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八劔社(御劔町)

平安か戦国か

御劔町八剱社

読み方 はっけん-しゃ(みつるぎ-ちょう)
所在地 名古屋市瑞穂区御劔町2丁目28 地図
創建年 不明(1056年とも1564年とも)
旧社格・等級等 指定村社・八等級
祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
日本武命(やまとたけるのみこと)
大伴武日命(おおとものたけひのみこと)
アクセス 地下鉄桜通線「桜山駅」から徒歩約25分
駐車場 なし
その他 例祭 10月14日
オススメ度

 創建は平安時代中期の1056年という話と、戦国時代の1564年という話があり、そのどちらが本当かによって話は大きく違ってくる。
 分かっていることは、神社の南西300メートルほどのところ(御劔小学校/地図)に高田城があり、戦国時代に城主を務めていた村瀬浄心が関わったらしいということだ。

 高田城について詳しいことは分かっていない。平安末の源平合戦の頃、尾張源氏の高田四郎重家の邸宅だったと『尾張名所図会』(1844年)は書いている。
 その『尾張名所図会』に、「当村八剣の社の棟札に、村瀬浄心の勧請なるよし」とある。
『尾張志』(1844年)でも、高田村にある八劔ノ社、熱田ノ社、一之御前ノ社、八幡社、富士ノ社、八幡ノ社は「永禄七甲子年当村城主村瀬浄心勧請せし由元禄七年甲戌五月の棟札にあり」とする。
 永禄7年は戦国時代後期の1564年に当たる。
『寛文村々覚書』(1670年頃)と『尾張徇行記』(1822年)は、高田村の神社を「白山 大明神 八劔宮 一ノ御神 富士 八幡二社」の七社とする。
 戦国時代にひとりの城主が6社も7社も神社を一気に建てるだろうかという疑問はあるものの、棟札にそうあるというのなら信じるしかないのか。
『愛知縣神社名鑑』も、「永禄七甲子年(1564年)当村の城主村瀬浄心の勧請という」としている。

 一方、神社の由緒書きではこうなっている。
「当社は天喜4年(1056年)頃、熱田神宮下宮の八剣宮より勧請境外神社新八剱宮として約千年の永きにわたり村社(高田村)として鎮座勧請時に熱田の大神宮が尾張氏より藤原氏へと恙無く移行されたのは神仏習合時代八剱大菩薩本地不動明王の威力によるものと崇敬されております」
 熱田社の大宮司職が尾張氏から藤原氏に譲られたのは1114年のことだ。代々熱田社の大宮司は尾張氏が務めていたのに、このとき唐突に藤原氏に移り、尾張氏は権宮司に格下げになっている。それだけ藤原氏の力が大きくなったのか、外からは分からない事情があったのか。譲られた格好で大宮司になった藤原季範の娘が後に源頼朝を生んでいる。
 それはそれとして、創建を1056年としているのはどういう根拠なのだろう。

 地理的なことをいうと、ここは瑞穂台地の北西の縁(へり)で、古代西側は深く北まで入り込んだ海だった。
 その入り海を挟んだ西には熱田社のある熱田台地があり、直線距離でいうと八剱社と熱田社は1.7キロほどしか離れていない。熱田社から見ると八剱社は北東に当たる。
 このあたりは熱田社領でもあったため、熱田社との関係が深かったことは間違いない。
 八剱社の北東500メートルほどのところに八高古墳があり、南東600メートルほどのところには高田古墳群がある。
 これらの古墳も、尾張氏と関わりがあった可能性が高い。

 八劔社とは別に、村瀬浄心は熱田大明神を移しの森というところに勧請して祀ったと伝わっている(1564年)。かつての高田上之切、今の太田町に移しの森というところがあった。
 現在、八劔社の祭神がヤマトタケル(日本武尊)と大伴武日命になっているのは、明治44年(1911年)に熱田社を合祀したためだ。
 ヤマトタケルはともかく、村瀬浄心が大伴武日命を祀るという意識があったかどうかは分からない。
 現在の熱田神宮における大伴武日命というと、龍神社(りゅうじんじゃ/web)という小さな社で吉備武彦命と一緒に祀られている。
 もともとは本社奥の北西の一之御前社で大伴建日命(大伴武日命)を祀り、北東の龍神社で吉備建日子命を祀っていた。
 大伴武日は『日本書紀』では大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)として登場し、『古事記』には出てこない。垂仁天皇朝では五大夫のひとりとされ、ヤマトタケルの東征に従ったともいう(大夫(まえつきみ)は、「前つ君」の意味で、天皇の前に仕える人の尊称のこと)。
 大伴氏の遠祖で、天皇から神祇祭祀を命じられたとされる。
 熱田社からほど近い瑞穂台地の上に八劔社、熱田社、一之御前社があったことは偶然わけはなく、それらを村瀬浄心がまとめて勧請したとはちょっと思えない。

 境内社として源太夫社、白山社、山上社、社宮司社がある他、秋葉大権現の礎石などあり、今でも庚申講が続いているというから、高田村の中心的な神社としての歴史を刻んできたことは間違いなさそうだ。
 個人的な印象としては、なかなか古社くさいと感じた。すごいとまでは思わなかったけど、けっこういいとは思った。その微妙な感じが創建年の予測を難しくしている。
 戦国か平安か、その違いはやはり大きい。私としては判断がつかないというのが結論ということになる。

 

作成日 2017.9.12(最終更新日 2019.3.25)

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