八劔社(十一番)

八剣の神さんはヤマトタケルなのか?

十一番八劔社

読み方 はっけん-しゃ(じゅういちばん)
所在地 名古屋市中川区十一番町4丁目1番地 地図
創建年 1725年(江戸時代中期)
社格等 村社・十四等級
祭神

日本武命(やまとたけるのみこと)

 アクセス

・地下鉄名港線「六番町駅」から徒歩約14分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 江戸時代前期の1646年から1649年にかけて伊勢湾を干拓で埋め立てて熱田新田を作った。それを一番割から三十三番割に分割した。その中の十一番割にあったのがこの八劔社だ。

『愛知縣神社名鑑』にはこうある。
「尾張藩祖徳川義直、慶安二年(1649)熱田新田を完成す。新田開発し住民急増し諸所に氏神を創祀する。享保十年(1725)、十一番割の氏神として創建する時に氏子十九軒なりと、天保九年(1838)、本社の石垣、末社矢来(垣)を新調取替え 氏子三十八軒、嘉永六年(1853)、屋根葺替あり」

 熱田新田が完成したのが1649年で、そこから人口が増えて、神社を建てたのが1725年。
 75年の神社空白期間をどう考えるべきなのだろう。生活を確立するのに精一杯で神社のことなど考えられなかったのか、集落として小さいうちは神社は必要ではなかったのか。
 一家で新しくできた土地に移り住んで、これから田んぼや畑を耕して暮らしていこうとなったとき、小さな祠でもいいから何らかの神を祀ろうと思わなかったのだろうか。
 江戸時代の人たちのそのあたりの感覚や発想というのがちょっと分からない。
 生活も軌道に乗って、人口も増えたことだし、そろそろ神社のひとつも建てようかという話になったということか。
 番割というのは村よりも小さな単位だから、熱田新田村として考えるべきかもしれない。そのあたりは、熱田新田村にあった神社をすべて回ってからあらためて考えることにしたい。

 祭神はヤマトタケル(日本武命)になっている。
 少し北にある八剱町八剱社は熱田の八剣宮から熱田大神を勧請したとしているのに対して、ここ十一番割の八劔社はヤマトタケルとしている。
 熱田神社本社と八剣宮の関係性はとても難しいので、どう捉えていいのかよく分からない。
 現在の熱田神宮は、熱田大神を主祭神としている。これは草薙剣を依り代としたアマテラスのこととする。
 相殿として、アマテラス、スサノオ、ヤマトタケル、ミヤズヒメ、タケイナダネを祀る。
 そして、熱田神宮別宮である八剣宮も本宮と同じ神を祀るとしている。
 しかしこれがそのまま江戸時代にも当てはまるわけではない。江戸時代、八剣宮の神は八剣明神などと呼ばれていた。あの時代にそれをどういう神と捉えていたのかはよく分からない。
 熱田新田などの新しい土地の神として熱田大神ではなく八剣明神の方が人気があったのは何故なのか。
 十一番八劔社の祭神をヤマトタケルとしたのは明治以降のことだと思う。江戸時代は単に八剣明神と呼んでいただけで、その実態が何かなどということはあまり考えなかったのかもしれない。八剣の神さんに守ってもらうというだけで充分だったということだろうか。

『尾張志』にはこう書かれている。
「八劔社 熱田新田にあり 末社に戸部天王ノ社 池鯉鮒ノ社あり 十一番割の氏神なり」

 戸部天王は南区呼続にある富部神社(とべじんじゃ)ゆかりの末社で、蛇毒気神(ダドクケノカミ)だ。
 詳しくは富部神社のところで書いたので繰り返さないけど、津島神社や牛頭天王とも関係がある。
『尾張志』に書かれているということは、わりと早い段階で祀ったということだ。
 池鯉鮒ノ社は、知立市の知立神社関係だ。このあたり一帯に知立社の末社がけっこうある。その中のひとつが松年町の知立神社だ。
 知立社がこのへんで流行ったのだろう。
 もうひとつの境内社に白龍社がある。
 かつて十一番割にあった池のほとりに祀られていたのをここに移してきたものだ。池に棲む白蛇を祀ったものだったかもしれない。人工の溜め池にも龍が棲んでいるという発想が日本人らしいともいえる。

 田畑などまったく姿を消してしまった熱田新田だけど、神社だけは残った。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

十一番八劔社はかつての熱田新田にある

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