『延喜式』神名帳(927年)にある海部郡國玉神社とされる神社。 個人的な感覚からすると、現在の国玉神社・八剣社合殿は、『延喜式』神名帳に載る國玉神社ではないと思う。そう考えている人は少なくないのではないか。
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。 「創建は明かではない。『延喜式神名帳』に國玉神社とあり、『国内神名帳』に従二位大国玉明神とあり往昔は大社であったが打続く兵乱のため衰微して明応年中(1492-1500年)より現状になった。延喜式の國玉神社は久しく不詳であったが、元治元年(1864年)5月、当社と定められて、明治元年10月八劔神社を合祀する」
現・国玉神社が『延喜式』神名帳の國玉神社と定められたのは1864年ということと、「久しく不詳であった」という点が引っかかる。 1864年といえば、幕末の動乱期だ。そんな時期に、長らく行方が分からなくなっていた國玉神社を何故、万場村の八剣社ということにしたのか。 この決定を下したのは尾張藩という。当時の尾張藩藩主は16代の徳川義宜(とくがわ よしのり)だった。しかし、義宜はこの年1864年に父の隠居に伴って家督を継いで藩主になったばかりで、年齢はわずかに6歳だった。そんな子供が急に國玉神社のことを言い出すはずがない。実質的な政治は父の慶勝(よしかつ)が行っていた。 慶勝の名前がここで出てくるとなると、なるほどピンとくるものがある。慶勝は14代藩主(当時は慶恕/よしくみ)で、義宜が18歳で死去するとその後を次いで再び藩主となっている。思想的にややクセがあり、ひと言でいうと尊皇攘夷の人だ。 國玉神社というのは、他とは決定的に違う存在の神社だ。国の玉(ぎょく/おう)を祀る神社ということで、その土地を代表する神社として創建されたはずだ。 『延喜式』神名帳に載る國玉神社は、尾張大國霊神社(稲沢市の国府宮神社/web)から勧請したか、もしくはその土地の王とでもいうべき神を祀る神社として創建されたと考えられる。 そんな由緒のある國玉神社が「久しく不詳」であることはよくないと慶勝は考えたのだろう。どこかにそれに当てはまるような神社はないかと探して見つけたのが万場村の八劔社だったのではないだろうか。
江戸時代を通じて國玉神社はどこの神社なのかということは盛んに議論され、現地調査も行われていた。 しかし、尾張藩が編さんした地誌の『尾張志』が完成した1843年時点における結論は、「本國帳にも従二位(一本正一位)國玉名神とありて名神大社なれと今廃れて其舊地も知る人なし」だった。どこにあったのかさえ誰も知らないと書いている。 それなのに、幕末になって突然、藩主の鶴の一声で、実は國玉神社は万場村の八劔社でした、などと言われても皆大いに戸惑ったんじゃないだろうか。指名された方もびっくりしてしまう。 (境内にある名古屋市教育委員会の説明書きには『尾張志』に尾張大國霊神社から勧請した式内社とあるけど、『尾張志』はそれが万場村の八劔社だとは書いていない)。 江戸時代までは、『延喜式』神名帳の國玉神社は、津島市の津島神社(牛頭天王社/web)のことだとする考え方が大勢を占めていた。津島社本社のことだとも、境内摂社の弥五郎殿社とも、居森社がそうともいわれていた。 『尾張国神社考』の中で津田正生は、國玉神社は津島天王の彌五郎殿で間違いないと言い切っている。 『尾張国地名考』の中では、海部郡津島が初めて出てくるのは東鏡(吾妻鏡)で、もともとは津積志摩(ツツミシマ)の二郷が一緒になって詰まったためにできた地名とし、國玉神社は志摩の方の産土神だろうとしている(津積の神社は不明とする)。
地形のことを考えても、この場所に平安時代以前に古い神社があっただろうかという疑問を抱く。 ここは庄内川が運んだ砂でできた土地で、現在でも海抜1メートルという低地だ。江戸時代までは3キロほど南が海岸線だったから庄内川の河口に近い。その庄内川は蛇行しながら村の東を流れている。治水技術が未熟だった時代には何度も氾濫したのではないかと思う。そんな土地に1000年以上も神社があり続けたとは考えにくく、そもそもそんな土地に国の王を祀る神社を建てたとも思えない。 では、元となった八劔社はいつ誰が建てたのかということになる。 庄内川を渡った東の対岸に岩塚村があり、ここは熱田社とのゆかりが深いところだった。熱田の田があったとされ、現在の七所社は『延喜式』神名帳の御田神社ともいわれている。剣町には八劔社もある。 その関係で西の対岸にも八劔社を建てたというのは充分考えられることだ。 万場村には他にも天神社と八幡社があった。 『愛知縣神社名鑑』がいう「往昔は大社であったが打続く兵乱のため衰微して明応年中(1492-1500年)より現状になった」というのが本当ならば、かつては大きな八劔社だったのだろう。思っている以上に古い可能性もある。 村を横断している佐屋道はかなり古い道で古代にはあったようだ。ヤマトタケルが東征のときにこの道を通ったという言い伝えがあるくらいだ。 たとえここが『延喜式』神名帳の國玉神社でなかったとしても、由緒ある神社だったと考えていいように思う。ただし、國玉神社とするにはやはり無理があるだろう。
明治元年の明治天皇東幸の際には勅使がこの神社に奉弊を行っている。 明治5年には近隣八ヶ村の郷社に列格した。幕末から明治初期にかけてとんとん拍子の出世をしたことになる。 明治40年には供進指定社になった。 現在の等級は八等級となっている。にもかかわらず、氏子数が220戸というのはいかにも少ない気がするのだけどどうなんだろう。万場地区の人口がそれだけ少ないということだろうか。
その神社が式内社かどうかを考えるとき、個人的なバロメーターとして、古社臭さといったものを基準にすることがある。 津田正生の表現でいうと、「神さびている」かいないかということになる。 そういう意味でいうと、この国玉神社・八剣社は、古社臭さが足りない気がした。社殿は立派で、境内の雰囲気も落ち着いていていいのだけど、なんというか、底からわき出してくるような圧倒的な迫力といったものが感じられない。 実際にこの神社が式内の國玉神社だったとしたら、私の感覚が間違っているということになるのだけど、この神社を後にするとき、うーん、どうなんだろう、というもやもや感が残ったことは確かだ。
作成日 2017.5.23(最終更新日 2019.5.17)
|