星﨑の西南の南野にある稲荷社。江戸時代は南野村だったところだ。 かつてここは海の底だった。境内にもまだ海の香りが漂っていると感じる人もいるかもしれない。 江戸時代前期までは塩田で塩作りをしていた。それがだんだん生産量が落ち、瀬戸内の塩に取って代わられて塩作りに見切りをつける人が増えていった。福井八左ヱ門もそんな人間のひとりだった。 持っていた塩田や田畑、塩屋を売り払って資金を作り、新田開発に乗り出した。江戸時代中期の1700年初頭のことだ。 後に八左ヱ門新田と名づけられ検地が行われたのが正徳6年(1716年)というから、それが新田完成の年だったと考えていいだろうか。 『愛知縣神社名鑑』は「この土地を八左ヱ門新田という。福井八左ヱ門が苦心の末開き村内の安全と五穀の豊穣を祈って宝永二年(1705)に社殿を建立した」と書いている。 新田開発の前にまず神社を建てて祈願したということだろうか。塩を作っていた浜辺を水田にするというのは相当な苦労があったはずで、完成までに10年くらいかかったとしても不思議はない。 ちなみに宝永2年といえば富士山が噴火する2年前のことだ。宝永噴火と呼ばれる大噴火が起きたのが宝永4年(1704年)で、現在に至るまでそれが最後の噴火となっている。 尾張のこの地もそれなりに影響が出たはずだけど、農作物の収穫量はどうなったのだろうか。
福井八左ヱ門が祀ったのは稲荷社だったかどうかはなんともいえない。稲荷神だったとしても倉稲魂命(ウカノミタマ)ではなかったはずだ。倉稲魂命としたのは明治の神仏分離令以降のことだろう。明治10年に据置公許となった。 『南区今昔物語』(山田寂雀)には八左ヱ門稲荷社棟札として、元文5年(1740年)庚申仲冬の年号とともに「修復遷宮 神明祠官 村瀬兵部 大願主 福井八左ヱ門・村瀬重太郎 大工 当村 鏡味八右ヱ門」などと書かれたものが残っているとしている。 『南区神社名鑑』は、嘉永年間(1848-1854)に南野村の喚續神明社より分霊して稲荷社として祀ると書いている。 これがちょっとよく分からない。喚續神明社(喚續社)から稲荷社を分霊したのか、別の社を分霊して稲荷社と一緒に祀ったのか。 『尾張志』(1844年)の南野村の項には、「稲荷ノ社 地先繰出新田にあり」とある。これは南野の稲荷社でも、鹿島の稲荷社でもなく、稲荷社(大同町)のことのようだ。 境内の改修碑には昭和37年(1962年)に社殿が改修されたとある。その前年の昭和36年に現在地に移されたようだ。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみると、現在神社がある場所は田んぼの間を流れる用水路の脇に当たる。ただ、旧地はここではなかったはずで、少し西に樹林のマークが描かれていて、ここがそうではないかと思う。今は日産プリンスがあるところだ。 1920年(大正9年)の地図ではその場所に鳥居マークが描かれ、1968-1973年の地図以降は鳥居マークが消えるのでおそらくそうだろう。 南野が発展するのは昭和40年代以降のことで、今はもう田んぼが広がっていた頃の面影はまったくない。
境内の南側に「福井八左衛門供養塔」が建っている。 隣接する南野二丁目公民館は弘法堂と札がかかっていることからしてかつての弘心寺のようだ。大正10年(1921)年に八左弘法堂として建てられたのが始まりという。 福井八左衛門はこの地区の功労者に違いないから稲荷社で祀られていてもいいくらいだけど、そうはなっていないようだ。 本社の左右にある小さな社の片方は秋葉社で、もう片方は分からない。
福井八左ヱ門が苦労して作った水田はもはやなく、八左ヱ門の地名も残らなかった。それでも稲荷社は残り、石碑も建った。おかげで八左ヱ門の業績も語り継がれることになった。 それで充分と思うかどうかは本人次第だけど、苦労は無駄ではなかったと未来の人間には思える。
作成日 2018.2.22(最終更新日 2019.8.19)
|