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山神社(大高)

緑区に現存する山神社はここだけ

大高山神社

読み方 やまがみ-しゃ?(おおだか)
所在地 名古屋市緑区大高町字西丸根14 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 無格社・十五等級
祭神 大山祗命(おやまつみのみこと)
アクセス JR東海道本線「大高駅」から徒歩約17分
駐車場 なし
その他 例祭 9月27日
オススメ度

 緑区は小山と丘陵地帯だらけの土地なのに、山の神を祀る山神社が少ない。江戸時代までは鳴海村に多くあったものの、大高村には一社しかなかったようで、その一社がこの山神社だ。鳴海村地区には現存していないのですべて廃社になったか合祀されたかしたのだろう。
 かつて山の神は春になると里に下りてきて秋の収穫が終わるとまた山に戻っていくと考えられていた。だから、山神は山の神であると同時に田の神でもあった。そういう意味でいうと緑区は山神を祀るのに適した土地だった。
 明治以降に緑区地区では山神社が廃ってしまったようだ。どこの区でもその傾向はあるのだけど、緑区はそれが顕著だ。理由はよく分からない。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではない。古くから山ノ神として崇敬あつく明治6年10月、据置公許となる」

『尾張徇行記』(1822年)には、「庄屋書上ニ山神社内六畝歩 御除地 勧請ノ年紀ハ不伝」とある。
 勧請年は不明ながら除地となっていることから創建は江戸時代以前ということがいえる。
 境内にある大高歴史の会の説明書きには、山仕事をする人や猟師が安全を願って祀ったものとある。
 その可能性はあるだろうけど、山の民が必ずしも山神を祀るというわけでもなく、オオヤマツミを祀ったかどうかも何とも言えない。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、このときすでに神社のすぐ横に東海道本線の線路が通っていたことが分かる。東海道本線は新橋-横浜間が明治22年(1889年)に全通した。
 これによってこのあたりの風景はかなり変わってしまったはずで、それ以前のことについては地図上からも読み取ることはできない。
 神社のすぐ西に描かれている道は今の愛知県道50号(名古屋碧南線)の元になった道だろうか。
 山神社は丘陵地帯の縁(へり)に当たる場所にあるのだけど、もともとここにあったと決めつけることはできない。
 少し東に丸根砦の跡があり、やや離れた北に鷲津砦跡がある。その北は海だった。西は狭い谷間の平地で米を作り、その西は姥神、火上山、齋山と小山が連続する。
 大高の西エリアは古代の歴史が色濃い場所で、東は戦国時代の戦の舞台となった。

 戦国時代の大高は尾張国を統一したばかりの織田信長と遠江の今川義元が領地争いをする最前線だった。
 桶狭間の戦いの前年である1559年、織田家配下だった鳴海城主の山口教継が信長を見限って今川方に走り、大高城は沓掛城とともに今川の手に落ちてしまう。
 これに対し信長は大高城と鳴海城を囲むように鷲津砦、丸根砦、中島砦、善照寺砦、丹下砦を築いて対抗した。
 これが桶狭間の戦いの直前の状況だ。
 1560年5月12日(旧暦)、今川義元は2万五千の大軍を率いて駿府を出発。
 5月17日、沓掛城に入る。
 5月18日、孤立した大高城を救うべく、松平元康(のちの徳川家康)に命じて大高城に兵糧を入れることを命じる。三河の松平元康はこのとき今川の人質状態なので危ない役目を負わされた。
 大高城への兵糧入れを成功させた松平元康は、日付変わった5月19日の午前3時頃、1000人の兵で丸根砦を攻撃した。同時に朝比奈泰朝隊が鷲津砦の攻撃を始めている。
 丸根・鷲津の両砦が攻撃を受けているという知らせを清須城の信長が受けたのが午前4時。それを待っていたかのように清須城を飛び出した信長についていけたのはわずか6騎だったとされる。
 信長が熱田社に到着したのが午前8時。清洲城と熱田社は直線距離で12キロほどで、この当時すでに美濃路が通っていたので4時間はかかりすぎだ。自転車を普通に漕いでも1時間で行ける。
 途中信長は榎白山社に立ち寄り、日置神社でも戦勝祈願をし、ここでも敦盛を舞ったという話もある。逐一もたらされる情報を受け取りながらわざとゆっくり進んで兵が整うための時間稼ぎをしていたのだろう。熱田社では信長軍は1,000人ほどになっていた。
 同日同時刻、今川義元本隊約5,000は沓掛城を出て大高城に向かった。
 午前10時、信長は丹下砦に入った。このときは3,000人の兵が揃っていた。
 それからほどなくして丸根砦、鷲津砦が陥落。守備隊の佐久間盛重や織田秀敏などほとんどがこのとき討ち死にした。
 信長隊の佐々政次や千秋季忠など300人ほどが今川軍の前線に陣取った巻山・幕山の井伊直盛と高根山の松井宗信に攻撃を仕掛けて討ち死にしている。勝手に打って出たとも、信長の命令だったともいわれる。千秋季忠は熱田社の大宮司だった。
 丸根・鷲津砦の陥落の知らせを受けた今川義元本隊は油断をしたのか、連日の行軍で疲れが出たのか、桶狭間山に陣を張った。
 ここが桶狭間の戦いの主戦場になるのだけど、正確な場所がはっきりしない。桶狭間山の田楽狭間と呼ばれる場所だったのではないかという説もある。
 信長隊は
善照寺砦に1,000人を残してそれを本隊と思わせつつ、自ら2,000の兵で中島砦に移った。
 信長主力隊が中島砦を出たのが正午過ぎ。ほどなくして激しい風を伴う大雨が降り出した。
 その2時間後、今川義元が首を落とされるなど、このときは誰も思いもしていなかっただろう。
 諸説あってはっきりしない部分も多いのだけど、これが桶狭間の戦いのおおまかな流れだ。
 丸根砦の上には記念碑や殉難烈士の碑が建っている。遺構としては曲輪や堀の跡が残る。

 山神社が建てられたのが戦国時代であれば、桶狭間の戦いの舞台に立ち会ったということになるけど、そういう話は伝わっていない。
 東海道本線と平行して走る東海道新幹線の開業が昭和39年(1964年)のことで、そのときもこのあたりの風景は大きく様変わりした。山神社もその影響を受けたはずだ。
 かつては林に覆われていた旧観もなくなったと大高歴史の会の説明書きにある。
 社を覆う鞘堂は昭和35年(1960年)に建てられたものだ。前年の昭和34年の伊勢湾台風の被害を受けてのことのようだ。
 鳥居も同じ昭和35年に建てられている。
 社は今も茅葺き屋根のままなので、これはけっこう古いものではないかと思う。

 12月に例祭があり、その前夜に提灯祭りがあるそうだ(『愛知縣神社名鑑』は9月27日と書いているのだけど変わったのかもしれない)。
 山の神は時代が移った今も春になると里に下りてきて秋になると山に戻っていくのだろうか。

 

作成日 2018.10.24(最終更新日 2019.4.4)

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