針名神社

平針の杜に鎮まる尾治氏のお社

針名神社門と拝殿

読み方 はりな-じんじゃ
所在地 名古屋市天白区天白町平針大根ケ越175 地図
創建年 不明(平安時代以前)
社格等 式内社・旧村社
祭神

尾治針名根連命(おはりはりなねむらじのみこと)

相殿
大巳貴命(おおなむちのみこと/大国主命)
少彦名命(すくなひこのみこと)
応神天皇(おうじんてんのう)

アクセス

・地下鉄鶴舞線「平針駅」から徒歩約15分。
・駐車場 あり(無料)

webサイト 公式サイト
オススメ度 **

 実際のところ、よく分からない神社だ。
『延喜式』(927年)の「従三位針名天神」に当たる神社とされ、尾治針名根連命(おはりはりなねむらじのみこと)を祀っている。
 分かっているのはそれくらいだ。ふーん、そうなんだで済めばそれでいいのだけど、なんでこんなに分かっていることが少ないんだろうと気になるとそのまま放ってはおけない。なので、少し紐解いていこうと思う。

 尾治針名根連命とは何者か?
 尾張氏の祖神とされる天火明命(アメノホアカリ)の十四世孫とされる。
 アメノホアカリはアマテラスの孫で、ニギハヤヒ(饒速日命)と同一神ともされ、尾張国一宮の真清田神社などで祀られている。
 父親は尻調根命/尾網根命(シヅキネ/オツナネ)で、犬山の針綱神社では親子揃って祀られている。
 針綱神社の由緒が分かれば針名神社について知る手がかりが得られるだろうと期待すると、針綱神社の創建にまつわる話も伝わっていないため、そこで行き止まりになってしまう。二つの神社が無関係のはずはない。
 針綱神社は長く白山社として犬山城が築城される前の城山の山頂にあったとされる。式内社の針綱明神とするかどうかでいろいろもめたようなのだけど、最終的には江戸時代に入ってから針綱明神でいいだろうということになり、名前を針綱神社とした。
 針綱明神は、従一位、もしくは正一位とされる。
 これは神階(しんかい)というもので、神社ではなくその神社で祀られている神についてのランキングみたいなものだ(神社に対して与えられるものを社格という)。正一位、従一位から正六位まで15階級あり、正は「しょう」、従は「じゅ」と読む。天武天皇の時代に始まった制度とされている。
 もともとは人に対する位階(いかい)というのがあって、それは701年の大宝律令から始まったもので、実は現在でも続いている。
 数字が少ない方が上で、伊勢の神宮などは別格で、もし針綱明神が正一位だとすれば最高ランクの神を祀っているということになる。オハリハリナネはそこまでの神だろうか?
 針名神社は従三位(じゅさんみ)というからランクとしては落ちる。神階は勧請では受け継がない。
 どちらが先かといえば、やはり父親のオツナネも一緒に祀っている針綱神社と考えた方が自然だろう。オハリハリナネの代になって南下して、平針を拠点にしたのではないか
 平針は平墾が転じたとされ、平らな土地を開墾したという意味だ。高針などは高地を開墾したという意味になる。
 ついでに連(むらじ)の姓(かばね)についても書いておく。
 ヤマト王権時代に、大王が臣下に与えた役職というか位のようなもので、今でいうと内閣の大臣が一番近いだろうか。基本的に世襲制でもあり、権限はもっと強い。連はその一つで、臣(おみ)とともに最高位にあった。大伴、物部、中臣などがよく知られている。臣には葛城、蘇我、春日などがいた。
 父親のオツナネが、第15代応神天皇の代に尾治連(おはりのむらじ)の姓(かばね)を賜わり、オハリハリナネは第16代仁徳天皇に同じく尾治連を授かったという。
 ここでひとつ重要なのが、「尾張」ではなく「尾治」のいう点だ。
 尾張は昔、尾治とも表記したとされることが多いけど、これは本当に同じものだろうか? 治は「ち」とか「じ」とか「おさめる」とかで、「はり」とは読めないんじゃないだろうか? 張と治では意味も全然違う。700年代まで資料によって張と治が混在しているようだからのちの時代に混同してしまっただけで、本来は別のものであった可能性がある。尾治も「おはり」という読み方ではなかったのではないか。
 系図でいうと、オハリハリナネの祖父はタケイナダネ( 建稲種命)で、初代・尾張国造(おわりのくにのみやつこ)オトヨ(乎止与命)のひ孫に当たる。
 尾張氏の発祥がどこだったのかはいろいろな説があって定まっていないものの、尾張という表記はかなり古くからあったと思われる。尾張国造(國造)もそうだろう。尾張氏の方が古いとすれば、尾治氏はそこから別れた系統と考えられないだろうか。
 オハリハリナネには尾治弟彦連(おわりのおとひこのむらじ)という兄がいる。その兄の足跡は残っていないようだけど、次男坊のオハリハリナネは犬山を離れて新天地を求めて平針にやってきたということは充分あり得る話だと思う。
 年代のことを考えると、仁徳天皇は有名な仁徳天皇陵(大仙陵古墳)からして古墳時代の400年代前半あたりと考えられる(仁徳天皇の実在は別にして)。
 オハリハリナネの死後、どれくらい経って神社が創建されたかは想像するしかないのだけど、早ければ400年代、遅ければ500年代あたりだろうか。
 平針から天白川を3キロほど下った植田川合流点の手前に、全長80メートルほどの前方後円墳がある。現在、植田八幡社があり、大きく削られて原形をとどめていないのだけど、その古墳がオハリハリナネのものだとする説がある。造られたのは古墳時代中期と考えられており、それが400年代だとすれば年代的にぴったりくる。古墳を造ってオハリハリナネを葬り、郷で祀るために神社を建てたのかもしれない。

