味鋺神社

物部氏の祖ウマシマジ父子を祀る

味鋺神社

読み方 あじま-じんじゃ
所在地 北区楠味鋺2-736 地図
創建年 不明
社格等 式内社・郷社・六等級
祭神

宇麻志麻治命(うましまじのみこと)
味饒田命(まじにぎたのみこと)

 アクセス

・名鉄小牧線「味鋺駅」から徒歩約22分。
・駐車場 あり

webサイト  
オススメ度 **

 味鋺神社について分かっていることは少ないものの、謎というほどの謎はない神社だ。分かっていることと分かっていないことがはっきりしている。
『延喜式神名帳』(927年)に尾張国春日郡味鋺神社とあるのは、この神社でほぼ間違いないと思われる。もし間違いがあるとすれば、ここが春部郡ではなく山田郡だった場合だけど、庄内川から北はおそらく春部郡なので、その可能性はあまり考えなくもいいと思う。
 創建年や由緒についてはほとんど伝わっていない。記録類は兵火で焼けたり、庄内川の氾濫で流されたりしてしまったそうだ。ただし、遷座したという記録や言い伝えがないことから、神名帳にある味鋺神社とすることに無理がない。

 祭神として宇麻志麻治命(ウマシマジ)と、息子の味饒田命(マジニギタ)を祀っている。
 ウマシマジは物部氏の祖とされる人物で、父は饒速日命(ニギハヤヒ)とされる。
 ニギハヤヒは天火明命(アメノホアカリ)と同一神という説があり、アメノホアカリは尾張氏の祖神とされるから、そうなると尾張氏と物部氏は同族ということになる。
 アメノホアカリの息子に天香語山命(アメノカグヤマ)がいて、その先に尾張氏が続く。物部氏はウマシマジから続くから、図にするとこうなる。

 ニニギ=アメノホアカリ—ウマシマジ—物部氏
           └—アメノカグヤマ—尾張氏

 アメノカグヤマとウマシマジは異母兄弟ということになる。

 もともと父のウマシマジと共に祭神だった味饒田命(マジニギタ)は、現在の祭神の中には入っていないようだ。どこかの時点で漏れてしまったらしい。
 マジニギタは、阿刀(あと)氏の祖とされており、京都府京都市の阿刀神社(式内社)や滋賀県長浜市東物部の乃伎多神社などで祀られている。
 ウマシマジは、没したとされる島根県大田市の物部神社や、ウマシマジが祀ったとされる布都御魂剣がある奈良県天理市の石上神宮などの祭神となっている。

 庄内川北の味鋺(あじま)、味美(あじよし)地区にはたくさんの古墳が集まっている。
 100メートルを超える前方後円墳だったとされる味鋺大塚古墳をはじめとする味鋺古墳群と、現存する味美二子山古墳(96メートル)などがある味美古墳群が同族のものか別のものか、時期の違いなのか、くわしいことはよく分からない。ふたつの古墳群の距離は1キロほどしか離れていないところをみると無関係ということはなさそうだ。
 味鋺古墳群は少なくとも50基以上あったとされているが、宅地開発ですべて失われてしまった。
 時期としては5世紀から6世紀にかけてのものとされる。
 味美二子山古墳と熱田区にある断夫山古墳(だんぷさんこふん/150メートル)との共通点はよく指摘されている。どちらも築造時期が6世紀前半で、出土品が酷似していることから、埋葬者はかなり近しい関係の人物と考えられる。
 熱田は熱田神宮もあり尾張氏の本拠で、味美、味鋺は物部氏の本拠だ。6世紀前半における尾張氏と物部氏の関係をどう捉えるべきか。
 継体天皇の后となったのが尾張連草香の娘・目子媛で、断夫山古墳に尾張連草香が、味美二子山古墳に目子媛が埋葬されているという説がある。
 しかし、その場合、味美二子山古墳の上にはかつて物部天神があり、ウマシマジを祀っていたことをどう説明すればいいのかという問題がある。
 現在、二子山古墳近くにある白山神社は、もともと白山薮古墳の上にあったもので、味美二子山古墳の上にあった物部天神を合祀している。
 尾張氏の誰かを埋葬した古墳の上にウマシマジを祀る物部天神を置くということがあるのかどうか。もし二子山古墳の埋葬者がウマシマジだとしたらと考えると混乱してしまう。
 それにしても、50基以上の古墳が狭い場所に造られたということは、ある一定の期間、ここを物部氏が本拠としていたということを意味する。
 味鋺神社はその流れを受けて創建されたと考えていい。物部一族が祖神のウマシマジを祀ることはごく自然なことだ。
 物部氏は、神武天皇の東征に付き従い、のちに尾張国に定住したという。
 物部神社の社伝では、ウマシマジは美濃国、越国を平定したのち、石見国(島根県西部)で没し、現在の社殿の裏に埋葬されたとしている。

 味鋺(あじま)の地名は、味鋺神社から来ているとされる。ただ、味鋺の由来がよく分からない。『古事記』では宇摩志麻遅命(うましまじ)、『日本書紀』では可美真手命(うましまで)、『先代旧事本紀』では味間見命 (うましまみ)となっていて、どう転じたら味鋺(あじま)になるというのか。
「鋺」は「マガリ」や「マリ」と読み、水や食物を入れる器を意味する。
 味鋺神社も、もともとは「あぢまり神社」だったようだ。
 木へんの椀は文字通り木製の器で、石へんの碗は陶磁器の器のことをいう。金へんは金属の器ということになる。
「あじま」の「あじ」は悪しから来ていて、昔この辺が湿地帯の悪い土地だったからという説や、「味饒田」に由来するという説などもある。

 応仁の乱の兵火で焼け、室町時代は一時熱田神社の末社になっていたり、神仏習合で隣接する護国院(729年-748年に行基が建立)の鎮守になっていたこともあったという。
 江戸時代には六柱の神を祀っていることから六所明神、六所権現(『尾張志』)と呼ばれていた。
 祭神は、大日孁尊(オオヒルメノムチ/アマテラスの別名)、日本武尊(ヤマトタケル)、建角見命(タケツヌミ)、天児屋根命(アメノコヤネ)、武甕槌命(タケミカヅチ)、誉田天皇(ホムタワケ)。
 建角見命(タケツヌミ)のところが別雷命(ワケイカヅチ)となっているものもあり、どちらが正しいのか分からない。建角見なら下鴨神社(賀茂御祖神社)の祭神だし、別雷命なら上賀茂神社(賀茂別雷神社)の祭神ということになる。
 それにしても、なんてバラバラなメンバーなんだ。天児屋根命は春日大社の神だし、京都の下鴨神社か上賀茂神社で、武甕槌命は鹿島神宮の神だ。それに加えてアマテラスとヤマトタケルと応神天皇って、ものすごく強そうなチームだ。どういう経緯でこの六柱の神を祀ることになったのかは分からない。

 平安時代の1093年に競馬の神事が催されたのを機に、かつては例祭で流鏑馬神事が行われていた。戦後に途絶えて現在には伝わっていない。
『尾張名所図絵』(上巻1884年・下巻1880年)に神社の図絵が描かれており、流鏑馬の様子も書かれている。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

味鋺神社は春日井ではなく名古屋市北区にある

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