名古屋市内に出雲大社(web)系の神社はないと思っていたら熱田区に一社だけあった。それがここ、沢下町の出雲社だ。 緑区桶狭間に出雲大社愛知日の出教会があるけど、あれは教派神道の出雲大社教(web)の教会なので、出雲大社系の神社とは違う。 沢下の出雲社も出雲大社教なのかと思ったのだけど、出雲大社教のwebサイトに載っていないから違うようだ。 では、正式に出雲大社から勧請した神社なのかというと、それはちょっとよく分からない。この神社に関する情報がほとんどないのでお手上げ状態なのだ。
北の八熊通の側道からこの神社が見えるかどうか。住宅地の中の家と家との間の奥まったところに鎮座している。 南の駐車場側からは入れず、北側の沢下町どんぐりひろばから行くか、西側の民家の間を抜けていくかしかない。ひょっとしてここは民家の庭なんじゃないかと思った。実際、そうではないとは言い切れない場所にある。 ただ、神社を形作る一通りのものは備わっている。鳥居があって、手水舎があって、石灯篭、狛犬もある。賽銭箱もあるから一般の参拝者も想定しているということだろう。 全体に古びてはいるものの荒れている様子はなく、日頃から手入れをしていることが伺える。 社は板宮造で、中央が大きく、左右は小さい。 祭神については中央は大国主(オオクニヌシ)だろうけど、左右については分からない。少彦名(スクナヒコナ)かもしれないし、秋葉社とか熱田社かもしれない。 鳥居裏には「昭和八年十二月」の年号が刻まれている。社号標の裏は「昭和八年十一月」となっている。石灯篭は「昭和二十七年」だろうか。にじんではっきり読み取れない。 もしかすると昭和8年が創建年に当たるかもしれない。 境内には皇紀二千六百年記念として陸軍中将安岡正臣書の「八紘一宇」の石碑がある。皇紀二千六百年は昭和15年(1940年)で、この年は戦時中ということで国内で多くの式典などが行われ、このような記念の石碑もたくさん建てられた。 安岡正臣(やすおかまさおみ)というとノモンハン事件を思い浮かべる人も多いだろうか。日本側の満州国とモンゴルとの間の国境線をめぐる紛争がノモンハン事件で、安岡正臣は第1戦車団長だった。 しかし、鹿児島県出身の安岡正臣と名古屋や出雲大社との関わりがよく分からない。安岡正臣は陸軍司政長官(スラバヤ州知事)として終戦を迎え、1945年12月に戦犯容疑で逮捕され、1948年に蘭印(オランダ領東インド諸島)で刑死している。 この石碑は別の場所にあって、後に出雲社に移されたとも考えられる。
今昔マップで明治以降のこのあたりの変遷を辿ってみる。 沢下の地名は、沢の観音堂のあった本沢の下方に位置したことからそう呼ばれるようになったとされる。沢の観音は熱田四観音のひとつで、かつては熱田社(熱田神宮/web)の北東の沢(澤)にあり、後に堀川沿いに妙安寺が再興されたときにそこに移された。 『尾張名所図会』(1844年)には「沢観音妙安寺」と題して雪景色が描かれている。高台にあって眺めがよかったことから江戸時代は名古屋三景のひとつとされた。 明治中頃(1888-1898年)の沢下は古澤村だったようだ。古渡村が東古渡村と西古渡村に分かれて、東古渡村と東熱田村が合併して古澤村になった。 神社のある場所に当時家はなく、田んぼだった。ここは熱田社よりかなり北の方で、金山に近い。ただ、東海道本線が通ってもまだ金山に駅はなく、町として発展するのはもう少し後のことになる。 1920年(大正9年)、南に名古屋工廠熱田兵器製造所ができた。神社がある場所は、この工場に物資を運搬するための線路が敷かれたちょうどその上ということになる。 日露戦争のときに兵器弾薬が不足したことから名古屋に陸軍直営の兵器工場が建てられたのが始まりで、第二次大戦中は車両や砲弾などを生産していた。空襲が激しくなると熱田製造所は滝実業(滝高校)などに疎開した。それでも三度の空襲を受けて被害を出している。 戦後の1947年の地図にはもう兵器工場はない。跡地に名古屋大学工学部ができた。沢下の工場用線路も撤去されて、代わりに市電が通った。戦後すぐにこのあたりはいち早く復興したようだ。 こういった経緯を踏まえると、昭和8年に今の場所に神社が建てられたというのはやや疑問に思える。兵器工場の線路脇にでも建っていただろうか。 その後、名古屋大学工学部が移転して、跡地に大同製鋼(大同特殊鋼)が建った。その一部の敷地を間借りする格好で今はイオンモール熱田(web)が入っている。
現状で分かるのはこれくらいだ。新旧の史料にもなさそうだから、これ以上のことを知るには近所の人か関係者にでも訊ねるしかない。 名古屋市内にある唯一の出雲社ということで、気になる存在ではある。
作成日 2018.11.25(最終更新日 2019.9.18)
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