秋葉神社(庄内通4)

地蔵と役行者と秋葉

庄内通4秋葉神社

読み方 あきば-じんじゃ(しょうないどおり4)
所在地 名古屋市西区庄内通4丁目 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 不明
アクセス 地下鉄鶴舞線「庄内通駅」から徒歩約5分
駐車場 なし
webサイト  
オススメ度

 庄内通と庄内用水が交差する地点の角地にあり、二つのお堂とひとつの社が並んでいる。
 庄内通はかつての稲生街道(いのうかいどう)で、庄内用水は戦国時代末の元亀・天正年間(1570-1592年)に灌漑用水として掘削された。説明板の解説によると織田が行ったとあるのだけど、それは信長ではなく信長の次男の信雄(のぶかつ)あたりだったかもしれない。信雄は1582年の本能寺の変以降は織田家の家督を事実上継いでおり(清洲会議では幼い三法師が継ぐことが決まってはいた)、尾張国の検地をしたり、庄内川の堤防工事をしたりした。寺社の修造などにも関わっている。
 この場所が稲生街道と庄内用水路沿いということからすると、最初からこの場所に祀られて移されていない可能性がある。それが江戸時代であってもおかしくはない。
 今昔マップを見ると、明治から大正にかけて、このあたりは交差点ではなく稲生街道と庄内用水が斜めに沿っていたことが見てとれる。南北の庄内通の道筋ができるのは昭和に入ってからのことだ。
 この道を挟んで東の稲生村と西の名塚村が隣接している。境界線がよく分からないのだけど、神社がある場所は名塚村の村域に見える。

 稲生街道は名古屋城の西、美濃路の浅間町あたりで北に分かれる道で、浄心を通って稲生に至り、矢田川と庄内川の合流点を渡って大野木に入って上小田井で岩倉街道と合流していた。矢田川は徒歩で渡り、庄内川には渡しがあったという。今の庄内川橋より東側だ。
 稲生という地名は古く、式内社とされる伊奴神社地図)の縁起によると、673年に天武天皇にこの地で穫れた米を献上したときに創建されたとしている。稲生の地名もこの故事から来ているともいう。
 ここ稲生で稲生合戦が起きたのは1556年のことだ。尾張の支配を巡って若き信長と弟の信行が戦った。そのあたりの詳しい話は名塚の白山社のページに書きたいと思う。

 庄内用水はこのあたりでは惣兵衛川とも呼ばれており、川に架けられた橋を地蔵橋といっていた。これは秋葉社の隣に祀られている地蔵像が名前の由来となっている。
 賽銭箱の土台の石に「南無地蔵大菩薩 神変大菩薩 秋葉神社」と書かれている。
 南無(なむ)というのは梵語(ぼんご/サンスクリット語)のnamasから来ており、身と命を捧げて従いますといった意味の言葉だ。南無阿弥陀仏や南無妙法蓬華経、南無太師遍照金剛などの文言もそういった意味と考えていい。
 お地蔵さんというとおじいちゃんのイメージがあるかもしれないけど必ずしもそういうわけではない。
 仏には階級といったものがあって、菩薩は上から二番目に当たる。
 一番上が如来(にょらい)で悟りを開いて最高の境地に達した存在だ。
 大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来などがそうだ。
 二番目が菩薩で、観世音菩薩、弥勒菩薩、普賢菩薩などがいて、地蔵菩薩もここに入る。
 菩薩は悟りを開くまではいかないものの地上の人々を救うという役目がある。
 三番目が不動明王などの明王で、これは人々を叱ったりしながら正しい道へ導く役割を持つ。
 四番目が天部(てんぶ)で、帝釈天、弁才天、梵天、竜王、金剛力士、夜叉、鬼子母神などがこのグループだ。
 仏法の守り神といった存在で、もともと悪事を働いていたのが改心して仏になった場合などはここに入る。
 5番目はその他で、空海や最澄といった宗派の開祖や修行者の最高位である羅漢(らかん)や、日本の神と仏が集合した垂迹神がこれに当たる。
 つまりは地蔵菩薩はかなり偉い仏様で、決して道ばたに立っているおじいちゃんとかではない。
 釈迦が入滅した後、56億7千万年後に再びこの世界を救うために戻ってくるまでの留守を預かっている存在だ。人の住む人道だけでなく、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、天道の六道すべての面倒を見ないといけないので忙しい。
 サンスクリット語ではクシティガルバといい、クシティは大地、ガルバは胎内とか子宮とかを意味する言葉だ。それに地蔵という字を当てた。
 円仁が唐から持ち込み、良源や源信らによって広められた浄土教(浄土信仰)が普及した平安時代以降、極楽浄土に行けない人間は地獄行きという考え方が生まれ、皆が地蔵菩薩に救いを求めたことで地蔵信仰が一般化した。平安末期は終末論的な思想が蔓延していたということもある。
 
関白・藤原頼通が京都宇治平等院に建てた阿弥陀堂(鳳凰堂)なども浄土信仰の象徴的なもののひとつだ。
 地蔵像がおじいちゃんっぽいのは出家僧の姿をしていることが多いためで、道祖神と習合したため、道ばたに立つ石像としてたくさん作られることになった。

 神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)は役小角(えんのおづぬ)のことだ。
 江戸時代後期の1799年に役小角の没後1100年で光格天皇が贈った諡(おくりな)が神変大菩薩だった。
 諡、諡号(しごう)は生前の行いを尊んで死後に贈られる称号のことで、天武天皇や仁徳天皇といった呼び方も死後に贈られた漢風諡号だ。聖徳太子も諡なので、生前そう呼ばれたことはない。
 役小角で知られる役行者は、飛鳥時代中期の634年に生まれたとされる伝説の修験者だ。実在の人物ではあるものの、数多くの伝説に彩られており実態はよく分からない。
 役氏は三輪氏系の地祇系で、加茂氏(賀茂氏)から出たとされる。姓(かばね)は君だった。
 17歳のときに元興寺で孔雀明王の呪法を学び、葛城山や熊野などで修業を行い、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得したとされる。
 以降、各地の山を開き、修験道の開祖となった。

 ここがかつての稲生街道沿いで名塚村と稲生村の出入り口だったことを考えると、地蔵菩薩と役行者と秋葉権現を祀ったというのは理にかなっているように思う。あたりの風景は大きく様変わりしたけど、昔からこの場所にこれからが祀られていたとしても不思議ではない。そう決めつける根拠はないから断定的に言うことはできないけれど。
 もしくは、名塚村や稲生村に点在していたこれらを昭和になってここに集めたという可能性も充分考えられる。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

庄内通の秋葉神社は地蔵と役行者とともに

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