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緒畑稲荷神社(三王山)

山王社はどこかへ行き、ウカノミタマは稲荷神となった

三王山緒畑稲荷神社

読み方 おばた-いなり-じんじゃ(さんのうやま)
所在地 名古屋市緑区鳴海町三王山 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
アクセス 地下鉄桜通線「野並駅」から徒歩約26分
駐車場 なし
その他  
オススメ度

 住所でいうと三王山(さんのうやま)、場所でいうと千句塚公園の一角にある稲荷社。
 三王山の地名は、かつてこの小山に山王社があったことから来ているという。
『尾張志』(1844年)には「山王ノ社 大山咋ノ神を祭ると云へり境内に天白ノ社あり」とある。
『寛文村々覚書』(1670年頃)にも山王が載っており、江戸時代を通じて鳴海村に山王社があったことが分かるのだけど、その後、山王社はいつどうなってしまったのか、調べがつかなかった。
 稲荷社の東260メートルほどのところに山神不動明王と称する山神山醴泉寺(れいせんじ / 地図)という寺がある。これは山王社と関係があるのだろうか。このあたりの字名は山ノ神という。
 山王(三王)は比叡山の麓の坂本にある日吉大社(web)の別名で、神仏習合時代の中世に山王信仰として全国に広がった。
 鳴海の山王社は平安後期か鎌倉時代前期に日吉大社から勧請したとされ、『蓬州旧勝録』(1779年)に「高山の中腹に社有り」とあり、『明治八年社寺書上地』には「字三王山廿一番 一境内壱反三畝拾三歩 員外社 日吉社 天白社」とあり、十九番地と二十番地も旧社地だったという。それは三王山の西中腹というから、今の千句塚公園のあたりではないかと思うのだけど違うのだろうか。
 山王の境内にあった天白社が天白川の地名の由来になったという説があるのだけど、個人的には信じていない。大社でもない川辺の小さな社が川全体の名前になるなど、普通に考えてあり得ない。天白川は名古屋を代表する川のひとつで、古代の地形形成においても重要な役割を果たした。天白社が名称の由来になったのなら川の旧名が伝わっていないのも不自然だ。天白というのは古くからこのあたり全体の地名で、そこを流れるから天白川と呼んだと考えるのが合理的だ。
 天白信仰については南区の天白神社(天白町)のページに少し書いたのだけど、天白神、天白信仰について知るための手がかりとして、三渡俊一郎『謎の天白』(昭和57年)を挙げておく。
 天白社はもともと別の場所にあったという話があり、水分神、瀬織津姫(セオリツヒメ)を祀っていたらしい。
 天白社と山王社がどうなってしまったのか気になるところなのだけど、その後についての追跡ができていない。

 この稲荷社は室町時代に伊勢の緒畑原(伊勢市小俣)から勧請されたと伝わっている。緒畑稲荷神社の名前はそこから来ている。
 祭神が倉稲魂命(ウカノミタマ)で、伊勢の緒畑(小俣)といえば、伊勢国度会郡の式内社・小俣神社(おばたじんじゃ)からということだろうか。もしそうだとすると、本来は稲荷社ではなかったということになる。
 小俣神社は伊勢の外宮(豊受大神宮)の16摂社のうちのひとつで、例外的に宮川の外側(西岸)に位置している。このあたりが外宮の度会氏が開拓した土地ということで摂社に加えられたと考えられている。
『止由気宮儀式帳』にも載っていることから、804年(延暦23年)以前の創建ということになり、古くから倉稲魂命(小俣神社では宇賀御魂神と表記)が信仰対象だったことが分かる。
 鳴海の稲荷社が当初、何神社と称していたかは分からない。稲荷社と称するようになったのは江戸時代項ではないと考えられるのだけど、『尾張志』その他、江戸期の書の鳴海村に稲荷社があったという記載はなく、この神社に相当するようなものも見つからない。
 山神信仰の山王社と農耕の女神とでは信仰対象が違うから、山王社が稲荷社に変わったということはないだろう。
 桶狭間の戦い(1560年)のときに兵火で焼けたという話があり、江戸時代に建て直されたときに稲荷社として再出発した可能性はある。

 千句塚公園は松尾芭蕉ゆかりの千鳥塚から来ている。
 芭蕉は鳴海の地が好きだったのか、鳴海の人と親しかったからか、1685年から没年の1694年の間に4度鳴海を訪れている。江戸と上方を行き来する東海道沿いだったとしても、あえて鳴海を選んでいるのには何か理由があったのだろう。
 鳴海の歌人たちも芭蕉の門下に入り、鳴海六歌仙と呼ばれたひとり、寺島安信の邸宅で1687年に開かれた句会はよく知られている。そのとき芭蕉が詠んだ「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」が発句となり、それが完成したのを記念して千鳥塚が建てられた。
 これは芭蕉が生前に建てられた唯一の句碑で、文字は芭蕉直筆とされる。
 誓願寺には芭蕉が亡くなった翌月に寺島安信が中心となって建てた芭蕉の供養塔がある。これも芭蕉の供養塔としては最古のものとなる。

 三王山すぐ南の鉾ノ木(ほこのき)は、ヤマトタケルが東征のときに鉾を松の樹上にかけて休憩したことから名づけられたという伝承があり、貝塚が見つかっている。
 前期縄文時代の遺跡としては名古屋のみならず東海地方を代表するもので、かつてはここが海岸線だったことを伝えている。
 上下層に分かれ、下層のハイガイ(灰貝)は育成が悪く、上層は良いことから気候によって貝の育ちがよかった時代とそうでなかった時代があったことも分かった。
 縄文式土器なども見つかっており、独特の特徴を持つことから鉾ノ木式と呼ばれている。

 この神社がいつから稲荷社となってしまったのかは分からないのだけど、社の周辺に多くの石碑が散在していることからすると、鳴海村の民間信仰の拠点となっていたようだ。
 覺正行者、諦善霊神、仲見行者といった名前から御嶽教が絡んでいることは確かで、それ以外にも白龍大神や千代田大神、松稲荷大神、天光日月、水眼大神、荒熊大神御神木、福正大神、慶心大神、荒熊大神、御首大神、恭代姫之命、熊安大明神、荒千代龍王といった正体がよく分からない石碑が建つ。不動明王像や弘法像、円空仏もどきの石像もあり、ちょっとしたカオス状態になっている。
 高台にあって街を見下ろすことができることから夜景鑑賞スポットになっているようだけど、夜はあまり近づきたくないところだ。白狐が守っているなんて話もあるし、何かいろんなものが集まってきているように感じられた。

 

作成日 2018.11.8(最終更新日 2019.4.8)

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