義市稲荷神社(地図)の70メートルほど北東の民家の庭に祀られている。 入り口に鳥居はなく、社号標は駐車している車に隠れてほとんど見えない。部外者が入っていっていいものかどうか迷う。 義市稲荷はこの地に屋敷を構えた尾張藩付家老の竹腰正信邸に祀ったのが始まりとされる。1628年のことという。 竹越家については義市稲荷神社のページに書いた。 こちらの社宮司神社も竹腰家に関係している。 ネット情報によると、1684年に竹腰屋敷の守護のため東北の鬼門に伊斯許理度賣命(イシコリドメ)を祀ったのが始まりという。 情報の出所が分からないのでそのまま信じていいのかどうか判断がつかないのだけど、そういう話が出てくること自体、まったく根拠のないことではないのだろう。 1684年というのが本当であれば、竹腰正信から数えて三代目に当たる友正の時代だ。正信は1645年に死去し、その後を継いだ正晴も1677年に亡くなっている。 それよりもやはり一番引っかかるのは伊斯許理度賣命を祀ったということだ。
伊斯許理度賣命は『古事記』の表記で、『日本書紀』では石凝姥命となっている。 イシコリドメは鏡作連(かがみづくりのむらじ)らの祖神で、三種の神器のひとつ八咫鏡(やたのかがみ)を作ったとされる神だ。 天拔戸/天糠戸(アマノヌカト)の子供で、女神とされる。 アマテラスが天岩戸に隠れてしまったときに八咫鏡を作った。 瓊瓊杵尊(ニニギ)が降臨するときに天児屋命(アメノコヤネ)、太玉命(フトダマ)、天鈿女命(アメノウズメ)、玉祖命(タマノオヤ)と共に五伴緒神(いつとものおのかみ)のうちの一柱として随伴したという。 鏡作連は石の鋳型を使って鏡を作った一族と考えられている。 岡山県津山市の中山神社は鏡作大神を主祭神として、相殿で天糠戸神(アマノアラト)と石凝姥神を祀っている。 その他、大阪市天王寺の鞴神社、奈良県磯城郡の鏡作坐天照御魂神社などでも祀られており、金属加工や鋳物の神とされている。
そんな鏡作りの神を竹腰屋敷の守り神として祀るだろうか? 竹腰家は宇多源氏・佐々木信綱から出た武家で、神官の出などではない。源氏の武家とイシコリドメはまったく結びつかない。三代目の友正が個人的に信仰した対象としてもピンと来ない。 社名の社宮司が最初からだったのか明治以降のことなのか分からないのだけど、一般的に社宮司というとミシャクジ信仰から発したものが多い。石神などとも表記される民間信仰だ。 それとは別に諏訪地方の古い信仰から来ているという説もある。 考えられるとすれば、石の鋳型を使っていたということと石信仰が結びついて社宮司になったという流れだけど、この神社は明治になるまで竹腰邸の中の私的な社だったことからすると民間信仰とは関係がない。 明治になって竹腰家が美濃今尾藩を与えられて独立して名古屋を引き払ったのを受け、竹腰家の家臣が預かることになり、一般の参拝ができるようになった。 もともと名前がなかったのをそのときに社宮司神社と名づけた可能性は考えられる。イシコリドメを祀るとしたのも、そのときの後付けかもしれない。
この場所はおそらく江戸時代の杉村になると思うのだけど、『尾張志』や『尾張徇行記』など江戸期の書に手がかりは見つけられない。竹腰家の個人宅で祀る社までは書かれないのは当然だ。 ちなみに『尾張志』の杉村はこうなっている。 「富士社 白山社 三狐神ノ社 三社ともに東杉村にあり」 「神明社 八劔社 八幡社 春日社 愛宕社 五社ともに中杉村にあり」 「春日社 八王子社 西杉むらにあり」 この場所は東杉村に当たるので三狐神ノ社というのがちょっと気になる。これが社宮司のことだったりするだろうか。
神社のすぐ北を走る名鉄瀬戸線はかつての瀬戸電気鉄道で、社宮祠(しゃぐうじ)という駅(停留所)があった。 瀬戸電気鉄道は明治38年(1905年)に矢田 – 瀬戸間で開通し、明治44年(1911年)に堀川駅まで伸びた。社宮祠駅ができたのもそのときだ。 当時の駅は、西から清水、尼ケ坂、師範下、社宮祠、坂下、森下だった。駅間がすごく短かったようだ。師範下は愛知第一師範学校の下で(今の名古屋市工芸高校の場所にあった)、社宮祠は社宮司神社の最寄り駅で、坂下は下街道近くということだったのだろう。今の名鉄瀬戸線に師範下、社宮祠、坂下はない。 昭和14年(1939年)に瀬戸電気鉄道は名古屋鉄道と合併して、この路線は名鉄瀬戸線になった。社宮祠駅は昭和19年(1944年)に営業を停止した。 高架になったのは平成2年(1990年)のことだ。
現在も社宮司神社を守っているのは竹越家家臣の子孫の方だろうか。何か分かったら追記したい。
作成日 2018.6.18(最終更新日 2019.2.21)
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