春日神社(新富町)

夫婦楠が守る小さな春日さん

新富町春日神社

読み方 かすが-じんじゃ(しんとみちょう)
所在地 名古屋市中村区新富町二丁目3番15号 地図
創建年 伝・1572年(室町時代末)
社格等 十五等級
祭神

天兒屋根命(あめのこやねのみこと)

アクセス

・名鉄名古屋本線「東枇杷島駅」から徒歩約11分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 中村区の北端、庄内川の南にある小さな春日神社。
 入り口から見るとそこそこ立派な感じで、鳥居もあるし、狛犬もいる。ただ、本社はごく小さく、拝殿はない。一般的な神社の境内社くらいの規模の社となっている。
 この神社について分かることは少ない。数少ない手がかりとして『愛知縣神社名鑑』がある。
「社伝に足利の末期元亀三壬申年(1572年)宮野大膳勧請すという。 新富町の産土神として崇敬篤し、昭和18年11月4日、明細帳脱漏神社のところ編入許可される」

 1572年といえば、戦国時代まっただ中、武田信玄も上杉謙信もまだ存命で、勢いづく信長を始め、戦国武将たちがしのぎを削っていた時代だ。同時に時代の転換期でもあった。
 翌1573年には武田信玄が死去し、信長が足利義昭を追放して室町幕府が滅亡する。
 そんな時代にも神社を建てていたのかと少し驚いた。
 宮野大膳というのが何者なのかは調べがつかなかった。どこから勧請したのかも分からない。室町末期の春日大社はどんな状況だったのか。

「明細帳脱漏神社のところ編入許可される」ということがどういうことなのかは少し説明が必要だ。
 明治政府は神仏分離令を出し、全国の神社がどうなっているか調査してまとめることを決めた。
 明治12年(1879年)に内務省が全国の寺社に対して詳しいことを府県に報告するようにという命を出し、その結果まとめられたのが神社明細帳(じんじゃめいさいちょう)だった。そこに載ることで国から正式に認められたことを意味した。
 しかし、明治初期のことでいろいろ混乱もあり、未提出のところや、記入漏れや誤りなどもあったことから、それらを直してあらたに登記することを明細帳脱漏神社の編入といったのだった。
 この春日神社については、昭和18年(1943年)にそれが行われたということだ。
 第二次大戦まっただ中にそんなことをしてたんだと、ここでも軽く驚いた。
 昭和20年の空襲が始まるまでは、日本国内ではそれなりに普通の日常生活が送られていたということなのだろう。
 新栄八王子社も昭和18年に遷座してあらたに社殿を建てたというし、戦時中でも神社には神社の日常の時間が流れていたようだ。

 祭神はアメノコヤネ(天児屋根命)となっている。
 アメノコヤネ一本勝負という神社はそれほど多くないのではないだろうか。総本社である春日大社にならって武甕槌命(タケミカヅチ)、経津主命(フツヌシ)、天児屋根命(アメノコヤネ)、比売神(ヒメガミ)の4柱を祀っている春日神社が多い。名古屋では大須春日神社もそうだ。
 アメノコヤネは中臣氏の祖神とされる神で、祝詞の神だ。アマテラスの天の岩戸隠れのときに祝詞を読み、ニニギの降臨に従って地上に降りた。
 春日大社ももともとは中臣を祖とする藤原氏が祖神を祀る神社として建てたものだから、アメノコヤネは本筋といえば本筋なのだけど、それにしても地方の春日神社でアメノコヤネ単独というのはちょっと珍しいと思う。
 勧請した宮野大膳という人物の正体が分かれば何か手がかりが掴めるのだろうけど、戦国時代真っ最中に尾張の片田舎に春日神を祀る神社を建てた意図はなんだったのか気になるところだ。

 境内には夫婦楠と呼ばれる立派な楠がある。
 近くに住む夫婦が農作業中雷が鳴ってきたので楠の下に避難していたところ、楠に雷が落ちて夫婦は助かったため、感謝する意味で自宅の庭に楠を植えたところ、家運が上がって代々栄えたため、お礼として神社に植え替えたのがこの夫婦楠なのだとか。
 境内には何本か大きな楠があって、どれも妙な生命感を持っている。コケやシダが寄生して神々しささえ感じさせる。森の奥に息づく巨木の風情がある。

 神社としての規模は小さいけど、ここの境内はいい。特別な空気感がある。そうでなければ、あんなに木々が生き生きとは育たないだろう。
 由緒や社殿が立派ではなくても、いい神社というのはある。そういう神社に関しては、過去をあれこれ詮索しなくてもいいのかもしれない。今そこにある姿で充分といえば充分だ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

楠の木々が素晴らしい新富町春日神社

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