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味鋺神社

物部氏の祖ウマシマジ父子を祀る

味鋺神社

読み方 あじま-じんじゃ
所在地 名古屋市北区楠味鋺2-736 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 郷社・十等級・式内社
祭神 宇麻志麻治命(うましまじのみこと)
味饒田命(まじにぎたのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
別雷命(わけいかづちのみこと)
誉田別命(ほむたわけのみこと)
アクセス 名鉄小牧線「味鋺駅」から徒歩約22分。
駐車場 あり
その他 例祭 10月10日(体育の日?)
オススメ度 **

 味鋺神社について分かっていることはあまり多くないものの、謎というほどの謎はない神社だ。分かっていることと分からないことがはっきりしている。
『延喜式』神名帳(927年)の尾張国春日部郡味鋺神社は、この神社でほぼ間違いないと思われる。春日部郡と山田郡の境界線問題があるのだけど、それはここでは置いておく。
 創建年や由緒についてはほぼ伝わっていない。記録類は兵火で焼けたり、庄内川の氾濫で流されたりしてしまったという。遷座したという記録や言い伝えはない。

 祭神として宇麻志麻治命(ウマシマジ)と、息子の味饒田命(マジニギタ)を祀っていることから、神社を創建したのは物部氏もしくは関係一族と思われる。
 ウマシマジは物部氏の祖とされる人物で、父は饒速日命(ニギハヤヒ)とされる。
 ニギハヤヒは天火明命(アメノホアカリ)と同一神という説があり、アメノホアカリは尾張氏の祖神とされるから、そうなると尾張氏と物部氏は同族ということになる。
 アメノホアカリの息子に天香語山命(アメノカグヤマ)がいて、その先に尾張氏が続く。物部氏はウマシマジから続くから、兄弟の別筋ということになる。
 ただしそれは物部氏側から書かれたとされる『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)によるもので、尾張氏の系図では物部氏と同族とはしていない。
 味饒田命(マジニギタ)は阿刀(あと)氏の祖とされており(空海の母方は阿刀氏)、京都府京都市の阿刀神社(web)や滋賀県長浜市東物部の乃伎多神社(web)などで祀られている。名古屋でマジニギタを祀るのは、ここ味鋺神社だけだ。
 ウマシマジは、没したとされる島根県大田市の物部神社(web)や、ウマシマジが祀ったとされる布都御魂剣がある奈良県天理市の石上神宮(web)などの祭神となっている。

 庄内川北の味鋺(あじま)、味美(あじよし)地区は、たくさんの古墳が築造された地区で、大小併せて100基以上あったともいう。時期としては5世紀から6世紀にかけてのものだ。
 100メートルを超える前方後円墳の味鋺大塚古墳(消滅)をはじめとする味鋺古墳群と、味美二子山古墳(96メートル)などがある味美古墳群が知られる。これらすべてが同族のものか別のものか、時期が違っているのかどうかなど、くわしいことはよく分からない。ふたつの古墳群の距離は1キロほどしか離れていないから無関係ということはなさそうだ。 
 味美二子山古墳と熱田区にある断夫山古墳(だんぷさんこふん/150メートル)との共通点が指摘されている。どちらも築造時期が6世紀前半で、出土品が酷似していることから、埋葬者はかなり近しい関係の人物と考えられる。
 熱田は尾張氏の本拠で、味美、味鋺は物部氏の本拠だった。6世紀前半における尾張氏と物部氏の関係をどう捉えるべきか。
 継体天皇の后となったのが尾張連草香の娘・目子媛で、断夫山古墳に尾張連草香が、味美二子山古墳に目子媛が埋葬されているという説がある。
 しかし、その場合、味美二子山古墳の上にはかつて物部天神があり、ウマシマジを祀っていたことをどう説明すればいいのかという問題がある。
 現在、二子山古墳近くにある白山神社は、もともと白山薮古墳の上にあったもので、味美二子山古墳の上にあった物部天神を合祀している。
 尾張氏の誰かを埋葬した古墳の上にウマシマジを祀る物部天神を置くということがあるのかどうか。
 味鋺を本拠とした一族が物部氏だったのかどうかはともかく、味鋺神社は古墳を築造した氏族が創建した考えていいのではないかと思う。最初からウマシマジを祀る神社として建てられたのであれば、物部氏と考えるのが自然だ。
 その時期は早ければ古墳時代、飛鳥時代とも考えられる。

