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菅田神社


熊野社と若宮八幡社が合体して分離した



菅田神社

読み方すがた-じんじゃ
所在地名古屋市天白区菅田2丁目 地図
創建年不明
旧社格・等級等 村社・十二等級
祭神仁徳天皇(にんとくてんのう)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
伊弉冉命(いざなみのみこと)
事解之男命(ことさかのおのみこと)
速玉之男命(はやたまのおのみこと)
迦具土神(かぐつちのかみ)
大山祇神(おおやまつみのかみ)
応神天皇(おうじんてんのう)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
アクセス地下鉄桜通線「野並駅」から徒歩約35分
駐車場 あり
その他例祭 10月17日
オススメ度

 天白区菅田(すげた)にある菅田神社(すがた-じんじゃ)。
『愛知縣神社名鑑』に「すがた」とフリガナが振ってあるから、「すがた」が正式名なのだと思う。ただ、この神社の菅田は地名から取られたものだから、地名が「すげた」なら神社名も「すげた-じんじゃ」なのではないかと思うけどどうなんだろう。『愛知縣神社名鑑』の間違いかもしれないし、もともとの地名として「すげた」と呼んでいたのかもしれない。
 奈良県大和郡山市にある式内社とされる菅田神社は「すがた-じんじゃ」だから、そちらに引っ張られた可能性もある。
 天白の菅田は、江戸時代は嶋田村の支村という位置づけだった。この頃、どう呼ばれていたのかは調べがつかなかった。地名としては古く、戦国時代の大聖寺の文章に菅田が出ているので少なくともその頃にはあったことが分かる。
 菅(スゲ)はカヤツリグサの一種で、かつての嶋田は年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる海辺の干潟だったから、スゲがたくさん生えていたであろうことは想像がつく。地名の菅田はそこから来ていると考えられている。
 嶋田の地名は、高いところに家を建て、低地の湿地を水田にして周囲を堤防で囲んだ場所を嶋つ田と呼んでおり、そこから来ているとされる。村民は船で水田を行き来していたという。
 菅田の町名は平成元年(1989年)以降のもので、神社の旧住所は大字嶋田字海老山だった。



『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではない。若宮八幡社は『尾張志』に”仁徳天皇を祭る嶋田村にあり”と明治5年7月28日、村社に列格する。明治42年3月20日、字寄鷺百二十七番、村社、熊野社合殿と同社の境内神社秋葉社と知立社と山神社、又字石薬師百五十四番、村社神明社と同境内神社秋葉社、山神社、八幡社、天神社を本社に合霊合祀し、同日島田神社と改めた。更に大正11年11月15日菅田神社と改称した」 



 合祀と遷座と改称の経緯が複雑で理解が難しい。文章も言葉足らずだ。
 まずは江戸期の嶋田村の神社について見ておくとこうなっている。



『寛文村々覚書』(1670年頃)
「嶋田村 枝郷 菅田
 社 六ヶ所 内 熊野権現 明神 若宮 山之神三社 当村山伏 和合院持分 社内六反六歩 前々除」



『尾張徇行記』(1822年)
「社六区此内熊野権現、明神、若宮、山神三区社内六反六畝前々除トアリ 庄屋書上ニ、熊野権現祠境内二反御除地、是ハ本郷氏神也、八幡祠境内一反七畝八歩御除地、是ハ菅田島ノ氏神也、神明祠境内一反四畝二十歩御除地、是ハ池場島氏神也、八幡祠境内二十八歩御除地、是ハ池場控ナリ、山神祠境内一畝御除地、是ハ池場控ナリ、山神祠境内八畝二十四歩御除地、是ハ池場島控ナリ、石薬師境内三畝二十七歩御除地、是ハ池場島控なり 八幡祠・若宮祠・熊野祠・神明祠府志ニ載レリ」



