鹽竈神社(西日置)

どうして鹽竈神だったのか?

日置鹽竈神社

読み方 しおがま-じんじゃ(にしひおき)
所在地 名古屋市中川区西日置1丁目7-10 地図
創建年 不明
社格等 村社・六等級
祭神

塩土神(しおつちのかみ)
武甕槌神(たけみかづちのかみ)
経津主神(ふつぬしのかみ) 

 

・名鉄名古屋本線「山王駅」から徒歩約13分
・駐車場 あり(無料)

webサイト  公式サイト
オススメ度

 いろいろと分からないことが多い神社で、理解することを途中であきらめた。
『愛知縣神社名鑑』はこう説明する。
「慶長十五年(1610年)名古屋城築城に際し工事の無事遂行を祈願し尾張藩士岩田藤忠奥州一宮塩竈六所大明神を勧請して、日置古渡両部落の堺、江川と笈瀬川二川の合流地畔に社地を定め奉斎する。築城関係の諸大名の崇敬特に篤く福島正則は手洗盤を寄進した。 延宝年間(1673-1680年)尾張藩士松平康久境内を整え社殿を改修する。 文化13年(1816年)秋百姓善蔵日置村巾に移し祀る。 天保6年(1835年)9月字中田の現在地に遷し同村の氏神として奉祀し昭和5年社殿を改築造営する 。昭和11年村社に列格。 昭和20年3月の大空襲に遇い境内火の海となる宮司身を挺して防ぐその功績は末世まで讃えられる。 境内社に痔病に霊験あらたかな社あり」

 まず引っかかったのが岩田藤忠という人物だ。
 ここでは尾張藩士としているけど、奥州の武将という話もあり、はっきりしない。
 ネットで検索してもこの鹽竈神社絡みで出てくるだけでそれ以外の情報がない。
 名古屋城築城に関わったというなら奉行のひとりかと思うとそうではない。
 家康が命じた築城の普請奉行は牧長勝、滝川忠征、佐久間征實、山城忠正、村田某の5人、作事奉行は大久保長安、小堀遠州、村上三右衛門、長野友秀、日向正久、原田右衛門、寺西藤左衛門、藤田民部、水谷九左衛門の9名で、岩田藤忠の名前は出てこない。
 実際に働いて金を出したのは豊臣恩顧の外様大名たちで、家康は20名の大名を指名している。それが以下の顔ぶれだ。
 加藤清正、福島正則、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光。
 北国から参加しているのは加賀藩の前田利光だけで、あとは西国大名たちだ(金森可重は飛騨高山藩)。奥州からは呼ばれていない。
 岩田藤忠はもちろん、有力藩の大名というわけではなく、関係のない奥州の武将がわざわざ名古屋までやって来て名古屋城築城を祈願して神社を建てるはずもない。
 それでは奉行でもない一介の尾張藩士が命じられもしないのに神社を建てて築城が無事に済むようにと願ったというのか。それも違和感がある。

 そもそも、何故、鹽竈神社だったのか?
 本家の鹽竈神社は現在の宮城県塩竈市にあり、陸奥国一宮でありながら『延喜式』の神名帳に載っていない式外社という謎を秘めた神社だ。それでいて朝廷から国内最大の祭祀料を与えられている。
 祭神が塩土老翁神(シオツチノオジ)、武甕槌神(タケミカヅチ)、経津主神(フツヌシ)とされたのは近世以降のことで、江戸時代は鹽竈六所明神などと称されていた。
 鹽竈神の正体については諸説あってはっきりしない。
 平安時代前期の『弘仁式』(820年)によると、朝廷は鹽竈神社に一万束の祭祀料を与えたとしている。鹽竈神社以外に祭祀料が与えられたのは伊豆国三島社(三嶋大社)の二千束、出羽国月山大物忌社(鳥海山大物忌神社)の二千束、淡路国大和大国魂社(大和大国魂神社)の八百束のみで、それらはいずれも『延喜式』の神名帳(927年)に載る官社だ。それに対して鹽竈神社は一万束という破格の祭祀料を与えられながら官社とされず、神階も与えられていない。
 つまり、金は与えるけど位は与えないというのが平安期(中世)における朝廷の鹽竈神社に対するスタンスだった。
 その後、武家の時代になると奥州藤原家や伊達家が大事にしたこともあって武家の守り神という性格を強めていく。伊達家当主は代々、大神主を務め、伊達政宗も社殿の造営を行っている。
 奈良春日大社の縁起によると、タケミカヅチが最初に下ったのが塩竈で、のちに鹿島に移り、奈良にやって来たとしている。タケミカヅチは戦の神だから、もともと鹽竈神は戦の神だったという可能性もある。
 鹽竈神社の縁起では、タケミカヅチとフツヌシが東北を平定にやって来たときに案内をしたのがシオツチノオジ(塩土老翁神)で、この地にとどまって製塩技術を伝えたとしている。
 戦国時代から江戸時代初期の武士たちにとって鹽竈神とはどういう神として認識されていたのだろう?
 岩田藤忠は、何故、鹽竈神社から鹽竈神に来てもらったのか? 城を築くことと鹽竈神はどこでつながるのだろう?

