新栄八王子社

クニサツチを祀るって本当だろうか

新栄八王子社

読み方 しんさかえ-はちおうじ-しゃ
所在地 名古屋市中区新栄-24-13 地図
創建年 不明
社格等 十四等級
祭神

国狭槌尊(くにさつちのみこと)

 アクセス

・地下鉄東山線「新栄町駅」から徒歩約12分
・JR中央本線「千種駅」から徒歩約18分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 集合住宅の駐車場の一角のような場所にこの神社はある。すぐ西には白山神社があって、何か関係があるのかと思ったらまったく関係はなかった。
『愛知縣神社名鑑』にこうある。
「創建は明かではない。もと千種区鍋屋上野町に鎮座 官有境内二百五坪であったが、明治20年2月、付近一帯の土地が陸軍作業地(演習場)となり、境内地も陸軍省の管轄となり、小丘に僅かに社殿を残すのみとなった。 崇敬者これを嘆き、昭和18年3月5日、今の社地に遷座、社殿を造営、再興した」
 鍋屋上野町というと、現在の町名で砂田橋1丁目から5丁目にかけてで、大幸住宅があるあたりのことだ(地図)。もともとはその場所にあったということが分かった。
 官有境内というから、明治の初め頃に国有地になったということなのだろう。その後、明治20年(1887年)に帝国陸軍の演習場を作ったため、神社は小山の上の小さな祠になってしまったようだ。
 ただ、ちょっと分からないというか疑問なのは、昭和18年(1943年)に新栄の現在地に移して社殿を造営したという部分だ。
 昭和18年3月といえば、第二次大戦で日本軍の旗色が悪くってきた頃で、国内でも物資が不足してきた時期ではなかったのか。4月には山本五十六連合艦隊司令長官が戦死しているし、5月には学徒出陣が決まった。
 そんな時期にわざわざ神社を他に移して社殿を建て直したりするだろうか。まだ国内的には楽観的でそれくらいの余裕はあったということなのか。
 その頃の新栄一帯がどんな風景だったのかを想像することは難しい。隣にある白山神社はすでにあった。白山神社は古墳の上に建っているとされている。まだ田んぼや畑が広がるだけの何もないような土地だっただろうか。
 現在のコンクリート造の社殿が建てられたのは戦後のことだろう。このあたりは空襲で焼けなかったのかもしれない。

 この神社はいろいろ分からないことがある。
 まず、祭神としてクニサツチ(国狭槌尊)を祀っているという点だ。
 なのに、神社名は八王子社になっている。
 八王子というと一般的には、スサノオとアマテラスの誓約(うけい)から生まれた五男三女神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命)を祀るところが多い。
 さかのぼると、両部神道の八王子権現が元にある。
 密教側から神道を習合させた考えで、牛頭天王と頗梨采女(はりさいじょ)との間の8人の王子を八王子権現と総称し、913年に妙行が東京八王子の深沢山に祀ったのが起源とされる。
 八王子は、太歳神、大将軍、太陰神、歳刑神、歳破神、歳殺神、黄幡神、豹尾神となっている。
 祭神とされるクニサツチはといえば、天地開びゃくにときに現れたとする神代七代(かみのよななよ)の一柱で、『日本書紀』に出てくる。『日本書紀』では二番目に登場するのに、『古事記』では出てこない。
 名前だけの登場で、活躍は描かれない。そのため、どんな神かを知る手がかりとしては名前しかない。
 狭槌は、普通に取ると、狭(せま)い槌(つち)で意味が通らない。槌は金槌のように叩く道具という意味の字だ。
 別名の国狭立から考えると、狭いところに立っている神となり、これまたよく分からない。
 狭を神の稲、槌を土として土に稲を植える神とする説もあるようだけど、それはそれでこじつけっぽい気もする。

 問題は、いつ誰がクニサツチを祀る神社を建てたのか、ということだ。
 その人物なり勢力なりは、クニサツチをどういう神として捉え、何を願って神社を建てたのだろう。
 そもそも本当に祭神はクニサツチなのか。
 いつ八王子社と称するようになって、もともとの社名は何だったのか。
 それら肝心な部分が分からないのがもどかしい。
 宝物に木彫の神像と石地蔵があり、ともに室町期のものという。神像も、石の地蔵も神仏習合を示すものだ。所蔵する宝物が室町のものというのであれば、神社の創建も室町期もしくはそれ以前という可能性が高い。
 本当に最初からクニサツチを祀る神社として建てられたのであれば、かなり古い神社ということも考えられる。
 所蔵する神像が何の神像なのかが分かればひとつの手がかりになる。ひょっとするとそれが八王子権現だから八王子社としたのだろうか。

 もうひとつの謎が、同居する青木神社の存在だ。
 拝殿にかかる額には八王子社と青木神社が並んで書かれている。
 この青木神社に関しては、調べてもまったく分からなかった。元の場所にあったものなのか、のちに合祀されたのか、合祀ならそれはいつのことなのか。
 青木神社という名前の神社は、岐阜や横浜にあるようだけど、それらの神社と結びつけるのは難しそうだ。
 境内社として、白龍大明神もある。

 この神社についてこれ以上知るためには、千種区の鍋屋上野町時代にさかのぼって調べる必要がある。
 ただ、元の名前が分からないことには辿るのも難しい。江戸期に書かれた『尾張志』や『尾張名所図会』、『尾張国地名考』などにそれらしい神社は発見できなかった。
 この後、何か分かれば追記したいと思う。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

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