中川区川前町にある白山社。 北の中村区と南の中川区は、JR関西本線や近鉄名古屋線の線路付近を境界線としているのだけど、川前町だけが線路を越えて北にぽこんと小さく食い込んで中川区になっている。歴史的な背景があるのか、行政上の都合なのかは分からない。 川前町は中川区川前町と中村区川前町が隣接していてややこしい。中川区川前町は昭和49年(1974年)に富田町大字前田の一部より成立した。中村区川前町は昭和55年(1980年)に中村区横井町の一部より成立している。 神社があるのは江戸時代の何村だったのかがはっきりしない。 今昔マップ(1888-1898年)を見ると、横井村と前田村と前田河原新田の間にある。前田村と前田河原新田の間だから、前田村の村域だろうとは思うのだけど確信は持てない。川前町の住宅地エリアはかつての前田河原新田の集落があった場所に当たる。
『寛文村々覚書』(1670年頃)を見ると、横井村の神社は高野大神宮(中村区高野宮社)のみで、前田村に白山があるので、これが川前町の白山社だろうか。 「白山 社内 年貢地 横井村祢宜 甚太夫持分」とある。除地ではなく年貢地になっている理由は分からない。管理していたのは横井村の祢宜だったことが分かる。 『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。 「横井村祠官二村長門守書上張ニ、白山社内四畝十五歩年貢地 此の社ノ初は知レズ、再建ハ元和五未年ノ由」 再建年の元和5年は1619年なので、江戸時代以前からあったと思えるのだけど、年貢地ということは1608年の備前検地の際に除地とされなかったということだ。 『尾張志』(1844年)には「白山ノ社 前田村にあり」とだけ書かれている。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「この地は『神鳳鈔』に尾張国前田の荘で伊勢神宮の御園ありし所にて古くより祭りし神社で慶長(1596)元和(1615)寛永(1624)等棟札を社蔵しが昭和十九年三月の空襲により社殿は勿論古記録一切を烏有に帰した。『村誌』に昔は境内四畝十五歩免租地横井村祢宜二村長門守なり。明治5年7月、村社に列格する明治43年5月社殿を改修する」 名古屋空襲で社殿や記録を失ったようだけど、1596年の棟札があったというなら創建はそれ以前ということだ。 『神鳳鈔(じんぽうしょう/web)』は、伊勢の神宮(web)の領地の一覧表で、鎌倉時代初期の1193年から始めて、室町時代前期の1360年に完成したとされる。 その中に「前田」とあるので、その前田が後世の前田村を意味するのであれば、前田村の集落は古くからあったということになる。前田村の神社は白山のみなので、この白山も集落の成立とともに建てられたかもしれない。それにしては年貢地となっていた点が引っかかる。 名古屋空襲というと昭和20年のものがよく知られているのだけど、昭和17年から小規模の空襲は始まっており、昭和19年に神社が焼けたというのもそのうちのひとつだったのだろう。 戦中の今昔マップを見るとこのあたりに攻撃目標になるものなどなさそうなのに、どうしてここが攻撃されたのだろう。
中川区で前田というと、荒子城の前田利家がよく知られている。ただ、蔵人家と呼ばれた荒子の前田家は庶流といわれており、尾張の前田本家は前田城主で与十郎家といっていた。 その他、美濃前田家があり、美濃国前田村に住んだことから前田を名乗ったともいわれている。尾張前田家との関係ははっきりしない。尾張の前田の地名が室町時代もしくは鎌倉時代からあったとすれば、前田家が住んだことが前田の地名になったとは考えにくい。 前田利家は信長に仕えて功績を挙げ、加賀に移って加賀前田家の基礎を築いた。その後、加賀藩は百万石の大大名となる。 尾張前田家の前田城は庄内川西の速念寺(地図)あたりにあったとされるも、遺構は残っていない。
祭神を菊理媛神(ククリヒメ)ではなく白山比咩神(シラヤマヒメ)としているのは、伏屋の白山社と同じだ。加賀一宮の白山比咩神社(web)から勧請したと考えていいだろうか。 名古屋の白山社では祭神をククリヒメとしているところが多く、シラヤマヒメとしているのは少数派だ。稀に伊邪那美(イザナミ)を祭神としている白山社もある。
『愛知縣神社名鑑』によると、昭和29年(1954年)に川前町52番地の稲荷社、前田西町3丁目51の秋葉社、前田西町1丁目1302の秋葉社を、それぞれ飛地境内社にしたとある。 前田西3の秋葉社は分かるけど、前田1丁目の秋葉社は小社(前田西)のことだろうか。 川前町52番地の稲荷社というのは把握できていないので、もう一度行って探し当てないといけない。『愛知縣神社名鑑』の情報は古いから、もしかするとどこかに合祀されたり廃社になっているかもしれない。
作成日 2017.6.13(最終更新日 2019.5.27)
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