闇之森八幡社

名古屋心中の舞台となった為朝伝説ゆかりの社

闇之森八幡社全景

読み方 くらがりのもり-はちまんしゃ
所在地 名古屋市中区正木2-6-18 地図
創建年 1163年(平安時代後期)
社格等 郷社・七等級
祭神

応神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
仁徳天皇(にんとくてんのう)

 アクセス

・名鉄名古屋本線「尾頭橋駅」から徒歩約10分
・名鉄/JR/地下鉄「金山駅」から徒歩約15分
・駐車場 あり(無料/境内)

webサイト  公式FaceBook
オススメ度 **

 かつは月の光も差し込まないと歌われたことから「闇之杜(くらがりのもり)」と呼ばれた八幡社が中区にある。
 大正13年(1924年)に新愛知新聞社(現在の中日新聞)が選定した名古屋十名所のひとつに入るほどだったこの神社も、今はもう、かつての面影をわずがにとどめるだけとなっている。

  闇森八幡を一躍有名にしたのが、江戸時代中期の1733年に起きた心中未遂事件を描いた「睦月連理玉椿(むつまじきれんりのたまつばき)」だった。一般的に「名古屋心中」として知られる浄瑠璃で、翌年に名古屋で大当たりとなり、続いて江戸でもヒットして闇森を全国区にした。
 遊女・小さんと日置の畳職人・喜八が、ここ闇森で心中を図り未遂に終わる。
 江戸時代、心中は大変重い罪とされ、たとえ生き残ったとしても三日間さらし者にされて身分を奪われることになっていた。
 しかし、当時の尾張藩は第七代藩主の宗春の時代だった。吉宗の倹約をモットーとする享保の改革(きょうほうのかいかく)に反対して芝居小屋や遊廓を建てたりして商業の活性化を推進した尾張名古屋の名物藩主だ。現在まで続く名古屋の商業、文化、芸術の基礎は宗春が作ったといってもいい。
 そんな宗春は、この心中未遂の話を聞き、三日間さらし者にしたあとは二人を親元に帰すように命じ、二人は結婚して幸せに暮らしたという。
 これを浄瑠璃にしたのが宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)で、豊後掾はのちに豊後節を創始して、これらの流派は豊後系浄瑠璃と呼ばれるようになる。
 この話は後年、宗春の時代を記録した『遊女濃安都(ゆめのあと)』などでも書かれることになるのだけど、やりすぎた宗春はついに吉宗によって隠居謹慎を命じられ、以降30年近く、一切の外出を禁じられ、死ぬまで許されることはなかった(吉宗の死後は少し緩やかになった)。尾張藩の財政は宗春の政策で大きく傾いたのもまた事実だった。

 創建は平安時代後期の1163年。源為朝(みなもとのためとも)が京都の石清水八幡宮から勧請して建てたと伝わる。
 しかし、為朝はこの時期、伊豆大島に島流しにされているときだから、尾張で神社を建てるなんてことができたはずはない。
 根拠のひとつとして、為朝は尾張の古渡あたりで平家打倒のための兵を集めたからというのだけど、それにしても年代が合わない。

