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秋葉神社(元桜田町)


明治中期に建てるなら秋葉かな



元桜田秋葉神社

読み方あきば-じんじゃ(もとさくらだ-ちょう)
所在地名古屋市南区元桜田町2丁目 地図
創建年1891年(明治24年)
旧社格・等級等不明
祭神迦具土之神(かぐつちのかみ)
アクセス地下鉄桜通線「桜本町駅」から徒歩約6分
名鉄名古屋本線「桜駅」から徒歩約9分
駐車場 なし
その他例祭 10月10日
オススメ度

 住宅地の中の民家と駐車場の間のスペースに鎮座する秋葉社。
 この規模で神社と呼べるかどうかは微妙だけど、一応秋葉神社としておく。
『南区の神社を巡る』によると、創建は明治24年(1891年)という。
 幕末から25年ほどで世の中がどれほど変わったのか実感としては分からないのだけど、江戸時代を知っている人たちからするとこの頃には世の中もずいぶん変わったものだと思ったのではないだろうか。
 その当時のこのあたりは、7割ほどが農家で、勤め人は2割程度だったようだ。それでも民家が増え、神社を建てようという話になったのだろう。
 そのとき、何神社にするかという話し合いがあったはずで、結論として秋葉社になったということは、ある意味では時代を表しているといえる。もはや農業は先細りでこれからは住宅も増えて怖いのは火事だ。防火の神として秋葉社でカグツチを祀ろうとなったのは自然な流れだったかもしれない。
 南区はもともと秋葉社の多い地区で、秋葉社に馴染みがあったというのもあるだろうか。
 神社選びは簡単なようで意外と難しい。



『愛知縣神社名鑑』は、迦具土社として八幡社(呼続町)の飛地境内社と書いている。いつの時代からかは分からないのだけど、村上社も八幡社の飛地境内社となっている。
 学区でいうと3社があるのは春日野学区になる。
 毎年10月10日に3社共同で提灯祭りをしているそうだ。秋葉社を出発した一行は子供たちの笛太鼓のお囃子を先頭に村上社へ向かい、その後八幡社まで行ってお土産をもらって帰るという。



 元桜田町は昭和3年(1928年)に呼続町の一部より成立した。
 かつての桜村で、今の見晴町あたりにあった字名から町名はとられたという。 
 西側は字中村と呼ばれ、桜公園があるあたりに桜中村城があったと伝わっている。
 戦国時代このあたりは山口氏がおさめていた土地で、城主は山口太郎左衛門教房、左馬助教継、九郎二郎教吉の三代が務めた。教房は寺部城主の山口盛重と従兄弟同士に当たる。
 はじめは織田家に仕えていたものの、織田信秀亡き後、信長に見切りを付けて、大高城、沓掛城、鳴海城を支配下におさめた上で今川に寝返った。
 織田と今川の戦いは桶狭間の戦いで突然始まったわけではなく、信秀の代からずっと続いていたことで、桶狭間のときは今川義元が京に上洛するためではなく尾張に攻め込むのが目的で、信長がそれを迎え撃って返り討ちにした戦いだ。
 その桶狭間の戦いの8年前の1552年に、信長が当主になって最初の戦いが赤塚の戦いだった。
 鳴海城主を任されていた山口教継は、息子の教吉を鳴海城に置き、笠寺城を修復して今川勢を引き入れ、自身は桜中村城に立てこもった。
 この当時の信長は、名古屋城の前身である那古野城の城主だった。これは今川のものだったのを信秀が計略で奪ったものだ。
 赤塚の戦いは勝敗がつかず、引き分けに終わった。
 しかし、山口親子は信長の計略によって命を落とすことになる。親子が実は信長に通じているという嘘の情報を流し、それを信じた今川義元は親子を駿府に呼び出し切腹を命じたのだった。
 桜中村城の規模は東西約82メートル、南北約92メートルほどだったという。
 桶狭間の戦いの後、廃城となったとされる。



 神社は町内でお世話をしているようで、提灯祭りも行われてちゃんと機能している。小さな社でも果たしている役割は小さくない。




作成日 2018.3.6(最終更新日 2019.8.24)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

小さくても町を守る元桜田町の秋葉神社

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