国玉神社・八剣社合殿

ここが本当に國玉神社なのかなというもやもや

国玉神社八剣社合殿

読み方 くにたま-じんじゃ-はっけん-しゃ-あいどの
所在地 名古屋市中川区富田町万場2丁目 1131 地図
創建年 不明
社格等 式内論社・郷社・八等級
祭神

大物主命(おおものぬしのかみ)
日本武命(やまとたけるのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
草薙御剣神霊(くさなぎのみつるぎしんれい)

アクセス

・地下鉄東山線「岩塚駅」から徒歩約40分
・近鉄名古屋線「伏屋駅」から徒歩約35分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

『延喜式』の神名帳にある海部郡國玉神社とされる神社。
 個人的な印象というか感覚を言うと、現在の国玉神社・八剣社合殿は、『延喜式』に載る國玉神社ではないと思う。そう考えている人が多いのではないだろうか。

『愛知縣神社名鑑』はこう書く。
「創建は明かではない。 『延喜式神名帳』に國玉神社とあり、『国内神名帳』に従二位大国玉明神とあり往昔は大社であったが打続く兵乱のため衰微して明応年中(1492-1500年)より現状になった。延喜式の國玉神社は久しく不詳であったが、元治元年(1864年)5月、当社と定められて、明治元年10月八劔神社を合祀する」

 注目すべきは1864年の5月に現・国玉神社が『延喜式』の國玉神社と定められたということと、「久しく不詳であった」という部分だ。
 1864年といえば、幕末の動乱期だ。そんな時期に、長らく行方が分からなくなっていた國玉神社を何故、万場村の八剣社ということにしたのか。
 この決定を下したのは尾張藩という。当時の尾張藩藩主は16代の徳川義宜(とくがわ よしのり)だった。しかし、義宜はこの年1864年に父の隠居に伴って家督を継いで藩主になったばかりで、年齢はわずかに6歳だった。そんな小1年代の坊ちゃんが急に國玉神社のことを言い出すはずがない。実質的な政治は父の慶勝(よしかつ)が行っていた。
 慶勝の名前がここで出てくるとなると、なるほどピンとくるものがある。慶勝は14代藩主(当時は慶恕/よしくみ)で、義宜が18歳で死去するとその後を次いで再び藩主となっている。思想的にややクセがあり、ひと言でいうと尊皇攘夷の人だ。
 國玉神社というのは、他の式内社とは、ある意味では決定的に違う存在の神社だ。国の玉(おう)を祀る神社ということで、その土地を代表する神社として創建されたはずなのだ。
『式内社』に載る國玉神社は、尾張大國霊神社(稲沢市の国府宮神社)から勧請したか、もしくはその土地の王とでもいうべき神を祀る神社として創建されたと考えられる。
 そんな由緒のある國玉神社が「久しく不詳」であることはよくないと慶勝は考えたのだろう。どこかにそれに当てはまるような神社はないかと探して見つけたのが万場村の八剣社だったのではないだろうか。

 江戸期を通じて國玉神社はどこの神社なのかということは盛んに議論され、現地調査も行われていた。
 しかし、尾張藩主導で編さんされた地誌の『尾張志』が完成した1843年時点における結論は、
「本国帳にも従二位(一本正一位)國玉名神とありて名神大社なれと今廃れて其旧地も知る人なし」だった(旧字体を改めている)。
 どこにあったのかさえ誰も知らないと書いている。
『尾張志』は、1700年頃に編さんを始めて1752年に完成した『張州府志』を下敷きにしているから、江戸中期の時点ですでにそうだったということだ。
 それなのに、幕末になって突然、藩主の鶴の一声で、実は國玉神社は万場村の八剣社でした、などと言われても皆大いに戸惑ったんじゃないだろうか。指名された方もびっくりしてしまう。
(境内にある由緒書きには『尾張志』に尾張大國霊神社から勧請した式内社とあるけど、『尾張志』にはそんなことは一切書かれていない。名古屋市教育委員会がそんな適当なことを書くのはまずいだろうと思う)
 江戸期において、國玉神社は、津島市の津島神社(牛頭天王社)のことだとする考え方があった。津島社本社のことだとも、境内摂社の弥五郎殿社とも、居森社がそうともいわれていた。
『尾張国神社考』の津田正生も、國玉神社を津島神社との関係で検討するのみで、万場村の八剣社には触れていない。
『尾張国地名考』の中では、海部郡津島が初めて出てくるのは東鏡(吾妻鏡)で、もともとは津積志摩(ツツミシマ)の二郷が一緒になって詰まったためにできた地名とし、國玉神社は志摩の方の産土神だろうとしている(津積の神社は不明とする)。

