西区には今でも多くの屋根神様が残っており(少し前の調査では120社余りあったという)、屋根の上に載っているものから道ばたに置かれたもの、家と家との隙間にあるもの、敷地を持つものまでいろいろなスタイルがある。 新道2丁目にある天王社は、天王社と名乗ってはいるものの、実態は屋根神様に類するもののようで、熱田社、津島社、秋葉社を祀っているという。これは名古屋の屋根神様の典型的な組み合わせだ。 立派な鳥居もあり、稲荷社とも合体しているので、充分神社だ。充分神社というのもおかしな表現なのだけど。
名古屋城(web)から1キロほど西南のこのあたりは、江戸時代までは名古屋村と呼ばれていた。 江戸時代中期の1694年(元禄七年)に新しく町屋が作られて新町と呼ばれるようになる。 後に新道町とあらたまり、現在は新町となっている。町名は昭和56年に枝郷町はじめ4町と新道町はじめ13町の各一部より成立した。 1731年(享保十六年)には水茶屋が20軒ほど並び、繰人形浄瑠璃芝居の公演が許可されて、ちょっとした花町のようになっていたという。 これは1730年に藩主になった徳川宗春によるものだった。江戸では吉宗が将軍のときで、質素倹約を旨とすることが全国の藩に命じられていた中、宗春だけが逆の政策をとり、芝居を奨励したり、遊廓を建てたり、とにかくみんなでお金を使えば経済が活性化するだろうという方針で、この時代は名古屋だけが賑やかだった。 しかし、当然のように吉宗の怒りを買い、宗春は隠居謹慎を命じられてしまう。1739年のことだ。 それに伴い、新道町にあった茶屋も取り壊された。 宗春は死ぬまで許されず、墓には罪人の印として長く網が被せられていた。 新道町筋の西側には海福寺、林貞院、宝周寺、法蔵寺、西願寺、正覚寺の6つがあり、ここは寺町でもあった。 江戸時代後期の1800年代になると、このあたりでせんべいやおこしを売る菓子店が建ち並び、盛況を見せるようになる。今の菓子問屋街の始まりで、戦後になって日本を代表する菓子問屋街へと育っていった。 新道の東には江川が流れており、東西南北に市電が走っていた。 その後、江川は暗きょ化され、市電は昭和40年代に廃止された。高架の高速道路ができて、このあたりの風景は大きく様変わりした。古くからこの町を知っている人にしたら隔世の感が強いだろう。
天王社がいつここに建てられたかは調べがつかなかった。 社号標の裏に昭和四十六年とあるからそのときかもしれないけど、古い部分と新しい部分が混在しているのでなんとも言えない。 穴守稲荷社も、もともとここにあったものではなくどこからから移してきたものではないかと思う。東京都羽田にある同名の穴守稲荷とは関係がないと思うけど、名前の穴守には何かいわれがありそうだ。 境内や社はきれいな状態を保っているのできちんとお世話されているようだ。部外者ではあるけど、小さくてもきれいな神社は気持ちがいいし安心する。
作成日 2018.6.5(最終更新日 2018.12.19)
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