富永にある秋葉社。江戸時代の富永村だったところだ。 秋葉社としては中規模で、鳥居はあって拝殿はなく、境内はそこそこの広さがある。本殿は覆殿で覆われている。参道に並ぶ灯籠などは新しい。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は嘉永四年(1851)4月17日、という南屋敷の氏神として崇敬あつく、明治10年7月19日据置公許となる」 現在の富永2丁目のこのあたりは南屋敷と呼ばれていたようだ。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社があるのは富永村集落の中央やや南に当たることが分かる。神社のすぐ東の通りは江戸時代からある古い道だ。神社は最初からここに建てられたと考えていいのではないか。 それにしても嘉永四年(1851年)といえば、もう幕末の頃だ。2年後の嘉永六年には黒船が来ている。どうしてそんな時代に火防せの神を祀る神社を村に建てようということになったのかがよく分からない。尾張の田舎の方では江戸の政局などは他人事だっただろうか。
神社のすぐ北にある覚照寺は、もともと長島にあり、覚正寺という天台宗の寺だった。天正年間(1573-1592年)、信長の長島攻めで追われた了円という僧がこの地に逃げてきて再建したとされる。 その覚照寺の少し北西にある富吉山観音堂の前を通ったとき少し気になったので寄ってみることにした。外から見て少し神社の気配がしたからというのもあった。 境内には立派な由緒書きの碑が建っており、それによると、『尾張徇行記』の富永村の項に「観音堂一宇、境内三畝二歩草創ハ知レス、再建ハ元禄二年(1689)也」とあるとしている。 本尊の木造聖観世音菩薩は海で漁師の網にかかって引き揚げられたもので、弘法大師の作とも伝わるという。 昔は洪水で寺ごと流されてしまうことがけっこうあって、海で漁師が仏像を引き揚げたという話も少なくない。それで寺を建ててしまったりすることがあって、後になってあそこの仏像はもともとどこどこの寺のものだったなどという話が出てくる。もとの所有者に戻すという発想はあまりなかったのか、拾ったもん勝ちみたいなところがあったのかもしれない。 江戸時代中期の元禄年間(1688-1704年)には村の所有となり、現在は無住の寺で近隣の住民が守っているようだ。本尊は8年に一度開帳されるらしい。 通り過ぎようとする私を観音様が引き留めたのかもしれない。まあ、せっかくここまで来たんだ、ちょっと寄っていきなさいと。神社でも寺でもたまにそういうことがある。
作成日 2017.11.28(最終更新日 2019.7.9)
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