 地形のことを考えても、この場所に平安期以前に古い神社があっただろうかという疑問がわく。
 弥生時代、もしくは古墳時代まで、このあたりは海の底だった。
 その後の海岸線後退と庄内川などが運んだ土砂によって陸地化した。
 しかし、現在でも神社のある場所は海抜1メートルの低地だ。更にいうと、平安時代中期には平安海進があって海面は現在より50センチほど高かったと考えられている。
 もっと言えば、ここは庄内川が大きく蛇行した右岸だ。土木技術が未熟だった古代において、この地が無事で済んだとは思えない。そもそもそんな土地にあえて国の王ともいえる神を祀る神社を建てたりはしないはずだ。もっと国の中心的な場所に建てなければいけない。
 神社の南には旧佐屋街道が通っている。佐屋街道は熱田(宮宿)と佐屋宿をむすぶ東海道の迂回路で、庄内川を挟んで西には万場宿、東には岩塚宿があり、万場の渡しがあった。
 この佐屋街道は尾張藩初代藩主の義直が開いた道とされている。
 七里の渡しの海路を避ける女性などによく利用され、明治天皇の行幸にも使われた。
 つまり、この万場村が賑わったのは江戸期に入って宿場町ができてからのことだ。それ以前にも佐屋街道の元になった道はあったのだろうし、集落もあったのかもしれないけど、國玉神社を建てるような土地だったとは考えにくい。
 では、國玉神社はどこにあったのかというと、それはもう分からないとしか言いようがない。海部郡のどこかにはあったのだろうけど、それは万場村ではないだろうし、津島神社関係でもないように思う。すでに失われてしまったのだと個人的には考える。江戸期から見て久しく不明というのなら、鎌倉期か、ひょっとすると平安後期かもしれない。庄内川の洪水で流されたという可能性もある。

 八剣社と呼ばれたこの神社は、もともとどんな神社だったのか。
 明治元年(1868年)に八劔神社を合祀して、国玉神社・八剣社となったというのだけど、それ以前から八剣社だったというなら、もともと八剣社として創建されたのではないかと思う。
 創建は江戸期などではなく、もっと古い。『愛知縣神社名鑑』の「往昔は大社であったが打続く兵乱のため衰微して明応年中(1492-1500年)より現状になった」というのが本当であれば、遅くとも室町期にはあったと考えてよさそうだ。鎌倉期までさかのぼれるかもしれない。
  現在の祭神の大物主命は国玉神社とされたときの後付けで、日本武命、草薙御剣神霊、天照皇大神は八剣社を合祀したときのものだろう。
 もし、八剣社になる前は別の神を祀る神社だったとしたら、その神が何だったのかは知りようがない。
 平安期、鎌倉期のこのあたりはどんな土地で、どんな人たちが暮らしていたのかは、まったく想像ができない。
 庄内川を挟んで東側には、七所社ならびに御田社がある。御田社は式内論社とされる神社で、熱田神宮の神田があったことから神社が創建されたという話がある。七所社は熱田の神の遙拝所だったともいう。
 川の東に熱田の勢力があったのなら、川を挟んで西側に熱田神宮関連の神社があったとしてもそれは不自然なことではないように思う。

 徳川慶勝がこの八剣社を國玉神社としたのは何らかの根拠があったからかもしれない。少なくとも適当に決めたわけではないだろう。
 明治元年の明治天皇東幸の際には勅使がこの神社に奉弊している。
 明治5年には近隣八ヶ村の郷社に列格した。幕末から明治初期にかけてとんとん拍子の出世をしたことになる。
 明治40年には供進指定社になった。
 現在の等級は八等級となっている。にもかかわらず、氏子数が220戸というのはいかにも少ない気がするのだけどどうなんだろう。万場地区の人口がそれだけ少ないということだろうか。

 その神社が式内社かどうかを考えるとき、個人的なバロメーターとして、古社臭さといったものを基準にすることがある。
 津田正生の表現でいうと、「神さびている」かいないかということになる。
 そういう意味でいうと、この国玉神社・八剣社は、全然古社臭さが足りない気がした。社殿は大変立派で、境内の雰囲気も落ち着いていていいのだけど、なんというか、底からわき出してくるような圧倒的な雰囲気といったものが感じられない。ひと言で言うと、名前負けの迫力不足ということになるだろうか。
 実際にこの神社が式内國玉神社だったとしたら、私の感覚が間違っているということになるのだけど、この神社を後にするとき、うーん、どうなんでしょう、というもやもや感が残ったことは確かだった。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

国玉神社・八剣社は神社としては決して悪くはないのだけど

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