 味鋺(あじま)の地名は、味鋺神社の祭神であるウマシマジから来ているとされる。ただ、『古事記』では宇摩志麻遅命(うましまじ)、『日本書紀』では可美真手命(うましまで)、『先代旧事本紀』では味間見命 (うましまみ)となっているのだけど、どう転じたら「あじま」になるのかよく分からない。
「鋺」は「マガリ」や「マリ」と読み、水や食物を入れる器を意味する。
 味鋺神社も、もともとは「あぢまり神社」だったようだ。
 木へんの椀は文字通り木製の器で、石へんの碗は陶磁器の器のことをいう。金へんは金属の器ということになる。
 津田正生は『尾張国神社考』の中で、「うましまちのみやしろ」が略されて「あしまのみやしろ」となり、それが「あじま」という地名に転じたと書いている。『延喜式』の「味鋺」は当て字で本来は違うともいっている。

 応仁の乱の兵火で焼け、室町時代は一時、熱田神社の末社になっていたり、神仏習合時代は隣接する護国院(729年-748年に行基が建立)の鎮守になっていたこともあった。
 江戸時代には六柱の神を祀っていることから六所明神、六所権現と呼ばれていた。その関係で、天照大御神、天児屋根命、日本武尊、武甕槌命、別雷命、誉田別命が祭神として祀られている。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「神武天皇開国の砌り、宇麻志麻治命、物部氏を率いて、この尾張地方を平定後は此の里に居住され、御子味鋺田命と共に陵墓は二子山に葬ると近くに180ヶ所の墳墓がある。応仁の乱(1467-1477)の兵火に社殿、古記録は焼失する庄内川度々氾濫し社殿の維持運営に里人賢明の努力をした。『延喜式神名帳』に春日井郡味鋺神社とあり、『国内神名帳』従三位味鋺天神とある神社なり。寛治七年(1093)競馬の神事を催されたたのが始めで、戦前は例年流鏑馬が行われ有名であった。加藤清正慶長十五年(1610)名古屋城築城の際石を運ぶ石橋が境内に残る。明治40年10月26日供進指定社となる」

『尾張志』(1844年)には「味鋺村にありて今は六所権現と稱す」とある。
 物部神社については「延喜式神名帳に見えたり在所定かならす」としている。
『尾張徇行記』(1822年)によると、当時の味鋺村には神明、白山、六所大明神、天道、八幡、八龍、天神の7つの社があって、すべて前々除とある。
「府志曰」として、「味鋺神祠在味鋺村、俗云六所明神」と書く。
 その他、天野信景の『塩尻』の内容を紹介している。それによると、味鋺村の六所明神は『延喜式』神名帳の味鋺神社に違いなく、社名を忘れ、祭神が分からなくなり、六体の神像があることから六所明神と称するようになったのだろうとし、本来の祭神はウマシマジの子の味饒田命とする。
『寛文村々覚書』(1670年頃)にも「六所大明神」とあるので、中世には六所明神と称されるようになったのではないかと思われる。
『尾張名所図会』(1844年)には味鋺神社(あぢまのかみのやしろ)とあり、絵図の他、例祭の様子が描かれる。
「例祭 八月二十九日。味鋺川の側にある御宿院へ神幸あり。其次第は榊・獅子・旗・鉾・弓等を持ち行き、次に子供、笛太鼓にて路楽を真似たり。各鳥甲を着す。これを子供伶人といふ。神輿の跡より、若き者陣羽織を着し、兜□頭巾(とつばいづきん)をかむりて三人、裃・鉢巻の一人供奉す。馬は引かせ行くなり。神輿還幸ありて後、各馬場にて騎射あり。夫よりさまざまの曲騎をなす」

 味鋺の地は庄内川の右岸(北側)で、長らく湿地帯だった。水田を作るには適していただろうけど、古墳を築くにはあまり向かなかったのではないかと思うのだけどそうでもなかったのか。100基以上の古墳が築造された地区は名古屋市や近郊では味鋺・味美地区と守山区の志段味地区だけだ。100年から200年の間にそれだけの古墳を造ったということは相当な人数が暮らしていたということだ。大きな前方後円墳は数基で他は円墳や小さな塚程度だったにしても、100基というのは尋常ではない。物部一族のお墓というだけではなかったかもしれない。
 それだけの古墳を築いた人たちは奈良時代以降どうなってしまったのか。江戸時代でもここは特別大きな村落ではなかった。古い神社も味鋺神社と物部神社くらいしかなく、『尾張名所図会』に描かれる味鋺神社はどちらかといえば小さな神社だ。
 中央の物部氏が没落するのにともなって尾張でも衰退して神社だけがわずかに残されたということだろうか。それでも神社が残ったということは、少なくともそれを守る一族がいたということで、あるいは今もこの地に物部氏の末裔が暮らしているのかもしれない。
 味鋺神社が残らなければ、今の名古屋に暮らす私たちは物部氏のことを忘れてしまっていただろう。神社は一族がこの世に生きて命をつないだ証でもある。

 

作成日 2017.2.28(最終更新日 2019.7.10)

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