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八剱社(五女子町)

1625年に戦勝祈願で神社を建てたりするのか?

五女子町八剱社

読み方 はちけん-しゃ(ごにょし-ちょう)
所在地 名古屋市中川区五女子町3丁目34 地図
創建年 不明(伝・1625年)
旧社格・等級等 指定村社・十一等級
祭神 日本武命(やまとたけるのみこと)
アクセス JR東海道本線「尾頭橋駅」から徒歩約22分
駐車場 なし
その他 例祭 10月第2日曜日
オススメ度

 中川区に多い八剱社のひとつで、五女子町にある。
 旧住所は八熊町字下脇だった。
 八剱社は熱田神宮web)の別宮である八剣宮web)から勧請して建てたものだ。
 八剣宮は『延喜式』神名帳(927年)では「八剣神社」となっており、当時は「ヤツルキ」と読んでいた。
 ヤツルキがいつハッケンになったのかは分からない。現在は八剣宮と書いて「はっけんぐう」と読ませている。
 名古屋に点在する八劔社は「はちけん」、「はっけん」、「やつるぎ」が混在している。五女子町の八劔社は一応「はちけん」としておくけど「やつるぎ」かもしれない。
 江戸時代まで八剣宮は熱田社の南にあって広い境内を持つ独立した神社だった(八劔社が八剣宮となったのは明治以降)。飛鳥時代末の708年に元明天皇の勅命であらたに作った神剣を納めるために建てたというのが表向きの由緒だけど、本当のところはよく分からない。668年に草薙剣盗難事件があり、剣は686年に熱田社に戻っているのに、どうしてあらたに神剣を作る必要があったのか。
 早くから八剣宮は武家が信仰したというのだけど、その頃は八剣宮がどんないきさつで建てられたどんな神社かということを皆が知っていたのだろうか。
 どういうわけか、中川区には八剣社が多い。佐屋街道がある北エリアはわりと歴史のあるところだけど、南エリアは干拓で作られた新田を中心にできた新しい土地だ。どうしてそういう村に武家の守り神ともいうべき八剣社を勧請して建てたのか。何故、熱田社ではなかったのだろう。
 熱田社よりも八剣社が多いのには何か理由があるはずだ。

 境内の由緒書きによると、寛永2年(1625年)に尾州和加部守が戦勝祈願のため八剱大明神を祀り社殿を創建したとしている。
 しかし、『愛知縣神社名鑑』にはこうある。
「創建は明かではないが社伝に寛永元年(1624)社殿改修続いて享保九年(1724)元文二年(1737)明和五年(1768)文化十年(1813)嘉永二年(1849)同十年とそれぞれ造営された。明治5年7月に村社に列格、明治20年大正4年にも社殿を改修した。昭和11年10月9日指定社となる。昭和27年本殿を改築境内の整備を行い、昭和56年10月本殿を改修する」
 1624年に社殿を”改修”したのと1625年に社殿を創建したというのは明らかに矛盾がある。
 更によく分からないのが、神社由緒のいう「尾州和加部守が戦勝祈願のため」という部分だ。
 尾州は尾張国のことだけど、和加部守というのは何なのか。守は官位(受領名)として、和加部が分からない。
 1625年に戦勝祈願というのもどういうことなのか。大坂の陣は1614年と1615年に終わっているし、それから10年後に大きな戦など起きていない。島原の乱は1637年だけど、名古屋とは関係がない。神社を建ててまで戦勝を祈願しなくてはいけないような戦はこの時期になかったはずだ。
 1624年に改修したというのが正しければ創建はそれ以前ということになり、戦勝祈願で神社を建てたという話にも説得力が増す。その戦というのは、関ヶ原以前ではないのか。大坂の陣というのはピンと来ない。
 この疑問の答えは出ないまま保留ということになる。

