かつての日々津村の八幡社。 日々津村には、土江天神(ひじえてんじん)とされる天神社(現土江神社)と、村の本居神である白山神社、そして諏訪社と八幡社があったことが『尾張志』(1844年)などから知ることができる。 これら4社はいずれも江戸時代以前に創建された神社で、江戸期を通じて顔ぶれは変わらなかったようだ。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではないが、日比津町には往古は乾屋敷の城、栗山の城あり。又武人下野守勝定・野尻藤松らこの地に住居せし事、古書に見え当時、弓矢の守護神として祀った。寛政七乙卯年(1795)以降の棟札八枚を社蔵する。明治6年、据置公許となる」
乾屋敷の城は日比津城のことで、南北朝時代(1336-1392年)に野尻掃部が城主だったとされる。 日比津城は八幡社の北東350メートルほどの大円寺(地図)の北側にあったと考えられている。 室町時代前期なので天守などはない館城だったはずだ。東西南北それぞれ50メートルほどの規模で、周りを空堀で囲んでいたとされる。 その日比津城の北東には家老の野尻藤松が居城する栗山城もあったようだ。 大円寺は野尻氏の菩提寺で、野尻掃部の墓とされる宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔があり、貞治4年(1365年)と応永17年(1410年)の銘が刻まれている。これは名古屋市内に現存する銘の入った塔としては最古のものとされている。 大円寺自体が古い寺で、かつては天台宗の専正寺といっていた。その後、安貞年中(1227-1229年)に伝来寺となり、大信寺と改称し、更に大円寺となり、現在に至っている。
地理的にいうとこの場所は、鎌倉街道に近い場所だったと考えられる。 西を流れる庄内川の西に萱津宿があり、川のこちらには東宿があった。街道は中村を通って露橋方面に向かって南下し、古渡で北回りと南回りのコースに別れていたようだ。 尾張は鎌倉と京都の間にある土地ということで戦略的にも古くから重視されてきた。 野尻氏はもともと信濃出身という説がある。 信濃で野尻といえば野尻湖が思い浮かぶ。信濃の北端近くにある湖で、ナウマン象の化石が発掘されたことでよく知られている。 野尻氏は野尻湖と何か関係があるかもしれない。 気になるのは八幡社の北西250メートルほどのところにある諏訪社(地図)の存在だ。ひょっとするとこの神社も野尻氏と関係があるだろうか。同じ信濃といっても野尻湖と諏訪湖では離れすぎているから、単なる偶然だろうか。 ついでに書くと、野尻湖には琵琶島(弁天島とも)と呼ばれる島があり、宇賀神社がある。730年に行基が創建されたともされる古い神社で、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、大己貴神(おおなむちのかみ)を祀っている。 神社名からして本来は宇賀神(うがじん)を祀っていたんじゃないかと思う(体が蛇で顔が人間)。 もし野尻氏が野尻湖近くの出身なら、この地に宇賀神を祀る神社を建てていても不思議ではない。
『愛知縣神社名鑑』は日比津の八幡社を「弓矢の守護神として祀った」としているけど、野尻氏が創建したのかどうかは何とも言えない。 野尻氏が南北朝時代の武人で、この地に城を構えていたのなら、神社のひとつくらいは建ててもおかしくはない。 「寛政七乙卯年(1795)以降の棟札八枚を社蔵」というのがやや気になる。江戸時代前期の棟札はどうしてしまったのか。
長い参道の先に社殿があって、かつては広い境内を有していたであろうことが想像できる。今は参道左と裏手は駐車場になっている。 なかなか古そうな神社ではあるのだけど、なんとなくはっきりしない。周囲の環境が変わりすぎていることもあってか、やや落ち着かない印象を受けた。 今昔マップを見ると、明治までは集落から離れた田んぼの間を通る細い道沿いにあったようだ。南の空白地は森林か何かだっただろうか。 このあたりが区画整理されるのは昭和に入ってからで、住宅地になったのは戦後しばらくしてからのようだ。 神社は時代とは関係がないように思いがちだけど、神社もまた時代とともに変わらざるを得ない宿命にある。環境の変化にも大きく左右される。そのことで神様も愚痴ってるかもしれないけれど、これはもうしょうがない。
作成日 2017.11.9(最終更新日 2019.5.6)
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