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八幡社(東茶屋)


茶屋家の浮き沈みを知る



東茶屋八幡社

読み方はちまん-しゃ(ひがしちゃや)
所在地名古屋市港区東茶屋1丁目539 地図
創建年1663年(江戸時代前期)
旧社格・等級等無格社・十五等級
祭神應神天皇(おうじんてんのう)
アクセスあおなみ線「名古屋競馬場前駅」から徒歩約60分
日ノ出橋バス停留所」から徒歩約15分
駐車場 なし
その他例祭 10月4日
オススメ度

 細い道を一本挟んで東茶屋の神明社とこの八幡社が隣り合っている。独立した神社がこれほど近い距離にあるのは珍しい。
 もともとこういう位置関係だったのかは分からないのだけど、八幡社が水没して神明社と合併していた時期があり、その後再び分離独立して今の格好になった。
 そのあたりの経緯を『愛知縣神社名鑑』が書いている。



「社記に”寛文三年(1663)当茶屋新田築立之際、山城国綴喜郡男山八幡宮より分霊を受け相祭候処文化十二年(1815)八月、当新田入水之際、社殿大破に付当新田字松台上現今村社神明社(東茶屋1丁目163番地、神明社)へ合併、明治17年12月10日今の社地へ復旧公許となる”昭和20年7月26日現在神明社所有農地(田)七町二反十一歩(十一筆)昭和34年9月伊勢湾台風により社殿被災するも氏子の熱意により復旧した」



 山城国男山八幡宮というのは今の石清水八幡宮(web)のことで、男山(鳩ヶ峰/143メートル)の山上に鎮座することからかつては男山八幡宮と称していた。
 平安時代前期に八幡の総本社である宇佐八幡宮(web)から勧請した神社で、全国の八幡社はこの男山八幡宮から勧請したところもけっこうある。鎌倉の鶴岡八幡宮(web)などもそうだ。
 東茶屋の八幡社は地図上では男山八幡宮になっているので、地元ではその方が通りがいいのかもしれない。神社本庁の登録名は八幡社となっている。
 茶屋新田を開発したのは尾張藩の呉服商人をしていた茶屋長意で、1663年から1669年にかけてのことだ。
 神社の由緒書きによると、茶屋家が日蓮宗の信徒だった関係で、三十番神の中の十一日番神に当たる八幡大菩薩(男山八幡宮)を祀って工事の完成を祈願して、新田完成後にあらためて男山八幡宮から勧請して八幡社を建てたという。
 その後、1815年(文化12年)に新田に水が入って社殿が流出してしまったため、しばらく茶屋新田の神明社と合併していた。
 明治17年(1884年)になって旧氏子たちがやはり自分たちの神社が欲しいということになって、旧地に再建したという経緯のようだ。



『尾張志』には「神明ノ社 茶屋新田にあり」とだけあって、八幡社は載っていない。『尾張志』の完成が1844年で、八幡社は1815年に流されているので当然といえばそうだ。
『尾張徇行記』(1822年)には「覚書ニ、神明社界内一段御国検除、熱田祢宜大原三右衛門持分」とだけあり、やはり八幡社については触れていない。



『尾張徇行記』は茶屋新田についてこんなことを書いている。
「此新田ハ福田新田前ニアリ、寛文三癸卯年開墾ナリ今ノ新川西ノ方ヨリ一番割 二番割三番割四番割五番割松山割トナラヒ、其南ヘ付東西ヘ沼河原午新田入土場 トナラヘリ、村落ハ一番割ト西ノ方沼河原ニ内ニアリ、是ヲ河原分ト云、一番割ノ方ニ 農屋多シ、寛文ノ覚書ニヨレハ、初開祖ノミキリ民戸只十八戸アリシカ(中略)
 此新田高ニ準シテハ戸口少ク、耕田アマリ福田蟹江アタリヨリ承佃スト也、 其内此新田百姓ハ多ク農業漁事ヲ兼生産トシ、農隙ニハ海辺ヘ出鰻○魚ヲカキ、 又運上ニテ鳥ヲ捕テ下一色村蟹江村問屋ヘウリツカワスト也、此地井戸ナシ渠ノ 水ヲ汲テ呑水トス、田面ハ皆沼田也」



 一番割に民家が多く、石高の割に戸数は少なかったようだ。農業だけでなく漁業も兼業している家もたくさんあって、それを下之一色村や蟹江村に売りに出ていたらしい。田んぼは湿田だったようだから、農民は舟で田んぼの間を移動していたかもしれない。



 茶屋家の名字は中島で、もともとは信濃守護の小笠原長時の家臣、中島明延が武士を捨てて京都で呉服商になったことから始まっている。それが大永年間(1521-1527年)の頃だった。
 当時の将軍の足利義輝が明延の屋敷にお茶を飲みによく立ち寄ったことから茶屋の号を使うようになったという。
 明延の子の清延は若い頃から家康に仕えて戦で活躍し、本能寺の変で家康を京から逃がすのを手助けしたことで徳川家の御用商人として取り立てられることになった。この清延が茶屋家としては初代ということになる。
 江戸時代になると茶屋家は幕府と徳川御三家の呉服商人となり、朱印船貿易も許可されたため、巨万の富を築いた。
 しかし、鎖国によって朱印船貿易ができなくなったため、新田開発に乗り出したというわけだ。
 尾張にやってきた新四郎長吉(長意)は初代清延の三男で、尾張茶屋家の初代となった。それが慶安年間(1648-1652年)のことで、茶屋新田を開発したのはこの茶屋長意だ。
 後に二代の長以が茶屋後新田を開発することになる(1677年)。
 京都の茶屋本家は江戸後期は振るわず、明治になって廃業したというから尾張でも同じような経緯を辿ったのかもしれない。
 新田もしばしば水害に遭い、明治になって人手に渡ったという。



 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、茶屋新田の集落は東の新川堤防沿いと、北の福田新田との間の道沿いに集まっていたことが分かる。南は七島新田の集落と重なっている。この頃にはかなり民家が増えている。
 西から南の一帯は田んぼが広がっていて、それは1990年代になってもあまり変わらなかった。
 ただ、近年は東茶屋3丁目に大きな火葬場ができたり、その隣にイオンモール名古屋茶屋(2014年開業)ができたりして、だいぶ街の様子も変わった。イオンモールの北には市営西茶屋荘の団地が建ち並んでいる。
 神社については神明社の鳥居マークは最初から最後まであるのだけど、八幡社を示す鳥居がない。1884年には再び独立しているから1888-1898年の地図にもありそうなものなのだけど描かれていない。
 八幡社の鳥居マークが現れるのは1968-1973年(昭和43-48年)の地図からだ。



 茶屋新田は東の新川から西の戸田川までの広い範囲に及んでいた。当時の茶屋家の財力を示している。
 今も茶屋家の子孫がどれほどの土地を所有しているのかは分からないけど、田んぼはずいぶん少なくなった。
 武士として戦場を駆け回っていたのが刀を捨てて商人となり、特権商人として莫大な財を成して、それを元手に大地主となり、明治維新や戦争や災害でそれらのほとんどを失い、今はそれぞれが一般市民として暮らしているのだろうけど、その間の茶屋家の500年が長いか短いかよく分からない。
 とりあえず神社は300年以上続いている。神社の寿命は長い。




作成日 2018.8.7(最終更新日 2019.7.28)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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