 江戸時代の書の五女子村を見ると更に混乱する。
『寛文村々覚書』(1670年頃)には八劔社はなく神明社だけが載っている。
「神明壱社 牛立村祢宜 久大夫持分 社内弐畝五歩」
『尾張徇行記』(1822年)の五女子村の項には、神明社と【府志曰】八剣祠在、そして熱田社があると書いている。
 府志というのは『張州府志』(1753年)のことで、そこには八劔祠が書かれているのに何故かここでは熱田社になっている。
『尾張志』(1844年)は「八劔ノ社 五女子村にあり」とだけあって神明社がない。
 この流れをどう理解すればいいのだろう。
 江戸時代前半にあったのは神明社のみで、半ばには八劔が増えて、それが熱田社になったのかそのままだったのか判断がつかないのだけど、後半では神明社がなくなっている。今の五女子に神明社はない。神明社が八劔社に合祀されたという話もないので、江戸時代のどこかで廃社になったのか、別の村に移されたかしただろうか。
 社伝がいうようにたとえ1625年創建(または1624年)だとしても、『寛文村々覚書』に載っていないのはどうしてなのか。

  神社がある五女子町は、「ごにょし-ちょう」と読む。
 ややこしいことに、五女子1丁目、2丁目もあり、そちらは「ごにょうし」と読む。紛らわしいので読み方を変えたのだろう。
 現在、二女子町と四女子町もあり、かつては一女子村から七女子村まであったとされている。
 片端の里(かたはのさと/古渡あたり)に住む豪族が七人の娘をそれぞれ近隣の村に嫁がせて、村の名前を一女子から七女子まで変えさせたという話がある。
 江戸時代にはすでに二、四、五、七の村しか残っていなかったようで、『尾張国地名考』で津田正生は他は田園の畦名などに残っており、地名の由来にはいろいろ説があると紹介しつつ、詳しいことは不明としている。
 豪族の七人娘というのはさすがに作り話だろう。
 熱田新田に一番割から三十三番割まで名付けたように区画名とする説もあるようだけど、それだと女子と名付けたことの説明がつかないし、江戸時代にすでに由来が分からないということは江戸期以降の新田に付けられた地名でもないということだ。
 読み方は「じょし」ではなく「にょし」ということからすると、地名は古いかもしれない。
 こういう読み方をするのは漢音よりも早くに伝わった呉音の読み方で、善男善女(ぜんなんぜんにょ)や老若男女(ろうにゃくなんにょ)などと同じだ。
 中川区のこのあたりがそれほど古い歴史を持つ土地かどうかはなんともいえないのだけど。 

  神社の東の通りを拡張するためなのだろう、大がかりな工事中で境内の東側が削られていた(2017年5月)。境内にあったと思われる大きな楠などが歩道の街路樹として流用されている。
 灯籠や石碑などが脇に追いやられていて、道路工事が完了するまではちょっと落ち着かない感じになっている。
 道を隔てた幼稚園の横にお堂と小さな社がある。
 幼稚園の名前が白雲幼稚園というから、白雲寺という寺が経営するものかと思ったら違った。
 もともと昭和29年創立の個人の幼稚園で、庭にあった大きな欅(けやき)の木に白い蛇が棲んでいたということで白雲龍神として祀っていたのが幼稚園の名前の由来なんだそうだ。
 ケヤキの木はなくなってしまった今も、社には白雲龍神を祀り、幼稚園を守ってもらっているというわけだ。

 かつて穀物が不作した年があって、柿と栗が豊作だったため、村人たちはそれで飢えをしのいだということがあり、それ以降例祭では柿と栗を俵に詰めて蝶と蜻蛉(とんぼ)の飾りをつけたものを神社に奉納するということをやっているそうだ。
 神社には3つの力石があって、一番重いものは一石五升というから150キロ以上になる。力自慢の人は持ち上げにいってみるといいかもしれない。

 

作成日 2017.7.6(最終更新日 2019.6.8)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

中川区五女子町の八劔社を訪ねたのは2017年5月

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