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多奈波太神社


縄文から続く棚機津女の幻を見るか



多奈波太神社鳥居と拝殿

読み方たなばた-じんじゃ
所在地名古屋市北区金城4丁目13-16 地図
創建年不明
旧社格・等級等村社・七等級
祭神天之多奈波太姫命(あめのたなばたひめのみこと)
應神天皇(おうじんてんのう)
大山津見神(おおやまつみのかみ)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
大己貴命(おほなむちのみこと)
アクセス地下鉄名城線「名城公園駅」から徒歩約8分
駐車場 あり
webサイト 公式ブログ
その他七夕まつり 旧暦7月7日(8月7日)
オススメ度

「たなばた」神社の名前の通り、七夕や棚機に関係があるのだけど、その前に、この神社はいつ、どの場所に創建されたかがポイントとなる。
 現在は、名古屋城(web)天守(地図)から見て約1キロ北東の黒川北岸にある。江戸時代には確かにここにあったことが『尾張志』などから分かる。深い森に囲まれていて、七夕の森などと呼ばれていた。
 問題は名古屋城築城の際に現在地に移されたという言い伝えがあることだ。
 のちに三の丸となる場所(地図)にあった若宮天王八王子については遷座のいきさつがはっきり伝わっているのに対して多奈波太神社はそうではない。これがまずよく分からない。
 津田正生は『尾張国神社考』の中でこう書いている。
「旧地は、御深井(おふけ)の郭内(かくない)に入て、今は其の地さへ詳(さだか)に知る者なし」
 御深井というのはやっかいな言い回しというか表記で、名古屋城天守の北西に張り出した部分を御深井丸(地図)という他、その外の堀は御深井堀で、現在の名城公園(地図)を含む一帯を御深井の庭と呼んだ。なので、御深井にあったということが城内のことなのか城外のことなのか判断が難しい。
 ただ、郭内というからにはやはり城郭内の御深井丸の場所ということなのだろう。だとすれば、これは大変意味のある見逃せない事実ということになる。
 御深井丸のあたりは名古屋台地(熱田台地)の北西の縁(へり)で、そのすぐ北は10メートルも高低差がある断崖だった。古代、崖下は入り海で、名古屋城築城時でさえ沼地だったという。
 当然ながら多奈波太神社が創建されたときはまだ名古屋城はなく、もちろん、北の堀もない。台地の上も、二の丸から本丸、御深井丸にかけては一部が沼地だったという。
 どうして御深井丸の場所に多奈波太神社があることがそんな重大かといえば、すぐ南の三の丸となる場所に若宮と天王、八王子があったからだ。いずれも古い神社で、距離の近さからしてそれらの神社と多奈波太神社がまったくの無関係だったとは思えない。
 若宮と天王、八王子の位置関係ははっきり分からないのだけど、名古屋城築城当時の絵図では天王と八王子が横に並び、若宮は少し離れた東に描かれている。
 しかし、絵図に多奈波太神社は描かれておらず、御深井には宗像社が描かれている。この点もよく分からない。
 若宮の創建は、文武天皇時代の大宝年間(701-704年)とも、天武天皇時代(在位673年-686年)ともされる古い社だ。これだけ古い社が『延喜式』神名帳(927年)に載っていないのは不自然で、個人的にはこれが式内の孫若御子神社ではないかと疑っている。
 天王社の創建は911年(延喜11年)と伝わる。
 多奈波太神社の創建については詳しいことが伝わっていないものの、『延喜式』神名帳にある「山田郡多奈波太神社」で異論は出ていない。
 だとすれば、多奈波太神社が創建順でどこに入るかということになるのだけど、ひょっとするとこれが一番古いかもしれない。



『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが、『延喜式神名帳』に山田郡、多奈波太神社『本国神名帳』には正四位下多奈波太天神とある。『尾張名所図会』『尾張志』にも同様に記るし、今七夕の森と称して7月7日の例祭には灯りをかかげて諸人参詣すとある。口碑に社地広大なりしが慶長十七年(1612)築城の際換地あり、徳川斎朝(源順公)この森にて里人の獅子舞を大幸川の向垣の亭より眺められ神酒を振る舞われた、家臣短冊、色紙を多数奉納したという。明治5年村社に列格し、大正11年25日(ママ)、指定社となる。昭和39年社殿防火建に改める」



『尾張志』(1844年)、『尾張名所図会』(1844年)ともに田幡村にあって、七夕の森と呼び、天棚織姫命を祀るとしている。
『尾張志』は田幡村はタナバタから来ているかもしれないけど定かではないと書く。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の田幡村の項には、金神、山神、天道があるとしている。
『尾張徇行記』(1822年)も金神、山神、天道があるとし、金神と山神は前々除で、天道は備前検除としている。
 どうやらこの天道が多奈波太神社のようなのだけど、だとしたら前々除ではなく備前検除だったのは何故なのかが気になる。
 前々除というのは1608年に行われた備前検地のときすでに除地となっていたということで、備前検除はその備前検地のとき除地となったことを意味する。江戸時代以前の古い寺社は前々除のところが多い。
 いずれにしても、これら江戸時代の書から創建のいきさつを知ることはできない。



『北区の歴史』は秦氏や渡来系の人が祀った神社の可能性を指摘する。
 確かにその可能性はあるだろうけど、個人的にはなんでもかんでも古い時代の優れたものを渡来系由来とするのには反対だ。確かに大陸や半島から進んだ文化や技術は伝えられたし、海を越えて人も渡ってきただろうけど、だからといって彼らが日本列島を席巻したわけではない。日本列島には縄文人やその前の旧石器人たちも大勢暮らしていて、独自の文化や祭祀を持っていた。それらが短期間に簡単に塗り替えられたとは考えにくい。



