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八幡社(闇之森八幡社)

埋もれた真実は闇の中

闇之森八幡社全景

読み方 はちまん-しゃ(くらがりのもり)
所在地 名古屋市中区正木2丁目6-18 地図
創建年 1163年(平安時代後期)
旧社格・等級等 郷社・七等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
仁徳天皇(にんとくてんのう)
アクセス 名鉄名古屋本線「尾頭橋駅」から徒歩約10分
名鉄/JR/地下鉄「金山駅」から徒歩約15分
駐車場 あり(境内)
webサイト 公式FaceBook
その他 例祭 10月15日
オススメ度 **

 かつて月の光も漏れないと歌われたことから闇之杜(くらがりのもり)と呼ばれた森の八幡社。
 正式名は八幡社のはずだけど、闇之森八幡社として通っている。

  闇森八幡を一躍有名にしたのが、江戸時代中期の1733年に起きた心中未遂事件を描いた「睦月連理玉椿(むつまじきれんりのたまつばき)」だった。「名古屋心中」として知られる浄瑠璃で、翌年に名古屋で大当たりとなり、続いて江戸でもヒットして闇森を全国区にした。
 遊女・小さんと日置の畳職人・喜八が、ここ闇森で心中を図り未遂に終わる。
 江戸時代、心中は大変重い罪とされ、たとえ生き残っても三日間さらし者にされて身分を奪われることになっていた。
 しかし、当時の尾張藩は第七代藩主の宗春の時代だった。江戸の将軍・吉宗の倹約を第一とする享保の改革(きょうほうのかいかく)に反対して芝居小屋や遊廓を建てたりして商業の活性化を推進した尾張名古屋の名物藩主だ。現在まで続く名古屋の商業、文化、芸術の基礎は宗春が作ったといってもいい。
 そんな宗春は、この心中未遂の話を聞き、三日間さらし者にしたあとは二人を親元に帰すように命じ、二人は結婚して幸せに暮らしたという。
 これを浄瑠璃にしたのが宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)で、豊後掾はのちに豊後節を創始して、これらの流派は豊後系浄瑠璃と呼ばれるようになる。
 この話は後年、宗春の時代を記録した『遊女濃安都(ゆめのあと)』などでも書かれることになるのだけど、やりすぎた宗春は吉宗によって隠居謹慎を命じられ、以降30年近く、一切の外出を禁じられ、死ぬまで許されることはなかった(吉宗の死後は少し緩やかになった)。尾張藩の財政は宗春の政策で大きく傾いたのもまた事実だった。

 この神社について『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「古くは若宮八幡社、俗に闇(くらがり)の森八幡という。『尾張志』に源為朝の長寛元年(1163)の創建とする。永正十八年(1521)11月、鶴見道観ら造営した。徳川時代には二月初午、十一月初辰に神事を行い饗を神殿上にはなちて烏にはましめる烏祭あり、明治5年、村社に列格し、明治15年9月社殿を改造明治31年1月、指定社となる。昭和6年12月10日、郷社に昇格した。”御手洗池に昔片目鮒あり捕えて祈り、快癒の後鮒二尾をそえ池に放つ。これらの鮒みな片目となれりという”『名陽図会』昭和20年空襲にて本殿、弊殿、拝殿被災。昭和22年本殿、拝殿完成。昭和34年9月26日伊勢湾台風により再び被害。昭和35年10月10日、本殿、拝殿完成式を行う」

『尾張志』(1844年)の引用から創建を1163年源為朝(みなもとのためとも)によるとしている。その『尾張志』にはこうある。
「古渡村にあり俗に闇杜(クラガリノモリ)といふ應神天皇神功皇后仁徳天皇三坐をまつるよしいへり當社はむかし鎮西八郎源為朝創建其後造営数度ありて後柏原天皇永正十八年藤原道観(鶴見氏)全秀徳圓秀國及福岡珍海等ともに力をあはせて造営せしよしいひ傳へたり」
 しかし、1163年といえば、源為朝は伊豆大島に島流しにされているときなので、尾張で神社を建てるなんてことができたはずはない。
 為朝は尾張の古渡あたりで平家打倒のための兵を集めたからというのだけど、それにしても年代が合わない。