 この鹽竈神、六所明神は家康とのつながりがある。
 家康の生まれた岡崎にある六所神社は、徳川家のルーツである松平親氏が奥州の鹽竈神社から勧請して建てた六所明神から家康の祖父・松平清康が勧請して建てた神社だ。
 岡崎で生まれた家康の産土神ということで家康をはじめ、代々徳川家が大事にした。三代将軍・家光も大規模な造営を命じている。
 ただし、祭神は猿田彦命(サルタヒコ)、塩土老翁命、事勝国勝長狭命としていて、タケミカヅチとフツヌシは入っていない。
 事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)はシオツチノオジの別名とされるのだけど、何故二重に入っているのか、ちょっと分からない。
 岩田藤忠が鹽竈神社を勧請したのは、家康を意識してのものだった可能性が考えられるだろうか。もしくは、家康が命じたのかもしれない。岩田藤忠が城の普請に関わっていないとするならば、神社関係の部署の藩士だったのか。
 少なくとも私的な神社ではなかったはずで、堀川の掘削を担当した福島正則が手水舎の手洗盤を寄進していることからもそれはうかがえる。

 もうひとつ分からないのが場所のことだ。
『愛知縣神社名鑑』に、最初に創建されたのは「日置古渡両部落の堺、江川と笈瀬川二川の合流地畔に社地を定め」とある。
 江川も笈瀬川も現在はなくなってしまったからはっきりしたことは分からないのだけど、おそらくそれは現在の笈瀬町(地図)あたりではなかったかと思う。現・鹽竈神社から見て南西約1キロほどの場所だ。
 しかし、何故、この場所だったのか?
 名古屋城(地図)から見てここは南に4キロ以上離れている。裏鬼門とするには南に寄り過ぎている。
 名古屋城築城のために掘られた堀川からも1キロ西を流れている。
 この場所である必然がどこにあったのか? この場所と名古屋城築城を結びつける要素は思い当たらない。

 更に分からないのが、「文化13年(1816年)秋百姓善蔵日置村巾に移し祀る」という部分だ。
 なんで百姓の善蔵が勝手に日置村に移すことができたのか? 全然意味が分からない。百姓ひとりにそんなことができるものなのだろうか。
 移した理由の説明もないから、どう理解していいか分からない。
 日置村巾というのは現在の松原あたりのことだろうか(地図)。
 それから20年も経たない1835年に現在地に移されたという。誰がどういう理由で移したのかは定かではないということか。

 名古屋城築城にまつわる神社としながら『尾張志』にも『尾張名所図会』にも記載がないのも不自然といえば不自然だ。どちらもこの神社についてまったく触れていない。
『尾張名所図会』には、現在境内社として祀る無三殿社にまつわる話が紹介されている。
「無三殿閫(むさんどのいり)
 堀川の西、日置・古渡の境にあり。松平図書康久入道無三は、当時国君の宗室にして、威権俸録ともに盛なりしが、延宝七年養子図書が時に至り、故ありて家名断絶せしかば、無三へ月俸三百口を賜はり、日置の別荘に在りし其側にある故、其名の此杁にのこりて、今も無三殿閫と呼べり。」
 このあたりにあった杁(水門)を無三殿閫と呼ぶ由来を紹介している。
 その名称の由来となった松平図書康久入道無三は『愛知縣神社名鑑』にある「尾張藩士松平康久境内を整え社殿を改修する」の松平康久のことだ。
 ここにはカッパが棲んでいたという言い伝えがある。
 笈瀬川とカッパの伝説は、名古屋駅西の椿神明社須佐之男社のところでも紹介した。
 笈瀬川(おいせがわ)は伊勢の神宮領があったことから御伊勢川と呼ばれ、のちに笈瀬川とされたといい、誰も汚すものがいない清流だったようだ。
 そこにカッパがいて、なんでも橋から川に向かって尻を映すと痔が治るという話が広まり、後に無三殿神として祀るようになったのだとか。
 もともとは川の近くにあったものを昭和に入って鹽竈神社に移した。

 私が集められた情報は以上だ。
 結局、岩田藤忠は何者でどういう立場の人物だったのか、鹽竈神というのが江戸時代初期の人たちにとってどういう神だったのか、何故鹽竈神社だったのか、どうしてこの場所だったのかなど、肝心なことは分からずじまいなため、非常にモヤモヤ感が残った。
 本当に名古屋城築城にかかわる神社だったのか。福島正則が手洗盤を寄進したという話がなければ信じられなかったところだ。もしそれが違うとなれば、前提も崩れかねない。
 神明社系でもないのに鳥居が神明社系のものというのは、戦後の再建のときなのだろう。
 ちなみに、鹽竈(しおがま)の鹽は塩の旧字体で、竈は「かまど」のことだ。かまどというのは今でいうガスコンロのようなもので、竈と釜は別物だ。
 鹽竈というのは塩を作るために海水を煮る竈(かまど)のことをいうであって、釜のことではない。神社の入り口にある釜のオブジェはちょっと違うんじゃないかと思う。
 私の調査はここで行き詰まりとなった。あとは他の誰かに委ねることとしたい。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

安産祈願だけじゃない盛りだくさんの西日置鹽竈神社

HOME 中川区

スポンサーリンク
Scroll Up