米が瀬弁財天

川中の大池に祀られていた弁天さん

米が瀬弁財天

読み方 こめがせ-べんざいてん
所在地 名古屋市北区米が瀬町 地図
創建年 1923年(大正12年)
社格等 不明
祭神 弁財天(べんざいてん)
 アクセス

・地下鉄上飯田線「上飯田駅」から徒歩約22分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 庄内川と矢田川に挟まれた狭い土地にある米が瀬。明治の中頃まで何度も川が氾濫して被害が出たというけど、地図を見てもそれはそうだろうと思う。危なっかしくて住むのが怖いくらいのところだ。
 米が瀬(こめがせ)はかつて「よねがせ」と呼ばれていて、成願寺村の支村だった。
 よねがせとは夜泣くという意味で、大雨で川が増水すると轟々と夜通し音を立てて流れたため心配で夜も眠れなかったことから付けられたという説がある。それはたぶん俗説だろうけど、ここがそういう土地だったには違いないと思わせる。
 1143年の「尾張国安食荘立券文」に成願寺村の「米里」が見えることから、そこから転じたという説もある。
 昭和46年(1971年)に北区成願寺町字米ヶ瀬の一部より成立した。

 神社境内に由緒書きがあり、創建からの流れが分かる。
 祭祀の始まりは大正12年(1923年)という。
 その頃このあたりは大水のせいで大小の池がたくさんあり、その中のひとつは周囲500メートルの大池で、大蛇が棲むといわれていたそうだ。
 中井なんとかという人がこの場所に遊園地を建てることになり、施設を水害から守るために弁財天を祀ったのが始まりとしている。
 西国の霊験あらたかなる辨財天の分身として浄才辨財天と名付けたというから、奈良県の天河大辨財天社(web)に関係があるかもしれない。
 最初は現在地から500メートルほど西の三百坪くらいの池の中央に祀られていたという。その池はすでになく、今はそこを矢田川が流れている。
 昭和5年(1930年)に始まった矢田川の付け替え工事(流路変更)に伴い、昭和7年(1932年)に現在地に移された。
 そのときまで矢田川は今より南を流れていた。安井二丁目、中切町、福徳、愛工前、稲生町の各交差点がある通りがかつての矢田川の流れだ。地図を見ても道が蛇行していてかつての流路がどんなふうだったかが分かる。
 成願寺、中切町、福徳町は庄内川と矢田川に挟まれた土地で、川中村といっていた。
 別小江神社(わけおえじんじゃ)や伊奴神社(いぬじんじゃ)といった式内社とされる古い神社は川辺にあって、成願寺六所神社、天神社、神明社、八龍社などは川中にあった神社ということになる。
 昭和20年(1945年)5月14日の名古屋空襲で成願寺、辻町、瀬古の一帯が焼失。辨財天社も焼けてしまった。
 しかし、祠の中にあった辨財天の神体は無事だったという。
 この神像の辨財天がちょっと変わっていて、右手に剣を持ち、左手には玉蓮を持っているんだそうだ。
 昭和43年(1968年)に再び土地を確保して祀る。
 昭和51年(1976年)には米が瀬に下水処理場ができることになり、関係各社がお金を出して再建して現在に至る。
 由緒書きはこのとき書かれたものだ。

 あらためていうまでもなく、神社の歴史は土地の歴史であり町の歴史だ。神社はそういった歴史を語り継ぐ役割も担っている。書物にも歴史は残るけど、一般の人が専門書や古文書などに触れる機会は少ない。神社ならいつでもそこにあって誰でも行ける。
 そういう意味でも、神社の由緒書きはぜひ境内に置いてほしいと思う。立派な碑を作るまでもなく、紙に印刷したものを貼っておくだけでいい。訪れた参拝者がそれを読んで、へぇと思うだけでも価値があると思うのだ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

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