菅田神社

熊野社と若宮八幡が合体して分離した

菅田神社

読み方 すがた-じんじゃ
所在地 名古屋市天白区菅田2丁目 地図
創建年 不明
社格等  村社・十二等級
祭神 仁徳天皇(にんとくてんのう)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
伊弉冉命(いざなみのみこと)
事解之男命(ことさかのおのみこと)
速玉之男命(はやたまのおのみこと)
迦具土神(かぐつちのかみ)
大山祇神(おおやまつみのかみ)
応神天皇(おうじんてんのう)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
アクセス

・地下鉄桜通線「野並駅」から徒歩約35分
・駐車場 あり(無料)

webサイト  
オススメ度

 天白区菅田(すげた)にある菅田神社(すがた-じんじゃ)。
『愛知縣神社名鑑』にわざわざ「すがた」とフリガナが振ってあるから、「すがた」が正式名というか登録名なのだと思う。
 奈良県大和郡山市に延喜式内社とされる同名の菅田神社があり、それが「すがた」神社ということで、そちらに引っ張られて愛知県神社庁の担当者がが間違えただけかもしれない。
 大和郡山の菅田神社の祭神は菅田比古命(すがたひこのみこと)で、鍛冶や金属加工の神とされる天目一箇神(あめのまひとつ)と同一神ともされる。菅田比古命は菅田氏の祖ともいう。
 天白の菅田神社がそちら関係であれば「すがた」なのだろうけど、地名の菅田(すげた)から神社名が来ているとすれば、やはり「すげた-じんじゃ」が正しいのではないかとも思う。
 菅田(すげた)はカヤツリグサの一種の菅(スゲ)がたくさん生えていたことから地名がついたとされる。島田のこのあたりは古くは年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる海辺の干潟で、そういった植物が茂るのに適した場所だったことは充分に考えられる。
 島田の地名も干潟と関係がある。干潟の海底は起伏があって、海が干上がって陸地になったとき、高いところに家を建てて低いところで稲作をしていた。海水が入ってこないように周囲を堤防で囲み、そういった場所を嶋つ田と呼んでいたことから嶋田村と名付けられたと考えられている。
『小治田之真清水』(『尾張名所図会』の付録)では、比較的高い場所に家を建てて暮らしつつ、周囲の田んぼまで舟に乗って通っており、島の中に田んぼがあることから嶋田と呼んだと書いている。
 島田の北にある植田は上田が転じたもので、島田は下田といわれていたともいう。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

「創建は明かではない。若宮八幡社は『尾張志』に”仁徳天皇を祭る嶋田村にあり”と明治5年7月28日、村社に列格する。明治42年3月20日、字寄鷺百二十七番、村社、熊野社合殿と同社の境内神社秋葉社と知立社と山神社、又字石薬師百五十四番、村社神明社と同境内神社秋葉社、山神社、八幡社、天神社を本社に合霊合祀し、同日島田神社と改めた。更に大正11年11月15日菅田神社と改称した」 

 合祀と遷座と改称の過程がややこしくて、理解するのに時間がかかった。
 説明する前に、江戸期の書の嶋田村について見ておくとこうなっている。

『寛文村々覚書』(1670年頃成立)

 嶋田村 枝郷 菅田
「社 六ヶ所 内 熊野権現 明神 若宮 山之神三社 当村山伏 和合院持分 社内六反六歩 前々除」

『尾張徇行記』(1792-1822年)

 嶋田村 八事庄
「社六区此内熊野権現、明神、若宮、山神三区社内六反六畝前々除トアリ 庄屋書上ニ、熊野権現祠境内二反御除地、是ハ本郷氏神也、八幡祠境内一反七畝八歩御除地、是ハ菅田島ノ氏神也、神明祠境内一反四畝二十歩御除地、是ハ池場島氏神也、八幡祠境内二十八歩御除地、是ハ池場控ナリ、山神祠境内一畝御除地、是ハ池場控ナリ、山神祠境内八畝二十四歩御除地、是ハ池場島控ナリ、石薬師境内三畝二十七歩御除地、是ハ池場島控なり 八幡祠・若宮祠・熊野祠・神明祠府志ニ載レリ」

