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天満宮(細根)


下郷家の別荘地に残ったのは一族の墓と神社だけ



細根天満宮

読み方てんまん-ぐう(ほそね)
所在地名古屋市緑区鳴海町細根 地図
創建年不明(1752年?)
旧社格・等級等不明
祭神菅原道真(すがわらのみちざね)
アクセス名鉄名古屋本線「有松駅」から徒歩約17分
駐車場 なし
その他 
オススメ度**

 神社は標高36メートルほどの細根山の入り口近くに鎮座している。
 細根山の名前は細い尾根から来ているとされる。
 江戸時代、この山に小山園と称する下里(下郷)家の別荘地があった。この天満宮も下郷家が建てたもののようなのだけど、創建の時期やいきさつがはっきりしない。



 東海道の鳴海宿で庄屋を務めた下里家は、本家筋の次郎八家が千代倉の屋号で酒造りをして成功を収め、二代目の吉親(俳名・知足)は文化人として名を馳せた。鳴海六歌仙の筆頭とされ、井原西鶴とも交流が深かった。
 芭蕉は熱田の俳人・林桐葉を通じて知足(ちそく)と知り合い、知足は芭蕉に師事するとともにスポンサーになった。芭蕉が何度か鳴海を訪れたときは知足宅に泊まって俳句の会を開いている。
 知足の子や孫もそれぞれ家を継いで俳人にもなった。三代秀雄(俳名・蝶羽)のとき下里から下郷に改めたとされ、四代・元雄(俳名・亀世)、五代が孫の昌雄(俳名・常和)、六代・寛(俳名・学海千)と続いた。
 細根山に別荘地の小山園を作ったのは二代の知足とされる。
 天和三年 (1683年)の記録が残るので、その頃にはすでにあったことが分かる。
 知足の生まれが1640年(芭蕉は1644年生まれ)なので、30代後半か40代初めの頃だろう。
 その後、三代・蝶羽(ちょうう) 、四代・亀世(きせい)と80年余りかけて完成させたと伝わる。



『尾張名所図会』(1844年)にも「細根山 一名小山園」と題して細根山全景の絵が描かれ、「当駅下郷氏の別荘なり 其先寂照庵知足の経営なり 山中に十四景ありて四時の眺め乏しからず云々」と書いている。
 寂照庵(円通閣)や湛然庵の他、妙音池、好辞龕、望雪林、紫藤架などがあり、天満宮は菅神廟として十四景のうちのひとつとされた。



『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。
「寂照庵湛然堂 下郷勘左衛門控、細根山ニアリ、境内三畝五歩年貢地ナリ、此山ハ先年ヨリ下郷氏控ナリシカ 瑞龍公遊猟ノ時此山ヘ登リ玉ヒ、先祖寂照所持ノ鼠燈台ヲ上覧ニ備ヘケレハ、ヨロコハセ玉ヒ佳景ノ地ナレハ末年一宇ヲ建ツヘキヤト上意アリシ由イヒ伝ヘリ、是ニヨツテ五郎八代浅田村控観音堂ヲユツリウケ、宝暦二申年願ヨリテ其堂ヲココニ移シ、即寂照堂ト改号ス、翌酉年年庵主寂照、湛然ノ五十回忌追福ノ為、願ヨツテ向後寂照庵湛然堂ト唱ヘ来レリ、本尊正観音像定朝ノ作、今一体ハ西行ノ作ナリ」
 瑞龍公は尾張藩二代藩主光友のことで、尾張藩主も狩りなどで細根山によく訪れたという。これによると寂照庵の創建に光友が関わっていたということになる。
 鳴海小山園と下里家は、江戸時代前期において、尾張国の文化的な拠点だったという言い方もできそうだ。



 これらの建物は明治に再建された後、戦前まで残っていたようで、戦後の宅地開発にともなって一部が取り壊され、昭和34年の伊勢湾台風によって大部分が倒潰してしまった。今は天満宮と下郷一族の墓地が残るのみとなっている。



