八王子社(新栄)

クニサツチを祀る

新栄八王子社

読み方 はちおうじ-しゃ(しんさかえ)
所在地 名古屋市中区新栄3丁目24-13 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 無格社・十四等級
祭神 国狭槌尊(くにさつちのみこと)
アクセス 地下鉄東山線「新栄町駅」から徒歩約12分
JR中央本線「千種駅」から徒歩約18分
駐車場 なし
その他 例祭 10月15日
オススメ度

 集合住宅の駐車場の一角のような場所にこの神社はある。神社前の駐車場は神社の参拝者用ではなく月極駐車場だ。
 すぐ西には白山神社があって、何か関係があるのかと思ったらまったく関係はなかった。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではない。もと千種区鍋屋上野町に鎮座官有境内二百五坪であったが、明治20年2月、附近一帯の土地が陸軍作業地(演習場)となり、境内地も陸軍省の管轄となり、小丘に僅かに社殿を残すのみとなった。崇敬者これを嘆き、昭和18年3月5日、今の社地に遷座、社殿を造営、再興した」
 鍋屋上野町は江戸時代の鍋屋上野村のことだ。
 上野村は戦国時代に下方貞清が築城した上野城(今の上野小学校/地図)を中心に発展した集落で、それ以前はもっと北にあって狩津村といっていた。南の高台に移って上野村というようになり、鋳物職人の初代水野太郎左衛門が移り住んでいたことで江戸時代以降は鍋屋上野村と呼ぶようになった。

 江戸時代の鍋屋上野村(上野村)の神社は以下の通り。

『寛文村々覚書』(1670年頃)
「社七ヶ所 内 天神 浅間 八幡 天王 愛宕 山神 一王御前 社内弐町壱反拾歩 前々除」

『尾張徇行記』(1822年)
「地蔵堂牛頭天王祠弁才天、是ハ永弘院ノ界内ニアリ」
「庚申堂界内四畝、一ノ御前祠界内三反、愛宕祠界内四反八畝八歩、八王子祠界内五畝、山神祠界内一畝十八歩前々除」

『尾張志』(1844年)
「浅間社 天王社 一御前社 八王子社 愛宕社 天神ノ社」

 これを見る限り、江戸時代前期の時点ではまだ八王子はなかったのかもしれない。ただ、前々除となっているということは1608年の備前検地のときにはすでに除地となっていたということなので、江戸時代以前からあったとも考えられる。

『愛知縣神社名鑑』によると明治時代は官有とあるので、境内地は国有地になっていたようだ。
 明治20年(1887年)に陸軍の所有となったとき、社もそのまま引き継がれたということだ。
 明治から戦中にかけて鍋屋上野には名古屋陸軍造兵廠をはじめ、陸軍の武器庫や演習場などが作られた。山口街道をはさんで北は清明山から萱場、南は北千種、若水一帯が陸軍の所有地だった。
 第二次大戦の空襲の目標となり、あたり一帯は大きな被害を受けた。
 それを見越してというのもあっただろうか、戦時中の昭和18年(1943年)3月に陸軍の敷地から現在の新栄に社殿を移したという。
 しかし、昭和18年といえばだいぶ戦況も悪くなっていた頃で、国内では物資の不足が深刻化していた時期だ。よく神社を移せる余裕があったとも思うのだけど、小さな社を運んで移した程度だったかもしれない。
 それにしても、どうして鍋屋上野村から新栄だったのだろう。当時の新栄は名古屋城下から発展して都心部といえるほどの町になっていた。今昔マップの1937-1938年(昭和12-13年)を見ると、隙間なく建物が建っていたことが分かる。
 ほとんど隣接するようにある白山神社の境内ではなく別に境内地を設けて移した理由もよく分からない。
 もともとここは駿河街道沿いの東寺町と呼ばれる地区で、家康が防衛のために街道沿いに寺を建てさせた場所だ。清須越で移された寺が多くここにあった。
 明治から大正にかけて東に国鉄中央本線が、西には市電が走るようになっていた。
 第二次大戦の空襲ではこのあたりも被害を受けることになったので、神社の疎開先として適当だったかどうかは何とも言えない。鍋屋上野の被害に比べればましではあったのだけど。

 祭神としてクニサツチ(国狭槌尊)を祀るとしているのが気になる。
 江戸時代もしくはそれ以前の八王子社では牛頭天王と頗梨采女(はりさいじょ)との間の8人の王子を八王子権現として祀っていたところが多い。
 913年に妙行が東京八王子の深沢山に祀ったのが起源とされ、八王子は太歳神、大将軍、太陰神、歳刑神、歳破神、歳殺神、黄幡神、豹尾神となっている。
 そういった八王子社は明治の神仏分離令以降、スサノオとアマテラスの誓約(うけい)から生まれた五男三女神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命)を祀るとしたところが多かった。
 新栄の八王子社がクニサツチを祀るとしたのは明治以降だと思うのだけど、どうしてクニサツチとしたのか。あるいは、もともとクニサツチを祀っていたのだろうか。
『日本書紀』では天地開びゃくにときに現れた神代七代(かみのよななよ)の中で二番目としている。
『古事記』では山の神・大山津見神と野の神・鹿屋野比売神の子・国之狭土神として出てくる。
 どちらも名前だけの登場で、活躍は描かれない。そのため、どんな神かを知る手がかりとしては名前しかない。
 狭槌は、普通に取ると、狭(せま)い槌(つち)で意味が通らない。槌は金槌のように叩く道具という意味の字だ。
 別名の国狭立から考えると、狭いところに立っている神となり、これまたよく分からない。
 狭を神の稲、槌を土として土に稲を植える神とする説もあるようだけど、それはそれでこじつけっぽい。
「狭」という字ではなく「サ」という言葉に何か意味を持たせているのだろう。
 江戸時代の人たちがクニサツチを知っていたかどうか。知っていたとして、どんな神という認識だったのだろう。
 もしかするともともとは八王子ではなく違う名前の神社で、創建はかなりさかのぼるかもしれない。上野村(狩津村)にあった天神、天王、一王御前といった神社からも古くからの集落の可能性を感じる。
 宝物として室町時代の神像と石地蔵を所蔵するという。何の神像かは情報がなくて分からない。八王子権現なのか違うのか。
 これらが元から八王子社のものだとすれば、少なくとも室町時代まではさかのぼることになる。
 愛知県豊田市にある野見神社は野見宿禰(のみのすくね)を祀る式内論社で、その境内社の八王子社でクニサツチを祀っている。新栄の八王子社だけが例外というわけではなく、かつてはそういう信仰があったのかもしれない。

 もうひとつ気になるのが、青木神社の存在だ。
 拝殿や鳥居の額には八王子社と青木神社の社名が並んで書かれており、東入口の鳥居前には青木神社の立派な社号標も建っている。本社に合祀というより相殿といった扱いだ。
 この青木神社に関しては、調べてもまったく分からなかった。鍋屋上野村の神社の中にこれに相当するようなものは見当たらない。
 戦後に別の場所から移されたのだろうけど、青木神社というのは名古屋では聞かない社名だ。岐阜や横浜にあるようだけど、それらと関係があるのかどうか。
 境内社として白龍大明神も祀られている。

 どうして鍋屋上野から新栄のこの場所だったのか、いつからクニサツチを祀っているのか、もとから八王子社だったのか、青木神社はどこから移したどういう神社なのか、いろいろと不明な点が残った。調査を続けて何か分かれば追記したい。

 

作成日 2017.5.20(最終更新日 2019.3.5)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

新栄八王子社は古くて新しい神社

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