熱田前新田の東ノ割の氏神として創建されたと伝わる。 『愛知県神社名鑑』はこう書いている。 「創建は文化二年(1805)8月15日、熱田前新田の一部落で村の安全と五穀豊穣を祈り奉斎された。明治5年7月、村社に列格する。昭和34年9月、伊勢湾台風に被災、昭和53年社務所を改築した」
熱田前新田は1800年から1801年にかけて第9代尾張藩主・徳川宗睦の命で熱田奉行の津金文左衛門胤臣(つがねぶんざえもんたねおみ)が現場監督として開発を行った。 中川から東を東ノ割、中川と荒子川の間を中ノ割、荒子川から西を西ノ割と呼び、それぞれに氏神を祀った。西ノ割の氏神が善進町の神明社で、中ノ割の氏神が本宮町の龍神社、東ノ割がこの辰巳町の稲荷社だった。 熱田前新田については池鯉鮒社(魁町)のページに書いた。
『尾張志』(1844年)の熱田前新田の項には「稲荷社二所 神明ノ社 龍神ノ社」とある。稲荷社のもうひとつがどこのことなのかちょっと分からないのだけど、氏神三社の顔ぶれは変わっていない。 『尾張徇行記』(1822年)は熱田前新田の神社についての記載がない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、現在地の170メートルほど北東に鳥居マークがある。これが稲荷社の元の場所だ。 北に堤防沿いの道(今の東海通)があり、その道沿いに民家が建ち並んでいる。それが熱田前新田の集落で、集落の中程に稲荷社があったことが分かる。 現在の場所に移されたのはわりと最近の平成17年(2005年)のことだ。それまでは東海通交差点の角にあったのだけど、名古屋高速4号東海線のために江川線が拡張されることになり、今のところに移された。
辰巳町(たつみちょう)は昭和19年(1944年)に熱田前新田の一部より成立した。 町名は熱田前新田の辰巳(東南)の方向に「辰巳の杁」があったことからつけられたとも、光賢寺の堂舎が熱田前新田の辰巳の方向にあって辰巳観音堂と呼ばれていたことに由来するともいう。 今昔マップで辰巳町の変遷を見ると、1932年(昭和7年)には町割りができて西半分に農地を残しつつ東半分を住宅地にしている。 しかし、戦時中は更地になったのか空白地帯となって、その中を鉄道が走っている。住宅は北側の道路沿いにしかない。 戦後になると宅地化が進み、南の港明町にブラザーの工場も進出してきた。病院や学校も建ち、鉄道は地下鉄に変わり、建物がびっしり建ち並ぶ住宅地になった。 名古屋市内はどこもそうなのだけど、戦前と戦後は街の風景が激変したことが地図を見るだけでも分かる。近年盛んに人口減少といわれているけど、戦前までの日本の人口は7千万人程度だったことを思えば、これでも多すぎるくらいだ。
稲荷社ではありながら、倉稲魂神だけでなく猿田彦命(サルタヒコ)と大宮女命(オオミヤメ)を祀っている。これは、ちょっと気になるところだ。江戸時代の創建時からこの三柱を祀っていたのか、途中で合祀したのか。 大宮女は天宇受売(アメノウズメ)のことともされるけど、別といえば別かもしれない。宮殿を人格化した神とも、女官を神格化した神ともされ、神祇官で祀られた天皇守護の八神のうちの一柱でもある。 伏見稲荷大社(web)でも大宮能売大神を祀っているから、その関係で大宮女を祀るとしたのだろうか。 稲荷社で祀る場合は、ウカノミタマに仕える巫女を神格化したものとされる。
辰巳町の稲荷社には辰巳神楽が伝わっており、秋の例祭では西の組、中の組の神楽とともに町内を練り歩くという。 伝わっているのは形だけだとしても、五穀豊穣と村内安全を願って神社を建てた時代から今の時代まで途切れることなく地続きであることを思えば、伝統を守り伝えていくことは決して無駄ではない。遠い昔の人たちと我々はどこかで意識がつながっているはずだ。
作成日 2018.7.7(最終更新日 2019.7.21)
|