地図上では天照皇大神宮となっていて、入り口の古い社号標にも天照皇大神宮とあるのだけど、参拝所の屋根には天王社と手書きした木札が掛けられている。 奥に小さな社が三社が並んでいて、中央が天照皇大神宮、向かって左が熱田神宮、右が津島神社と書いてある。 天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)という名称は簡単に名乗れるものなのだろうか。許可を得ているのか、勝手に名乗っているだけなのか。この規模なので、神社本庁には入っていない。 『尾張志』(1844年)などの江戸期の書にも出てこない。
江戸時代、ここは東福田新田の中の小賀須(こがす)と呼ばれた場所だ。新川の右岸で、南の茶屋新田との境に近い。 小賀須集落の氏神はここから480メートルほど西北にある秋葉社(地図)だった。 神明社・熱田社・津島社の組み合わせは屋根神や庭神、家庭内の神棚に祀るパターンなのだけど、社が3社あることからすると、別の場所にあったものをここにまとめたとも考えられる。社が3つとも同じものだから、最初からここにこうやって三社並べて祀っていただろうか。 今昔マップの明治中期(1888-1898年)を見ると、このときまでに新川と庄内川に日ノ出橋と明徳橋が架かっていて、神社の前の通りは明治になってあらたに東海道とされた道が通っている。東から日ノ出橋を渡ると前方に続く道はまだなく、直角に左に折れて堤防沿いを少し南下してから西に向かっている。この東西の道は、東福田新田と茶屋新田の境界の堤防だったところで、道沿いに集落ができていた。 そういった状況を考え合わせると、これらの社は新東海道沿いか集落にあったものかもしれない。 主となる社は天照皇大神宮だろうけど、あえて天王社の札を掛けたのはどうしてだろう。現在は津島神社としている社が明治以前にあったのなら天王社を名乗っていただろう。
これらの社について分かるのはこれくらいだ。推測ではこれ以上分からないので、あとは現地で聞き込み調査をするしかない。
作成日 2018.8.18(最終更新日 2019.7.31)
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