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針名神社

平針村が愛智郡でなかったとすると

針名神社門と拝殿

読み方 はりな-じんじゃ
所在地 名古屋市天白区天白町平針大根ケ越175 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 指定村社・六等級・式内社
祭神 尾治針名根連命(おはりはりなねむらじのみこと)
大巳貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこのみこと)
応神天皇(おうじんてんのう)
アクセス 地下鉄鶴舞線「平針駅」から徒歩約15分
駐車場 あり
webサイト 公式サイト
電話番号 052-803-6174
その他 例祭 10月体育の日
オススメ度

 実際のところ、よく分からない神社という印象を持っている。
『延喜式』神名帳(927年)の愛智郡針名神社とされ、尾治針名根連命(おはりはりなねむらじのみこと)を祀っている。
 しかし、天白区平針はかつての山田郡である可能性が高く、そうであれば愛智郡針名神社ではあり得ないということになる。
 津田正生も『尾張国神社考』の中で平針村は愛智郡ではなく山田郡だといっている。津田正生説では愛智郡針名神社は烏森の天神社としているのだけど、それはともかくとして、まず前提として現在の針名神社は『延喜式』神名帳の愛智郡針名神社ではないという可能性を頭に入れておく必要がある。

 平針村はもともと神社の1キロほど北西の天白川左岸にあり、郷の島といっていた。現在の平針1丁目、かつて元郷と呼ばれていた場所だ。字神田という地名はなくなってしまったものの、神田公園などに名残があり、これは針名神社の神田があったためとされている。
 江戸時代前期の1612年、名古屋城が築城されたのに伴い、家康のいる駿府と名古屋城を結ぶ駿河街道が整備された。そのとき家康によって平針宿を作るよう命じられたため、平針村は集落ごと駿河街道沿いに移り、神社も現在地に移された。
『尾張徇行記』はこのときの様子について、村長(庄屋)の仁右衛門がうちの村は26戸しかない貧しい村で人手も足りないので伝馬役は無理ですと役人に泣きついたら、家康様の上意だから従うしかないと説得され、浪人なども集めて村人総出で平針街道と平針宿を作ったと書いている。
 仁右衛門は村瀬という名字をもらって村瀬家となったものの、すぐに跡継ぎが途絶え、跡を継いだのは桶狭間の戦いで今川方にいて浪人となって平針村にいた竹内伝兵衛で、その子孫が村瀬の名と庄屋を明治まで守ったという。
 駿河街道は岡﨑街道、飯田街道とも呼ばれ、現在の56号線へと続いていく。中平1丁目から平針5丁目にかけて、一部旧道の面影を残している。

 江戸時代の平針村の神社がどうなっていたか、江戸期の書にはこうある。

『寛文村々覚書』(1670年頃)
「社 弐ヶ所 内 天神 八幡 当村祢宜 与右衛門持分 社内二町歩 前々除」

『尾張徇行記』(1822年)
「庄屋書上ニ、針名天神祠境内八反外ニ五畝十歩屋敷御除地、八幡祠境内一町二反御除地外ニ田畠三畝十歩村除、山神祠境内一畝御除地、此三祠共ニ慶長十七年ノ勧請也、祠官ハ村瀬大和守 府志曰、平針天神祠在平針村、謹按神名式所謂針名神祠是也、今村民奉之、未知祀何神、本国帳録従三位天神、神祇宝典曰、針名神祠尾治針名連、度会延佳云、針名祠祭神尾治針名根連 八幡祠在同村」

『尾張志』(1844年)
「平針村にまして今は天神社と申す神名式に愛智郡針名神社本国帳に同郡従三位針名天神とある是なり祭神は尾治ノ針名ノ連と神祇宝典に書き給へるがことし(攻略)」

 この後、尾治針名連は火明命十四世孫に当たり、尻調根命の二男で、備前国御野郡の針名眞若比女神社の祭神となっている眞若比女命は尾治針名連の妹か何かだろうか云々といったことを書いている。
 府志曰の府志は尾張藩の最初の地誌である『張州府志』のことで、これの完成が1752年なので、少なくともこのとき以降、平針村の天神が『延喜式』神名帳の愛智郡針名神社だというのが尾張藩の公式見解となったとみてよさそうだ。
『尾張徇行記』は天神、八幡、山神の三社は慶長17年(1612年)の勧請と書いているけど、これは平針村が移ったときのことをいっているのかもしれない。
『寛文村々覚書』の時点では平針村にあったのは天神と八幡で、ともに前々除となっていることから1608年の備前検地以前からあった神社ということがいえる。平針村の元郷時代からあった神社ということだ。

