仁徳天皇を祀る若宮八幡社となっているけど、ここはもともとそういう神社ではなかったに違いない。 小塚村の若宮と来れば、思い当たることがある。 塚(つか)は土や石を盛ったものをいい、のちに墓を指す言葉になった。 若宮というと若宮八幡の場合は、八幡神である応神天皇の子供の仁徳天皇を祀るとするところが多いけど、単に若宮というと意味が違ってくる。 非業の死を遂げた者が祟らないために神の子として祀ったことから若宮と呼ばれた。 人柱とされた人間や、何らかの恨みを抱いたまま死んだ霊を慰めるため、巫女の託宣によって祀られることもあったという。 この若宮社はそういう神社だったのではないだろうか。 小塚村の由来について津田正生は『尾張国地名考』の中で、「墓原に出るなるべし」としている。 墓原(はかわら)は文字通り、墓地のことだ。塚村ではなく小塚としたということは、広い墓地ではなく個別の墓(塚)から来ているのかもしれない。 名字の小塚は、ここ愛智郡小塚村が発祥とされる。それは、清和源氏の流れを汲むという。 小塚村が先なのか、小塚氏が先なのか分からないけど、一族の中で非業の死を遂げた人間を塚に葬り、若宮を建てて祀ったという可能性もある。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の小塚村の項にはこうある。 「社壱ヶ所 内ニ稲荷 天神 若宮 熱田祢宜 福大夫持分 社内七畝弐拾歩 前々除」 『尾張徇行記』(1822年)ではこうなっている。 「稲荷天神若宮社覚書ニ、境内七畝廿歩前々除 熱田社家粟田左衞門書上、境内畝歩覚書ニ同シ 天王社内十歩年貢地」 『尾張志』(1844年)は「稲荷ノ社 小塚むらにあり」となっている。 江戸時代前期の時点で稲荷と天神と若宮が一体となった一社があって、最初からか途中からか、その神社は稲荷社という認識だったようだ。 前々除とあるから、1608年の備前検地以前からあったと考えていい。 江戸時代の小塚村は熱田社家の領地で、村で作った米を熱田社家の馬場左京家に納めていた。もしかすると塚(墓)は熱田社(家)と関係があるかもしれない。 稲荷社がいつ若宮八幡社となったのかは分からない。少なくとも明治以降のことだろう。 稲荷と天神がその後どうなってしまったのかは調べがつかなかった。境内社だった天王社についても不明だ。 覆殿の中が暗くてよく見えなかったのだけど社が三社並んでいるようだったので、中央が若宮、左右が稲荷と天神かもしれない。そうだとすると小さな境内社が天王社だろうか。
現在の小塚町は「こづか」と濁るのだけど、小塚村は「こつか」だった。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社の場所は変わっていないことが分かる。樹林のマークが描かれている場所がそうだろう。ここは小塚村の集落から外れた南に位置している。1920年(大正9年)の地図から鳥居マークが描かれる。 村名としては明治元年(1868年)に小塚村、本郷村、七女子村が合併して小本村になった。 大正9年の地図で小本村の中心を斜めに走っている線路は下之一色電気軌道のものだ。下之一色と新尾頭を結んだ路線で、主に魚の行商人が利用する鉄道だった。 1937年(昭和12年)に名古屋市に買収されて市電の下之一色線となり、1969年(昭和44年)に廃線となった。 戦中に区画整理は始まっていたものの、住宅地として発展するのは戦後のことだ。 現在、西を走っているあおなみ線(名古屋臨海高速鉄道)は1950年(昭和25年)に開通した西臨港線と呼ばれた貨物の路線で、2004年(平成16年)に第三セクターのあおなみ線として生まれ変わった。
本殿横に高さ18メートルのタブノキ(椨)がある。 中川区の保存樹第1号とされた木で、名古屋市内では最大級のタブノキとなっている。 名古屋の神社では楠(クスノキ)が多く、御神木や保存樹とされているのだけど、タブノキは少ない。 タブノキは神社の鎮守の森に植えられることがあり、西日本では墓地に植えることが多いという。禁足地と呼ばれるような場所もタブノキがよくある。 タブノキ=タブーの木というわけではないだろうけど、昔の人はタブノキを何か特別な木とする感覚を持っていたのかもしれない。 若宮のタブノキは塚に植えたものではないだろうか。塚と若宮とタブノキは3つでセットだったと思う。 ここに祀られた人はどんな人でどんな死に方をしたのだろう。そんなことに思いを巡らせつつ白とピンクのツートンに塗られたポップな拝殿を見ると、いい意味で脱力感に襲われるのだった。
作成日 2017.7.16(最終更新日 2019.6.18)
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