少し離れたところから歩いて向かっていると、田んぼ地帯になにやら白っぽい神社が見えてきた。正面まで行って、心の中で叫んだ。なんだこりゃ、と。 とにかくピカピカの新築なのだ。本殿や拝殿を建て替えることはたまにあって何度か新築の社殿は見たことがあるのだけど、神社そのものが新築というのは初めて見た。鳥居も、玉垣も、社号標も、石灯籠も、参道も、手水舎も、狛犬も、もちろん社殿も、すべてが新しく作ったものだ。境内には白砂が敷かれて、松の木などもあらたに植えたものだろう。なんだか笑えた。 平成26年(2014年)遷座というからもう4年経っているのだけど、まだ充分新しさが残っている。完全新築の神社というのはめったに見られるものではないので、これは見る価値がある。あと5年もしたら新築感が薄れてしまうだろうから、見るなら今のうちだ。
ここに移されるまでは、260メートルほど南東の堤防道路脇にあった(地図)。 その頃は境内も狭く、ごく小さな神社だったのが、突然出世したかのように立派な神社に生まれ変わった。お金のことをいうのも何だけど、これはかなりかかっている。家一軒建てるよりもかかっているのではないだろうか。 数年前まで旧地に神社の跡が残っていたようだけど、現在はどうなっているのか把握していない。堤防道路を拡げるのかもしれない。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。昔から七島新田鎮護の神として崇敬、明治5年7月、村社に列格する。昭和34年9月の台風により社殿損傷した」
『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)に七島新田の神社は載っていない。
七島新田(ななしましんでん)は、江戸時代中後期の1788年(天明8年)に、下之一色村の木村権左衛門(木村権左エ門)が開発したもので、広さは約4町と、尾張内では最も小規模な新田だった。 七島の名前が示すように、このあたりはかつて湿地帯で島のようになっていたという。昭和50年(1975年)に七島排水機所が設置されてようやく乾田化したというから、長く湿田だったということだ。江戸時代は農民達は田んぼの間を舟で移動していたのだろう。 開発者の木村権左衛門は開発後もここに住み続けたという。しかし、1811年(文化8年)に名古屋大船町の伊藤忠左衛門(川伊藤家)の所有となっていることからすると、跡継ぎがなくて一代か二代限りになっただろうか。
七島の神明社をいつ誰が創建したのかは伝わっていない。一説によると、七島新田ができた1788年に建てられて、その後、川伊藤家が引き継いだともいう。それが本当だとすれば、創建者は開発者の木村権左衛門の可能性が高い。 七島新田の北端にある日蓮宗の寂光寺(地図)は、1790年(寛政2年)に七島守護を願って三十番神を祀ったのが始まりと伝わっている。最初は説教所だったのを明治6年(1873年)に寂光堂として創建し、昭和17年(1942年)に現在の寺号に改めた。 三十番神というのは、神仏習合の信仰で、30柱の神が毎日交代で人々を守護するというものだった。最澄が比叡山に祀ったのが始まりとされ、日蓮宗でよく祀られた他、吉田神道も採用した。明治の神仏分離令で神社として祀ることは禁止され、日蓮宗の寺では今も祀っているところがある。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、現在の七島1丁目、2丁目がそのままかつての七島新田だったことが分かる。 集落は東の新川堤防沿いにあり、北側は茶屋新田の集落と隣接している。 神社の旧地は東集落の南寄りの位置だ。 西側は田んぼが広がっており、それは現在も変わっていない。変わったところとしては、北側の1丁目に民家が増えたことと、新川と庄内川に架かる南陽大橋ができたことくらいだ。南陽大橋の開通は2004年(平成16年)だから、わりと最近のことだ。 神明社が移ってきた場所は、北の住宅地と南の田んぼエリアの境くらいで、今後はこのあたりも民家が建っていくのではないかと思う。10年もしたら神社周辺の風景は一変してしまいそうだ。
神明社には神事芸能としての神楽が伝わっている。 戦前まではこのあたりで虫送り神事が行われていたというけど、今はもうやっていないだろうか。 時代は移り、町も神社も姿を変えていく。 もしあと30年くらい生きられたとしたら、そのときはもう一度この七島の神明社を見にいくことにしよう。その頃にはすっかり古びた普通の神社になっていることだろう。この神社が新築だった頃の姿を覚えていたら、こみ上げてくる思いといったものがあるかもしれない。
作成日 2018.8.6(最終更新日 2019.7.27)
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