田村との境界近くに当たる。最初からこの場所にあったとはちょっと考えづらい。 今昔マップで変遷を追うと、長らくこのあたりは田んぼで、区画整理された住宅地になったのは1970年以降だったようだ。 戸田村と春田村は明治22年(1889年)に合併して戸田村となり、明治33年(1900年)に豊治村、赤星村、万須田村と合併して富田村になった。 富田村時代は、東を春田、西を戸田としていた。春田地区は江戸時代、上ノ割、中ノ割、下ノ割に分かれていて、上ノ割に熱田社(大明神)、中ノ割に神明社(春田)があった。太神社はおそらく戸田村の村域だろうから、春田村時代の下ノ割の神社ではないと思う。富田村時代の春田地区の下ノ割神社ということになるだろうか。 しかしながら、『寛文村々覚書』(1670年頃)、『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)の戸田村の項にはこの神社に相当するような神社は載っていない。春田村の神社は熱田社(大明神)と神明社だけだったので、そこにもない。戸田村の5社、八幡(八幡社)、天神(天神社)、礼宮神(鈴宮社)、白山(白山社)、明神(神明社)はそれぞれ現存している。 いつ誰がどこにこの神社を創建したのかは調べがつかなかった。明治12年に据置公許となっているから、遅くとも江戸時代後期にはあったはずだ。
最初に書いたように「太(ふとし)」は伊勢の神宮(web)の「太一」から来ているのではないかと思う。 太一(たいいつ/たいち/たいつ)とは何かというのは非常に難しくて簡単に説明できないのだけど、天照大神(アマテラス)のことを表していると思っておけば大きな間違いではない。 もともとは中国の哲学思想で、宇宙の根源や天の中心を示す言葉であり思想だったとされる。その後、北極星のこととされ、日本に入ってきてアマテラスと習合したというのが簡単流れだ。 いつ頃から太一=アマテラスという思想が生まれたのかは分からない。神仏習合した平安時代かもしれないけど、鎌倉時代末に伊勢の外宮の度会家行がまとめた伊勢神道(度会神道)以降ではないかと思う。伊勢神道では外宮の神の豊受大神(トヨウケ)は天之御中主(アメノミナカヌシ)や国常立(クニノトコタチ)と同一視してアマテラスよりも上の存在だと主張した。 太一は外宮の色合いが濃いようにも思うのだけど、内宮別宮の伊雑宮(web)との関係を指摘する人もいる。 伊勢の神宮の神事の際に「太一御用」という幟や旗を見たという人もけっこういるかもしれない。式年遷宮の行事に参加する人の法被には太一の文字が染め抜かれている。
以上を踏まえると、この太神社は伊勢の神宮からアマテラスを勧請して村の守り神としたというのではなく、個人または集団の伊勢信仰や太一信仰から伊勢の神を祀ったのが始まりだったのではないかと推測できる。社名を神明社にせず、あえて太神社にしたというのはそういうことだろう。 拝殿前の木製鳥居が神明鳥居ではなく明神鳥居になっているのは、あえてだろうか。 太一というのはもっと深い謎を秘めていそうで、それは伊勢の神宮が抱えている秘密のひとつでもある。 太一を前面に出している神社は名古屋ではここだけだと思う。この神社自体も何か歴史を秘めているかもしれない。
作成日 2017.6.24(最終更新日 2019.6.5)
|