 平針村の旧地が愛智郡だったと仮定して、平針村の天神が『延喜式』神名帳の針名神社に当たるかどうかをあらためて考えてみる。
 平針の地名の由来は平らな土地を開墾したという意味の平治から来ているという説がある。高い土地を開墾したところが高治で今の高針がそうだともいう。
 針名神社の針も同じように開墾を意味する治から来ているかもしれない。尾治針名根(オハリハリナネ)を祀るから針名神社だということもできるのだけど、逆かもしれない。針名神社という名前が先で、神社名に合わせて尾治針名根を祀るとした可能性もある。『延喜式』神名帳に祭神名はなく、その他、針名神社で尾治針名根を祀るとしている記録はない。神社側がそういっているだけだ。
『延喜式』神名帳に載るということは、平安時代中期の時点で官社とされた神社だったということを意味している。果たして尾張の外れのこの地にそんな神社があったかどうかということがひとつ問題となる。古墳時代もしくは飛鳥、奈良時代以降、この地を治めていたのはどういう勢力だったのか。
 旧平針村から見て1.7キロほど西に全長80メートルほどの前方後円墳(地図)がある。天白川と植田川の合流地点の手前だ。現在はその古墳上に植田八幡宮が建っている。
 古墳は詳しい調査がなされないまま神社によって大きく削られてしまい原型をとどめていない。築造は古墳時代中期というから5世紀後半から6世紀前半にかけてとみていいだろうか。
 この古墳の被葬者が尾治針名根という説がある。その真偽はともかく、80メートルを超えるような規模の前方後円墳を造れるとなると、ごく限られる。中央とのつながりが強い氏族の首長クラスの人物ということになるだろう。
 古墳と神社は少し離れているものの、神社は後の時代に建てられたことを考えると、もとの集落は古墳近くにあって、その後移ったということは充分に考えられることだ。

 尾張氏の系図によると、針名根(ハリナネ)は尾綱根(オツナネ)の息子で、兄に弟彦(オトヒコ)がいる(尾張氏系図を全面的に信用するわけにはいかないのだけど、とりあえずここでは従っておく)。
 尾張氏の祖は天火明(アメノホアカリ)とされる。実際のところ尾張氏は海人族で天孫系ではないはずなのだけど、その問題もここではいったん置いておく。
 初代の尾張国造(くにのみやつこ/こくぞう)は、アメノホアカリ12世孫(11世孫とも)の乎止与(ヲトヨ)とされる。
 ヲトヨはおそらく他の土地からきた人間で、尾張大印岐の娘である真敷刀婢(マシキトベ)の入り婿になったと思われる。
 その息子が建稲種(タケイナダネ)で、日本武尊(ヤマトタケル)の東征に副将軍として従い、武功を挙げて帰り道で駿河の海に落ちて没したとされる。
 ヲトヨとマシキトベの娘でタケイナダネの妹が宮簀媛(ミヤズヒメ)で、ヤマトタケルの妃になり、ヤマトタケルが置いていった草薙剣を祀るために熱田社を建てたとされる。ミヤズヒメ自身は氷上姉子神社の祭神となっている。
 タケイナダネの息子がオツナネ(尾綱根)だ。別名を尻綱根ともいい、犬山市の針綱神社(web)でハリナネなどとともに祀られている。
 針名神社の祭神のハリナネはオツナネの次男に当たる。
 オツナネの長男でハリナネの兄がオトヒコ(弟彦)だ。兄なのに弟彦というから混乱する。
 オトヒコの息子には金(カネ)や岐閇(ヘキ)などがおり、ヘキの息子が草香(クサカ)で、その娘の目子媛(メノコヒメ)が継体天皇の妃となって安閑、宣化天皇を生んでいる。