『尾張志』(1844年)は鳴海村の天神社として「細根山寂照菴の境内にあり末社に住吉社稲荷社あり」と書いている。
 天神社は寂照菴の鎮守社という位置づけだったのかもしれない。



 神社境内にある由緒碑にはこうある。
「細根天満宮は、学芸の神である菅原道真公を祀り奉る。宝暦二年(1752年)江戸時代の『尾張名所図会』には細根山通様小山園、細根十四景の一『菅原廟』として紹介されている。(後略)」
 日本語としておかしくてこれでは誤解を招く。宝暦二年(1752年)が何のことをいっているのか分からないし、『尾張名所図会』は1838年(天保9年)から1841年(天保12年)にかけて執筆されたものを1844年(天保15年)に刊行したもので(後編6巻の刊行は明治13年)、1752年とは関係がない。
 1752年(宝暦2年)を天神社(天満宮)の創建とする情報があるのだけど、これは『尾張徇行記』にある「是ニヨツテ五郎八代浅田村控観音堂ヲユツリウケ、宝暦二申年願ヨリテ其堂ヲココニ移シ、即寂照堂ト改号ス」の宝暦2年(1752年)に引きずられたかもしれない。
 上の方に書いたように、小山園自体は1683年(天和三年 )の記録にあることから、知足の時代にはすでにあった。
 小山園を作った二代・知足が天神(菅原廟)を祀ったのが始まりという話もあり、そうなると1752年では遅すぎる。知足は1705年に死去しているからだ。
 それに、光友も1700年に死去しているので、光友がここに堂を建てるとよいといった話から50年以上も後に寂照庵を建てたというのも遅すぎておかしな話だ。
 裏付けが取れていない未確認情報なのだけど、1684年(貞享元)に知足が寂照庵を建てたという情報がある。だとすれば、菅原廟を祀ったのもこのときだったかもしれない。
 1752年創建というのが正しいのであれば、四代・亀世(1688-1764年)のときということになる。
 浅田村の観音堂を移して寂照庵と改めたのが実際に1752年であれば、そのとき一緒に菅原廟を建てたということもあり得る話ではある。
 また、まったく違う話として根古屋城(鳴海城)の城主だった佐久間信盛に頼んで祀ったと『鳴海名所圖圖』の中で榊原清彦は書いている。どういう根拠から来ているのかは分からないのだけど、もしそうであれば創建は佐久間信盛が根古屋城の城主時代ということで、1582年より前ということになる。
 同じ『鳴海名所圖圖』の別の解説部分では、創建は千代倉で1752年(宝暦2年)としている。



 江戸時代に入ってからの菅原道真に対する認識は祟りを起こす天神ではなく、学問の神様としての面だったと思われ、菅原廟と称していたということは最初から道真を祀る社だったと考えてよさそうだ。
 廟(びょう)というのは死者の霊を祀る施設のことで、そこから墓の意味で使われることもあるのだけど、この場合は、道真の霊を祀った建物という性質のものだったと思われる。通常の社とはちょっと違っていたかもしれない。
 それがいつ天満宮と称するようになったのかは調べがつかなかった。明治以降か、昭和に入ってからか。
 今はもう下郷家の手を離れて町内で祀っているようだ。



 少し気になったのが境内に祀られている石の横に「かりと様」と書かれていることだ。
 初めて聞く神様だけど、ネット検索すると火の霊とか火の玉とかがわずかにヒットするだけで情報がほとんどない。「かりと」がどんな字を書くのかも分からない。
 何らかの民間伝承から発している可能性が高そうだけど、今後気に掛けておきたい。



 細根山は細根山オアシスの森として整備され、散策コースができている。竹林も美しい。
 天満宮の雰囲気もとてもよくて気に入った。空間としての気持ちよさがあって居心地がいい。
 人の家の繁栄はなかなか長くは続かないものだけど、神社は世代を超えて存続していく。人から人へリレーされて。




作成日 2018.11.17(最終更新日 2019.4.10)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

下里家の別荘地だったところに祀られた細根天満宮

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