『尾張志』(1844年成立)

 嶋田村
「熊野社 熊野櫲樟日ノ命(クマヌクスビ)事解之男ノ神(コトチカノヲ)速玉之男ノ神(ハヤタマノヲ)三坐を祭るといふ當村上郷下郷の本居神也 境内に末社秋葉のやしろあり
 神明社 支邑池塲の氏神なり 境内に秋葉の社あり
 天神社 神明社より南の方にあり 少彦名命を祭るといへり
 若宮八幡社 仁徳天皇をまつれり
 山神ノ社 三所」

 江戸時代の嶋田村は本郷と支村の菅田、池場があり、嶋田村の氏神は熊野権現(島田神社)で、菅田が若宮/若宮八幡(菅田神社)、池場が神明だった。
『寛文村々覚書』には「若宮」とあり、『尾張志』に先立って編まれた尾張藩最初の地誌である『張州府志』(1752年)には「八幡」・「若宮」・「熊野」・「神明」が載っているとある。
 それが江戸時代後期になると「若宮八幡」となっている。もともとは若宮と八幡は別の社で、江戸時代のどこかで合体して若宮八幡となったのかもしれない。
 若宮というのは皇族の子供という意味の他、本宮から勧請した社をそう呼ぶことがある。それとは別に、人柱などで犠牲になった人間の祟りを鎮めるために神として祀って若宮と称することもある。
 菅田の若宮もしくは若宮八幡がどれに当たるのかは分からないのだけど、江戸時代の後期には仁徳天皇を祀る若宮八幡という認識だったようだ。

 これらの情報を踏まえた上で整理するとこうなる。
 まず菅田の若宮八幡は明治5年(1872年)に村社に列格している。
 嶋田村の熊野社(熊野権現)と池場の神明社も、明治の前半にそれぞれ村社になっている(年数は調べがつかなかった)。
 明治42年に国が推し進めた神社合祀政策によって嶋田村の神社も整理されることになったようだ。
 島田の熊野社に神明社、八幡社、天神社、山神社が合祀された。
 菅田の若宮八幡にはその熊野社と熊野社の境内社だった知立社、山神社、秋葉社を合祀して、島田神社となった。
 つまりは、熊野社と若宮八幡とその他の神社が全部合体して島田神社となったということだ。それが明治42年のことだった。
 その後、大正11年(大正12年とも)に、熊野社が元地に戻され、島田神社は菅田にあるということで菅田神社に改称した。
 元地に戻った熊野社は、大正15年に天神社と秋葉社を合祀して島田神社となった。
 島田神社は昭和20年にあらためて村社に列格し、同年に指定社となった。
 流れを理解できただろうか。なかなか複雑な経緯を辿っている。

 明治元年(1868年)の神仏分離令(神仏判然令)はよく知られていて、そのとき廃仏毀釈運動で多くの寺院や仏宝が破壊され、廃社になった神社もある。ただ、明治末の神社合祀政策はあまり知られていない。神社が受けたダメージはこの合祀政策によるものがとても大きい。
 明治政府の経費削減のため、明治39年(1906年)の第1次西園寺内閣が行ったもので、大正3年(1914年)までに全国に約20万社あった神社のうち7万社が取り壊されることになった。
 一番ひどかったのが三重県で、この時期に9割の神社が消滅してしまった。そのため、三重県の神社にいくと一社の祭神がやたら多い。多くの式内社や古社もなくなっている。
 京都はこれに反対して、1割程度しかなくさなかった。京都人の明治政府に対する反発心もあったのだろう。
 その後、南方熊楠などの反対運動が起こり、それが気運となって合祀は収まっていった。
 もう一度元に戻そうということになって戻した神社もけっこうある。合体した島田神社を分離したのも氏子たちの希望によるものだっただろうか。
 天災で歴史が失われるのは仕方がないけど、人災で歴史が失われるのはやりきれない。今残ったものだけでも守っていかなければいけない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

天白区の菅田神社と「すげ」と「すが」と「かん」の話

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