 こういった系図を踏まえつつ、尾張氏とその勢力拡大を考えてみたい。
 尾張氏の発祥がどこなのかは昔から多くの説があってはっきりしない。大きく分けると尾張国外説と国内説があり、国外説としては葛城の高尾張から移った集団が尾張氏を名乗ったというのが有力視されている。本居宣長などが主張した。
 国内説では小牧市の小針が尾張国の地名発祥の地を称している。
 どちらにしても、国名と氏名では国名が先にあって氏名が後ということが多いことからすると、尾張国という国名がまずあって、尾張国を本拠地とするから尾張氏を名乗ったと考える方が無理がないと私は考えている。
 尾張国に複数の有力氏族がいて、それらが統合されて尾張氏というひとつの大きな集団になったということではなかったか。それは5世紀あたりと考えていいだろうか。
 ヲトヨの妻・マシキトベの父の尾張大印岐の本拠がどこだったかということがひとつポイントとして挙げられる。しかし、これはよく分からない。
 ヲトヨの娘のミヤズヒメの時代は火上山(緑区大高)に本拠があったとされる。
 ヲトヨを祀る千竈神社は熱田に移される前は星﨑(南区)あたりにあったという話があるも、これも確かなことはいえない。
 ヲトヨの息子のタケイナダネは丹羽氏の祖の大荒田(オオアラタ)の娘・玉姫(タマヒメ)を妻にしている。これも勢力を拡げるための入り婿だったかもしれない。
 タケイナダネは三河湾に面した幡豆あたりを本拠にしていたという話がある。南知多の師崎にもタケイナダネとタマヒメが暮らしていたという伝承が残っており、ヤマトタケルの東征には水軍を率いたというから海人族の性格が色濃い。
 師崎にはタケイナダネを祭神とする羽豆神社があり、駿河湾で海に沈んだ遺体は吉良の宮崎海岸に流れ着いたため村人がタケイナダネを葬ったのが幡頭神社だと伝わる。
 タケイナダネの息子のオツナネは犬山市の針綱神社で祀られていることからすると丹羽郡を本拠としていたと考えていいだろうか。
 オツナネ長男のオトヒコがどこを本拠としていたのかがはっきりしない。オトヒコを祀る神社というのは名古屋やその周辺では見当たらない。その息子のカネ(金)は瀬戸市の金神社の祭神となっている。
 オツナネの次男でオトヒコの弟がハリナネで、平針の針名神社の祭神とされているから、平針を開拓したのはハリナネと見ていいだろうか。
 尾張国における古墳の分布と年代順もあわせて考えるべきなのだけど、それをやると長くなりすぎるのでここではやめておく。

 結論めいたことはいえないまでも、植田に80メートル級の前方後円墳がある以上、6世紀前後にこの地に有力氏族の集団がいたということはいえる。その集団が古墳の被葬者、もしくは祖神を祀る神社を建てたということは充分考えられる。
 ハリナネは尾張連ではなく尾治連で、オツナネ、続いてオトヒコが第15代応神天皇の大臣になって尾治連の姓を賜ったとされる。
 ハリナネは第16代仁徳天皇の時代に尾治連を賜ったという。
 尾張と尾治は混在しているのだけど、本来は別のものとして考えるべきなのではないか。オツナネ、オトヒコ、ハリナネの時代に尾治連を賜ったことで新たな展開というか中央との関係で進展があったとも考えられる。

 明治43年(明治42年とも)に字大根ヶ越2番にあった八幡社を本社に合祀している。相殿の祭神の応神天皇はそのためだ。
 この八幡社に関する情報はまったくない。八幡として創建されたのであれば、早くても鎌倉時代以降だろう。
 相殿に祀られる大巳貴命と少彦名命がどこから来ているかは分からない。公式サイトにも書かれていない。ひょっとすると本来の祭神はそちらで、針名神社と称するようになったことで後付けでハリナネ(針名根命)を祀るとしたのかもしれない。

 何にしても今の針名神社は大変立派な神社で、境内地も広く、木々に囲まれ、社殿も堂々としていて古社の風格を備えている。
 郡境問題さえクリアできれば、平針の針名神社を『延喜式』神名帳の愛智郡針名神社としてもいいのではないかと思う。
 しかし、ここが山田郡であったとすると、愛智郡針名神社も平針の現・針名神社も宙に浮いてしまう。現・針名神社は式内の針名神社ではないとすると、この神社はいつ誰が建てたことになるのか。元の名前も祭神も失われてしまっているので、想像することすら難しい。

 

作成日 2017.2.21(最終更新日 2019.2.2)

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