 天之多奈波太姫命は『古語拾遺』に出てくる機織の女神で、アマテラスが天岩屋に隠れて出てこなくなったとき、献上する衣を織った神とする。
 別名を天之八千千比売命といい、アマテラスが高天原にいるとき、蚕の繭からとった絹糸で衣を織って作ったともされる。
 古代の日本には棚機津女(たなばたつめ)と呼ばれる女性がいた。日本古来の思想であり、風習であり、伝統、祈りの象徴的な存在だ。 
 旧暦の7月15日に、水の神が天から下りてくると信じられていて、海や川のほとりに棚(神聖な借宿)を建て、村の中で選ばれた穢れのない少女がその中で機(はた)を織って神に捧げる儀式が行われた。
 それは同時に少女自身を神に捧げ、客神(まろうど)の一夜妻になって神の子を宿す役割も担っていた。
 そんな儀式が縄文の昔から続いたという。
 縄文時代までは確かにこのすぐそばまで入り海が来ていたことは発掘された貝塚などから分かっている。その後、弥生時代から古墳時代にかけて徐々に海岸線は後退した。
 名古屋北西部の内陸深い土地にある海や島にまつわる地名はその頃の名残と考えられる。津島、長島、枇杷島、沖島、中島郡一宮などがそうだ。更に北の岐阜県にも東島、大島、西島、福島などの地名がある。
 多奈波太神社のルーツが棚機津女にあるとするならば、そこには当然、水がなければならない。
 現在地のすぐ南を流れている黒川は明治になって掘られた人口の水路で(その前は江戸期に掘られた御用水と呼ばれる水路だった)、庄内川は近いところでも2キロ以上離れているから遠すぎる。
 神社創建の時代はもっと後としても、棚機津女の棚が建てられた頃は海辺だったと考えていいのではないだろうか。多奈波太神社の起源は、縄文、弥生時代までさかのぼれるかもしれない。
 七夕は、もともと中国の五節句のひとつ「しちせき」から来ている。
 旧暦7月7日、庭に竹を立て、短冊に願いを書いて牽牛星と織女星を祭る行事だった。
 女性が裁縫の上達を織女星に願う乞巧奠(きっこうでん)が中国から伝わったのが奈良時代とされる。
 それが棚機津女と結びつき、宮中で行われる七夕となり、庶民の間にも広がっていき、七夕まつりとして定着した。



 戦国時代に駿河の今川氏親が尾張の地に進出したとき、その前線基地として柳ノ丸を築いたのが那古野城の始まりとされる。それはのちの名古屋城の二の丸となる場所(地図)にあった。
 織田信秀がその城を奪い、増築して那古野城と名付けたのが1532年のことだ(1538年説もある)。
 2年後の1534年に信長は那古野城で生まれたとされる(勝幡城誕生説もある)。
 1555年に清洲城(web)に移るまで信長は那古野城主としてこの地で過ごしている。
 その信長によって多奈波太神社は焼き討ちにあったという話が伝わっている。そのとき社殿とともに伝書なども失われてしまったという。兵火にあったというなら合戦の最中に燃えたということになるけど、焼き討ちというのはどういうことなのか。
 信長はうつけと呼ばれた暴れん坊で、後年の残忍なイメージが強いけど、若い頃はけっこう神社を大事にしている。桶狭間の戦いに臨んだときも、熱田神社をはじめ、白山社日置社などで戦勝祈願を行っているし、勝ったあとはお礼として松林や信長塀などを贈るという律儀さも見せている。理由もなく神社を焼いたりはしない。そもそも信長の織田家は越前の劔神社の神官の家系ともいう。
 当然、信長も、この神社が古い由緒のある神社ということは分かっていたはずだ。その理由がなんだったのかは、今となっては分からない。信長がやったことではない可能性もある。
 那古野城時代を考えると、二の丸に那古野城があり、三の丸に若宮と天王、八王子が、御深井丸に多奈波太神社という配置となる。周辺には沼地が広がっている。
 信長が清須へ移ってほどなくして那古野城は廃城となっている。50年近く経ったのち、家康がこの場所に目を付けてあらたに名古屋城を築城するとなったときは、森と沼地と荒れ果てた城跡と社があるだけの場所だった。
 名古屋城築城後、尾張藩によって多奈波太神社は改修され、東照宮の管轄となるとともに一般人は立ち入り禁止とされた。これも理由がよく分からない。どうして急に閉ざしてしまったのか。何か特別な理由があったのだろうか。
 ただし、毎年旧暦7月7日の七夕まつりのときだけは庶民に開放され、藩主も訪れ、大勢の人で賑わったという。
 明治に入ると、今度は突然、八幡社になってしまう。これも理由がさっぱり分からない。
 明治9年(1876年)には、名古屋城に名古屋鎮台が置かれることになり、三の丸にあった天王社と東照宮は城外に移された。
 庭園になっていた御深井の庭は陸軍のものとなり、木々は切り倒され、沼地は埋められ、広大な土地は練兵場になった。



 もしこの神社が古代の棚機をルーツとする神社だとすると、縄文時代までさかのぼる可能性がある。そこまで古くはないとしても、機織が何らかの形で神社創建につながっている可能性はけっこう高いのではないか。
 海辺の小さな機織小屋で少女が機を織っている姿を思い浮かべてみる。それはあまりにも遠い日の出来事で、ぼんやりかすんで幻のようだ。
 多奈波太神社では今でも旧暦7月7日に七夕まつりが行われている。その日は機織の少女の霊がここに戻ってくるのかもしれない。




作成日 2017.3.27(最終更新日 2019.9.17)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

多奈波太神社は七夕と棚機の神社

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