『尾張名所図会』(1844年)はこう書く。
「古渡橋筋の北側にあり。祭神 應神天皇・神功皇后なり。又鎮西八郎為朝の靈を合せ祭るともいふ」
 ここでは為朝が創建したのではなく為朝が祀られているとしている。
 もともと若宮八幡社といっていたということは、若宮が始まりで、のちに八幡社となったとき應神天皇と神功皇后を祀り、若宮八幡と呼ばれ、應神天皇の息子の仁徳天皇も祀るようになったという流れかもしれない。
 源為朝と古渡にはゆかりがあって、為朝の息子、尾頭次郎義次がこの地にやってきて土着したという話があるので、尾頭次郎が為朝を祀ったとも考えられる。そうだとすれば、創建年は1163年よりも後ということになるはずだ。
 あるいは、若宮自体はもっと時代をさかのぼる可能性がある。
 というのは、ここ古渡という土地は熱田台地の南西部で古い歴史を持つ場所だからだ。
 弥生時代から古墳時代、中世にかけての痕跡が残る伊勢山中学校遺跡をはじめ、正木町遺跡、東古渡遺跡、金山北遺跡、古沢町遺跡などがあり、尾張最古ともいわれる7世紀半ばの尾張元興寺も古渡に建てられた。
 古渡の地名は、熱田台地の西が海だった時代に渡し(湊)があり、熱田にあらたに湊ができたので古渡と呼ばれるようになったともいう。
 古東海道の駅家である新溝駅は古渡にあったというのも有力な説となっている。
 この神社がもともと若宮だったとしたら、創祀は古墳時代、もしくは飛鳥時代だったかもしれない。若宮というのは不慮の死を遂げたり、恨みをもって死んだ人間が怨霊化しないように祀った例が多い。
 尾張元興寺跡から見つかった瓦は、大阪曳野市の野中寺(やちゅうじ)で見つかったものと共通のものということが分かっており、野中寺は飛鳥時代に渡来系氏族が創建したとされる。
 飛鳥時代の畿内勢力と尾張の古渡に何らかのつながりがあったことは確かで、若宮と尾張元興寺との関係も考えられる。

『愛知縣神社名鑑』が書いている烏祭というのも気になる。
 初午(はつうま)は2月最初の午の日のお祭りで、もともとは稲荷社の祭りだ。伏見稲荷大社(web)の祭神の宇迦御霊神(ウカノミタマ)が伊奈利山に降り立ったのが711年(和銅4年)の2月11日で、その日が初午だったことが起源とされる。
 初辰(はつたつ)の起源についてはよく分からない。大阪摂津の住吉大社(web)のお祭りとして初辰まつりは知られている。
 その初午と初辰の日に饗(あえ/ごちそうのこと)を神殿に投げてそれを烏(カラス)に食べさせる神事を行っていたというのだけど、そんなものは他では聞いたことがない。いつ始まったものか分からないし、何らかの象徴的な儀式なのだろうけど、起源は想像がつかない。稲荷神と住吉大神が関わっているのだろうか。

 源為朝は1139年に源為義(ためよし)と摂津国江口(大阪市東淀川区)の遊女との間に生まれたという。八男だったため八郎を名乗ったとされる。
 為義の嫡男が義朝(よしとも)で、義朝は頼朝、義経の父だ。為朝から見ると義朝は兄で、頼朝、義経から見ると為朝は叔父にあたる。
 2メートルを超える大男(7尺)で、気性が荒く、生まれながらの乱暴者だったという。
 弓の名手で、少年時代から手下たちを集めて暴れ回っていたため、父の為義に勘当され、九州にやられてしまう。まだ13歳の頃のことだ。
 しかし、まったく悪びれない為朝は、九州でも家来を集めて大暴れし、ついにはあたり一帯を制覇して鎮西八郎(鎮西総追捕使)を名乗るようになる。
 その後、九州の豪族たちを攻め滅ばし、わずか3年で九州を平定してしまった。1154年のことだ。15や16の少年のやることではない。
 あまりの乱暴ぶりに朝廷に訴えられるもそれに従わなかっため、翌年、父の為義が検非違使の官職を解かれるという事態に陥る。さすがにあわてた為朝は家臣を連れて京都に出向いていった。
 ここで起きたのが保元の乱(1156年)だ。鳥羽法皇崩御に伴い、崇徳上皇と後白河天皇の間で衝突が起こり、為義・為朝父子もその争いに巻き込まれることになる。
 本人たちの思惑がどうだったかは別にして、結果として招かれる形で為義と6人の子は崇徳上皇側につくことになる。為義はだいぶ嫌がっていたらしい。
 一方、嫡男の義朝(頼朝・義経の父)は、関東に地盤があったので後白河天皇の側についた。これが兄弟で明暗を分けることになる。
 為朝は得意の弓で大活躍するものの、戦は後白河天皇・義朝側の勝利で終わる。
 父・為義とその子らは降伏して出頭するも、勅命によって義朝に斬首された。
 為朝だけは再起を期して西へ逃げ、近江国坂田(滋賀県坂田郡)の地に隠れた。
 しかし、密告により捕まり、京へ護送されることになる。それを見ようと大群衆が押しかけたという。
 世に聞こえた強者を死なせるのは惜しいということで命は助けられることとなり、伊豆大島に流刑となった。
 さすがに少しは懲りただろうと思いきや、その後の10年ですっかり伊豆七島を支配下に治めてしまった。1165年のことだ。
 1170年、年貢も払わず好き放題に暴れていたところを告発され、都から討伐軍が送り込まれてきた。ついに観念した為朝はここに自害して果てたという。享年32。
 死没年は1177年説もあり、実はここでは死なず琉球(沖縄)まで逃げ落ちて、息子が初代琉球王・舜天(しゅんてん)になったなど、各地で数々の伝説を残すことになる。
 尾張の闇森八幡もそのひとつということがいえるだろうか。