『尾張志』(1844年)
「熊野社 熊野櫲樟日ノ命(クマヌクスビ)事解之男ノ神(コトチカノヲ)速玉之男ノ神(ハヤタマノヲ)三坐を祭るといふ當村上郷下郷の本居神也 境内に末社秋葉のやしろあり
 神明社 支邑池塲の氏神なり 境内に秋葉の社あり
 天神社 神明社より南の方にあり 少彦名命を祭るといへり
 若宮八幡社 仁徳天皇をまつれり
 山神ノ社 三所」



 江戸時代の嶋田村は本郷と支村の菅田、池場があり、江戸時代前期は熊野権現、明神、若宮と山神3社があった。
 これが江戸時代中期になると、熊野権現、八幡、若宮、神明となっている。
 この時点で、嶋田村本郷の氏神は熊野権現、菅田の氏神が八幡、池場の氏神が神明とされている。
 八幡と神明は江戸時代に入ってから祀られたものとも考えられるのだけど、二社とも除地になっていることからするとそれほど新しくはないだろう。
 更に後期には、熊野社、若宮八幡社、神明社、天神社、山神3社になった。
 200年の間に神社は変化したり増えたり統合されたりした様子が見てとれる。
 江戸時代前期の明神と若宮がどんな神を祀る神社だったのか、明神は江戸時代後期の天神社とつながっているのかいないのか、これらの史料だけでは判断がつかない。
 江戸時代のどこかの時点で八幡と若宮があわさって若宮八幡となっている。中区栄の若宮八幡社などももともと若宮だったものが後に若宮八幡になった一例だ。
 江戸時代後期までには若宮の本来の祭神が忘れられて、仁徳天皇を祀る若宮八幡という認識だったようだ。



 これらを踏まえた上で整理するとこうなる。
 まず菅田の若宮八幡社は明治5年(1872年)に村社に列格している。
 同じ時期に嶋田村の熊野社と池場の神明社も村社に列格したと考えられる。
 明治42年、国が推し進めた神社合祀政策を受けて嶋田村の神社も整理することになったのだろう。
 嶋田の熊野社に神明社、八幡社、天神社、山神社が合祀された。
 その上で、菅田の若宮八幡社にその熊野社と熊野社の境内社だった知立社、山神社、秋葉社を合祀して、島田神社となった。
 つまりは、熊野社と若宮八幡社と神明社と、その他の神社が全部合体して島田神社となったということだ。それが明治42年のことだった。
 その後、大正11年(大正12年とも)に、熊野社を分離独立させて元地に戻し、島田神社は菅田にあるということで菅田神社に改称した。
 元地に戻った熊野社は、大正15年に天神社と秋葉社を合祀して島田神社となった。
 島田神社は昭和20年にあらためて村社に列格し、同年に指定社となっている。
 経緯としては以上のような流れだったと思う。



 明治元年(1868年)の神仏分離令(神仏判然令)はよく知られていて、そのとき廃仏毀釈運動で多くの寺院や仏宝が破壊され、廃社になった神社もある。しかし、明治末の神社合祀政策はあまり知られていない。神社が受けたダメージはこの合祀政策によるものがとても大きい。
 明治政府の経費削減のため、明治39年(1906年)の第1次西園寺内閣が行ったもので、大正3年(1914年)までに全国に約20万社あった神社のうち7万社が取り壊されることになった。
 一番ひどかったのが三重県で、この時期に9割の神社が消滅してしまった。そのため、三重県の神社に行くと一社の祭神がやたら多い。多くの式内社や古社も失われている。
 京都はこれに反対して、1割程度しか整理しなかった。京都人の明治政府に対する反発心もあったのだろう。
 その後、南方熊楠の反対運動などもあり、神社合祀は収まっていった。
 合祀された神社を分離独立させた神社もけっこうある。合体した島田神社を分離したのも氏子たちの希望によるものだったのではないだろうか。
 天災で失われるのは仕方がないとしても、人災で失われるのはやりきれない。一度失われた神社はもう元には戻らない。せめて今残ったものだけでも守っていかなければいけない。
 神社を失うことは歴史を失うことであり、過去を失うことでもある。




作成日 2018.2.14(最終更新日 2019.2.8)


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