 もとは北800メートルほどの天白川左岸にあった元郷というところに神社はあったとされる。昔の地名でいうと、愛智郡鳴海庄平針村元郷となる。
 元郷というのは今の平針1丁目あたりらしいのだけど、だとすれば現在地からは直線距離で1キロ以上離れている。天白川沿いというよりも駿河街道があった街道沿いだっただろうか。
 かつて平子山と呼ばれる小山があって、村はその麓にあったという。
 江戸時代に入り、1612年に徳川家康が平針街道と平針宿を作るように命じて、それに伴い村ごと神社も現在の場所に移されたようだ。
 のちに飯田街道として整備される道は、平針で進路をやや北寄りに変え、信州方面へと向かう。そこで、家康は岡崎と名古屋城を結ぶ街道をあらたに作ることにした。それが平針街道でり、岡崎街道とも呼ばれる道だ。現在の56号線の元になっている。これによって岡崎城と名古屋城はほぼ直線的に結ばれることになった。岡崎と熱田の湊をつなぐ東海道はもっと南の海寄りを通っている。
 村ごと移したのは、そこに住んで平針宿を作れということだったのだろう。神社も一緒に持っていくことにしたのは家康の命令だったのか、村民の希望だったのか、神社側の都合だったのかは分からない。
 それにしても、古墳時代から江戸時代まで一気に話が飛んでしまって、その間の千年以上分の歴史がごっそり抜け落ちてしまっている。最初にこの神社のことが分からないと書いたのはそういう意味だ。

 明治5年(1872年)、村社に列する。
 一万二千坪の鎮守の杜の中に針名神社は鎮まっている。ここに移ってきてから400年以上の歳月が流れた。
 現在の社殿は昭和51年(1976年)に再建されたものだから、それ以前のものを見てみたかった。
 岡山県に式内社の尾治針名真若ヒメ神社(おじはりなまわかひめじんじゃ)というのがある。
 尾治針名根とここまで似た名前が他人のそら似とは言えないだろう。ヒメというからには女性の可能性が高そうだし、ひょっとするとオハリハリナネの妹か姉が岡山まで流れながれていったのだろうか、などという妄想も抱いてしまうのだった。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

天白区の式内社、針名神社にご挨拶

HOME 天白区

スポンサーリンク
Scroll Up