 境内には為朝が愛用した甲冑を埋めたとされる鎧塚(為朝塚)がある。
 為朝伝説には続きがある。
 伊豆大島で生まれた為朝の子が島を脱出して尾張の古渡にやってきて尾頭(おかしら)を名乗ったというものだ。あるいは、自害したときすでに島の女のお腹に為朝の子がいて、その女が島を脱して上方へ向かう途中、古渡の地で男子を産んだともいう。
 その尾頭次郎義次も父譲りの剛の者で、この地で相当暴れていたらしい。
 話を耳にした土御門天皇が紀州にいる悪党を退治する任を義次に与えたところ、見事悪党集団をやっつけて鬼の首(頭)を持ち帰ったので、褒美として鬼頭の姓を与えたという。
 古渡の地も安堵され、代々鬼頭を名乗りこの地で暮らしたとされる。名古屋や近郊に鬼頭姓が多いのはここから来ているともいう。尾頭は地名として尾頭橋(おとうばし)などに残っている。
 もともと古渡にあった若宮に尾頭次郎義次もしくは子孫の鬼頭家が源氏の八幡神や源為朝を祀って若宮八幡となり、後の時代に應神天皇と神功皇后を祀るようになったではないだろうか。

 永正十八年(1521年)造営というのは、それを記した棟札が残っていたためだ。『尾張志』は藤原道観(鶴見氏)、『尾張名所図会』は鶴見道親(みちちか)としているのだけど、僧と鬼頭家(尾頭家)数人が協力して修造したようだ。
『尾張名所図会』の中に、小栗街道(鎌倉街道)沿いの風景として、古渡稲荷神社、犬見堂、古渡橋とともに闇森八幡宮が描かれている。森の中に神社が埋もれている感じだ。
 元禄時代に石黒某が詠んだとされる「そのむかし植えにしきぎの年を経て月さへもらぬくらがりの森」を紹介し、「今も古木森々(しんしん)として、白晝(はくちゅう)もをぐらき神祠(しんし)なり」と書く。
 織田信秀(信長の父)がこの近くに古渡城(現在の東別院/web)を築城(1543年)した際に社殿を修造した他、尾張徳川藩も代々大切に守った。

『尾陽雑記』は「森の中に辯財天の社あり、池の汀見事なる藤ある也」と書いている。
 今はもう、藤などは残っていない。
 大正13年(1924年)に新愛知新聞社(現在の中日新聞/webの前身のひとつ)が選定した名古屋十名所のひとつに、この闇森八幡社は選ばれている。
 第二次大戦の空襲で焼けるまでは森の中にある神聖な神社という雰囲気を保っていたのだろう。
 残念ながら今はその当時の面影を残していない。闇森という名前といくつかの伝説が伝わっているだけだ。
 もっと古くて深い歴史を秘めているような気もするけど、それこそ月の光も届かないような闇の中に埋もれて見ることはできない。

 

作成日 2017.3.3(最終更新日 2019.9.16)

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