西区の北西の端近くにある神社。ここはもう名古屋の北西の外れで、少し行けば北名古屋市に入る。 江戸時代は平田村だったところで、現在神社があるのは平田村の北の端に当たる。美濃路は東を南北に通っていて、少し離れている。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は明かではない。『尾張志』に十所ノ社 平田村にあり、記す。産土神として崇敬あつく、明治5年、村社に列格する」
『尾張志』は、八幡社と三狐神ノ社の他に十所ノ社、白山ノ社、天神ノ社、神明ノ社も平田村にあると書くだけで詳しい説明はない。
『寛文村々覚書』の平田村の項にはこうある。 「社六ヶ所 内 八幡 神明 社宮神 白山 天神 十所大明神 九ノ坪村 祢宜 八郎左衞門持分 社内壱反弐畝弐拾五歩 前々除」
江戸時代前期は十所大明神と称していたようで、前々除とあるから1608年の備前検地のときすでに除地となっていたということで、戦国時代以前からあった可能性が高い。 ではどこまでさかのぼれるかなのだけど、ひとつのヒントは北名古屋市の九ノ坪にある同名の十所社の存在だ。
北名古屋市九ノ坪の十所社(地図)は、西区城町の十所社から見て約1.2キロ北東にある。行ったことはないのだけど、写真で見るとけっこう立派な神社のようだ。 九ノ坪十所社について『尾張志』はやや詳しく書いている。 「九坪村にあり熱田之七社に伊勢八幡春日の三社を配享せし故に十所ノ社といへる也 永禄二巳未年九ノ坪ノ城主梁田出羽守創建し天正十壬午年梁田弥次右衛門是を修造す」 戦国時代に詳しい人なら梁田出羽守と聞いたらあの梁田かとすぐにピンと来ると思う。桶狭間の戦いで今川方の重要な情報をもたらして信長から武勲一等とされたあの簗田政綱(やなだまさつな)だ。 簗田政綱は、北名古屋市(西春町)の九ノ坪城の城主だった。信長の居城だった清洲城(地図)の3.6キロほど北東だ。 九ノ坪の十所社は、簗田政綱が永禄2年(1559年)に建てたという。桶狭間の戦いの1年前に当たる。 ただし、享禄元年(1528年)建立の棟札もあるというから、簗田政綱は創建ではなく再建かもしれない。 桶狭間の戦いにおける簗田政綱が果たした役割が本当はどうだったのかなども考察したいところなのだけど、話が脱線しすぎるのでここではやめておく。 (そのあたりについてはブログ記事「定納公園に米田城の面影はなくとも簗田政綱は名を残した」で書いた)
西区城町は文字通り城があったことが地名の由来となっている。その城というのは平田城という名前の城で、尾張国守護だった斯波氏の一族である平田源左衛門(伊豆守もしくは和泉守)が城主を務めていたとされる。 平田城は十所社の100メートルほど南にあったようだ。その距離感からして、平田城と十所社が無関係だったとは思えない。平田源左衛門が創建したという可能性もあるか。 問題は九ノ坪十所社と西区城町十所社の関係だ。どちらが先だったのか。 九ノ坪十所社の祭神は『尾張志』によると熱田の七神に伊勢・八幡・春日の三神をあわせて十神を祀るとしている。 西区城町の祭神は「天照大御神、天児屋根尊、八劔神、乎止与命、軻遇突知命、譽田別尊、日本武尊、稚足彦命、大郎妓女命、宮酢姫命となっており、ほぼ共通している(九ノ坪十所社の詳しい祭神が分からないので、一部違っているかもしれない)。 九ノ坪城の簗田政綱と平田城の平田源左衛門の関係はどうだったのか。この近距離で関係がなかったのはあり得えない。尾張国守護の斯波氏一族と、それに敵対する形になった尾張守護代の織田氏についた簗田政綱はどういう関係だったのだろう。 同じように十所社の神を信奉していたとするならば、敵対関係ではなかったか。 どちらかというと九ノ坪十所社の方が主で、西区城町の十所社は従のような感じがあるから、西区城町は九ノ坪から勧請した分社かもしれない。 たくさんの神を集めて守ってもらおうと考えたのかもしれないけど、そのメインとして熱田の神々を呼んできたのはどうしてだったのかも興味深いけど、それを知るための手がかりはない。
神社の隣の寿宝院は、1541年(天文10年)に創建されたとされる。 もとは天台宗で、1636年に北名古屋市九ノ坪の平田寺の住職が曹洞宗に宗旨替えした。 天台宗から曹洞宗に変えたといえば平田寺もそうで、平田寺は平田家の菩提寺で、源左衛門は泉州大守として過去帳に載っている(1571年没)。 平田寺は九ノ坪十所社のすぐ南で、九ノ坪城は少し東にあった。九ノ坪十所社は昭和初期に建て替えられるまで城がある東を向いて社殿が建っていたいう。 平田寺は南北朝時代創建される古い寺ということで、ひょっとすると九ノ坪十所社の創建はその頃までさかのぼるかもしれない。 平田寺が平田家の菩提寺で、すぐ近くの九ノ坪城の城主が簗田政綱だったのなら、両者は同族もしくは主従関係だったと考えるのが自然だ。 九ノ坪城近くにも平田城近くにも同じ十所社があれば、それは同系統ということになるだろう。創建時期については、やはり九ノ坪が先で、西区平町が後のように思う。 同じ北名古屋市の西之保中屋敷というところにも十所社がある(地図)。西之保十所社の創建(または再建)は南北朝時代の1387年というから、もしかするとここが本家という可能性もあるのか。
西区・北名古屋市の十所社問題は、名古屋市内編だけでは解決しないことが分かったので、市外編に持ち越しとなる。他にも同じ系統の十所社があるかもしれないので、それらすべてをあわせて考えないと実態は見えてこない。
神社の南から入ると鳥居がなく、道路に面していきなり蕃塀があるので少し戸惑う。 南にずっと直線の道が続いているから、かつてはもっと南まで参道が延びていて入り口に鳥居が建っていたのだろう。 東側にはふたつの鳥居が続いて建っており、どちらかがかつて南にあったものかもしれない。 手前の赤く塗られた両部鳥居には他では見ない変わった形の注連縄がかかっている。 長さ3メートル60センチ、直系1メートルという大きな注連縄で、毎年10月に地域住民100人で作っているんだそうだ。
なかなかいい神社だと思った。好きな神社がまたひとつ増えた。
作成日 2018.3.19(最終更新日 2018.12.18)
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