 1139年。源為義(ためよし)と摂津国江口(大阪市東淀川区)の遊女との間に生まれたという(八男)。
 為義の嫡男が義朝(よしとも)で、義朝は頼朝、義経の父だ。為朝から見ると義朝は兄で、頼朝、義経から見ると為朝は叔父にあたる。
 2メートルを超える大男(7尺)で、気性が荒く、生まれながらの乱暴者だったとされる。
 弓の名手で、少年時代から手下たちを集めて暴れ回っていたため、父の為義に勘当され、九州にやられてしまう。まだ13歳の頃のことだ。
 しかし、まったく悪びれない為朝は、九州でも家来を集めて大暴れし、ついにはあたり一帯を制覇して鎮西八郎(鎮西総追捕使)を名乗るようになる。
 その後、九州の豪族たちを攻め滅ばし、わずか3年で九州を平定してしまった。1154年のことだ。15や16の少年のやることではない。
 あまりの乱暴ぶりに朝廷に訴えられるもそれに従わなかっため、翌年、父の為義が検非違使の官職を解かれるという事態に陥る。さすがにあわてた為朝は家臣を連れて京都に出向いていった。
 ここで起きたのが保元の乱(1156年)だ。鳥羽法皇崩御に伴い、崇徳上皇と後白河天皇の間で衝突が起こり、為義・為朝父子もその争いに巻き込まれることになる。
 本人たちの思惑がどうだったかは別にして、結果として招かれる形で為義と6人の子は崇徳上皇側につくことになる。為義はだいぶ嫌がっていたらしい。
 一方、嫡男の義朝(頼朝・義経の父)は、関東に地盤があったので後白河天皇の側についた。これが兄弟で明暗を分けることになる。
 為朝は得意の弓で大活躍するものの、戦は後白河天皇・義朝側の勝利で終わる。
 父・為義とその子らは降伏して出頭するも、勅命によって義朝に斬首された。
 為朝だけは再起を期して西へ逃げ、近江国坂田(滋賀県坂田郡)の地に隠れた。
 しかし、密告により捕まり、京へ護送されることになる。それを見ようと大群衆が押しかけたという。
 世に聞こえた強者を死なせるのは惜しいということで命は助けられることとなり、伊豆大島に流刑となった。
 さすがに少しは懲りただろうと思いきや、その後の10年ですっかり伊豆七島を支配下に治めてしまった。1165年のことだ。
 1170年、年貢も払わず好き放題に暴れていたところを告発され、都から討伐軍が送り込まれてきた。ついに観念した為朝はここに自害して果てたという。享年32。
 死没年は1177年説もあり、実はここでは死なず沖縄まで逃げ落ちて、息子が初代琉球王・舜天(しゅんてん)になったなど、各地で数々の伝説を残すことになる。
 尾張の闇森八幡もそのひとつということが言えるんじゃないだろうか。

 境内には為朝が愛用した甲冑を埋めたとされる鎧塚(為朝塚)がある。
 為朝伝説には続きがある。
 伊豆大島で生まれた為朝の子が島を脱出して尾張の古渡にやってきて尾頭(おかしら)を名乗ったというものだ。あるいは、自害したときすでに島の女のお腹に為朝の子がいて、その女が島を脱して上方へ向かう途中、古渡の地で男子を産んだともいう。
 その尾頭次郎義次も父譲りの剛の者で、この地で相当暴れていたらしい。
 話を耳にした土御門天皇が紀州にいる悪党を退治すべく義次にその任を与えたところ、見事悪党集団をやっつけて鬼の首(頭)を持ち帰ったので、褒美として鬼頭の姓を与えたという。
 古渡の地も安堵され、代々鬼頭を名乗りこの地で暮らしたとされる。名古屋や近郊に鬼頭姓が多いのはここから来ているのかもしれない。尾頭は地名として尾頭橋(おとうばし)などに残っている。
 闇之森八幡社は、鬼頭家が創建して、そこに為朝伝説が融合したと考えるのが合理的だと思うけどどうだろう。

 一番古い棟札に、永正十八年(1521年)、鶴見道観らが造営したとある。
『尾張名所図会』の中に、小栗街道(鎌倉街道)沿いの風景として、古渡稲荷神社、犬見堂、古渡橋とともに闇森八幡宮が描かれている。森の中に神社が埋もれている感じだ。
 織田信秀(信長の父)がこの近くに古渡城(現在の東別院のあたり)を築城(1543年)した際に社殿を修造した他、尾張徳川藩も代々大切に守った。
 明治5年(1872年)、村社に列格。昭和6年(1931年)、郷社に昇格。
 第二次大戦の空襲(1945年)で社殿焼失。伊勢湾台風(1959年)により社殿倒壊。
 昭和35年(1960年)、社殿が再建され、現在に至る。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

くらがりの森といわれた闇之森八幡社も今は昔

HOME 中区

スポンサーリンク
Scroll Up