秋葉社らしいのだけど、その由来についてはよく分からない。 社の向かって右側にも小さな社があって、平塚辯才天という幟が立っている。秋葉社の後ろにはお堂があり、中にはたくさんの石仏が安置されている。垂れ幕には平塚講中とある。そのお堂の後ろに密巌寺という寺がある。 これらがすべて一体のものだとすれば、秋葉社も辯才天もお堂も密巌寺の境内にあるということになるかもしれない。 平塚辯才天、平塚講とあるから、ここは平出町の中の平塚という地区なのだろう。江戸時代は平田村だったところだ。平出町の町名は、平田集落の出町という意味で名づけられたという。 石灯籠には「秋葉宮常夜燈」とあり、裏には文政二年と刻まれている。文政二年は1819年だから、江戸時代後期にはすでにあったと考えてよさそうだ。
密巌寺(みつがんじ)は天台宗の寺で、織田信長が父・信秀のために建てたという。 創建時期についてははっきりせず、天正十一年創建という話があり、天正十一年は1583年で、信長は前年の1582年に本能寺の変で死んでいるので寺を建てるのは無理だ。 それに、信秀が死んだのは1552年なので、30年も経って父親のために寺を建てたというのも考えづらい。 『尾張志』や『尾張徇行記』などにも信長云々ということは書かれておらず、それらから分かることは、平田村にあって、山号を十輪山という天台宗の寺院で、野田密蔵院の末寺だったこと、1608年の備前検地のときに除地になったこと、創建年は分からず、延宝7年(1679)に再建されていること、昔は徳蔵院と号していたことなどだ。 野田密蔵院というのは春日井市熊野町にある醫王山薬師寺密蔵院(地図)のことで、鎌倉時代末の1328年に創建されて、室町時代に尾張の天台宗の中心寺院になったところだ。最盛期は末寺が700寺もあり、七堂伽藍を備え、修行僧3000人をかかえていたという。 しかし、戦国時代になって信長が天台宗総本山の延暦寺(web)と敵対するようになると衰退し、江戸時代に再興したものの、檀家を持たない寺だったため明治以降はかつての繁栄は見る影もないものとなってしまった。往時を偲ばせるものとしては、室町時代前期に建てられた多宝塔くらいのものだ。 信長が延暦寺と敵対関係になったのが1570年頃なので、それ以降に天台宗の寺を建てたとは思えない。もし信長が密巌寺に関わったとすれば、信長が清洲城(web/地図)にいた若い頃のことか。清洲城と密巌寺は3キロも離れていない。
秋葉社石灯籠に刻まれた文政二年(1819年)が創建の年なのか、単に寄進された年なのかは分からないけど、江戸時代にはあったとすれば、密巌寺の鎮守社か、この平塚地区の守り神だったか、どちらかだろう。 密巌寺を挟んで150メートルほど北にある白山社(地図)との関係も少し気になるところではある。 300メートルほど西には平田城があって、平塚の東を岩倉街道が通っていた。 いろいろな要素を考え合わせると、それだけ可能性も広がって、創建のいきさつもよく分からないということになる。たぶん、実際の話としてはごく単純なのだろうけど。
作成日 2018.3.21(最終更新日 2018.12.11)
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