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高座結御子神社

誰がここにいて何の神を祀ったか

高座結御子神社

読み方 たかくらむすびみこ-じんじゃ
所在地 名古屋市熱田区高蔵町9-9 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 式内社
祭神 高倉下命(たかくらじのみこと)
アクセス 地下鉄名城線「西高蔵駅」から徒歩約2分
駐車場 あり(無料)
その他 4月3日 幼児成育祈願祭 / 例祭 6月1日に「高座の井戸のぞき」
オススメ度 **

 熱田七社のうちのひとつで、『延喜式』神名帳(927年)では名神大社とされた歴史のある重要神社だ。
 しかし、その実態はとても分かりづらい。一番分からないのは熱田社(熱田神宮/web)との関係性だ。

 ここは熱田台地の中央やや南寄り、台地の縁近くではなく中央部に位置している。
 旧石器時代のナイフ型石器をはじめ、弥生時代の大型集落があった高蔵遺跡(高蔵貝塚)で知られる場所だ。
 高座結御子神社を取り囲むように築造された高座古墳群は6世紀後半のものと考えられている(一部はもっと古い時代のものともいう)。
 かつては周囲に20基ほどの古墳があったとされ、旧石器時代以降、長い間に渡って人が暮らしていた土地にこの神社は祀られている。
 問題は熱田社と断夫山古墳白鳥古墳、高座結御子神社と高蔵古墳群、火上山と氷上姉子神社との関係性と順番だ。
 全長150メートルを超える尾張地方最大とされる前方後円墳の断夫山古墳(だんぷさんこふん)が築かれたのは5世紀末から6世紀初頭と考えられている。熱田神宮web)の北西650メートルほどのところだ。
 6世紀初頭から前半の前方後円墳とされる白鳥古墳(約70メートル)は断夫山古墳の300メートルほど南に位置している。
 火上山と連続する斎山にある齋山稲荷神社古墳は4世紀までさかのぼる可能性が指摘されている。
 一般的に語られる話として、火上山で日本武尊(ヤマトタケル)が置いていった草薙剣を宮簀媛(ミヤズヒメ)が祀っていて、それを熱田に移して祀るために熱田社が建てられたという(この話は個人的には信じていない)。
 古墳の順番でいうと、斎山(火上山)、熱田・断夫山古墳、高蔵・高座古墳群ということになるのだけど、遺跡でいうと旧石器時代の高蔵、縄文時代の斎山貝塚、同じく縄文時代の熱田ということでいいだろうか。
 神社の創建年は熱田社が113年(景行天皇43年)、氷上姉御神社が195年(仲哀天皇4年)、高座結御子神社が熱田社と同時期もしくは天武天皇年間(673-686年)とする。

 これらを踏まえた上で、高座結御子神社(古くは高蔵宮とも)はいつどういう勢力がどういう神を祀るために建てたのか、ということを考えてみる。
 熱田社創建は尾張氏でいいと思う。この前提が崩れてしまうとすべてが壊れてしまうので、とりあえずその前提で話を進めたい。
 高蔵の勢力は尾張氏だったのか違うのか。火上山(斎山)の勢力はどうだったのか。
 名古屋では19の遺跡から旧石器時代の遺物が見つかっているものの、遺跡はまだ見つかっていないため、旧石器時代の人の分布は分からない。
 縄文時代の代表的な遺跡でいうと、中区栄の縦三蔵通遺跡、瑞穂区の瑞穂遺跡大曲輪遺跡、守山区の牛牧遺跡などがある。
 見晴台遺跡は縄文遺跡でもあるものの弥生時代の代表的な集落跡として知られている。高蔵遺跡も弥生遺跡としての性格が色濃い。その他、弥生時代の大型遺跡として西区(大部分は清須市)の朝日遺跡志賀公園遺跡などがある。
 熱田にも縄文時代の新宮坂貝塚や弥生時代の熱田神宮内遺跡などがあるものの、いずれも小規模なもので大勢力がいたという痕跡はない。
 大事なのは、神社の”創建”ではなく”創祀”がいつだったかということだ。カミマツリということでいえばそれはもう縄文時代から始まっていただろうけど、もう少し具体的に誰かを祀るという意識が始まったのいつで、それはどういう勢力だったかが問題となる。
 しかし、当然ながらそんなことは分かるはずもないというのが結論となる。遺跡の分布からどの時代にどの程度の集落があったかくらいは推測できても、すべての遺跡が見つかっているわけでもなく、遺跡から何もかも分かるということでもない。古墳すら多くのものが知られることなく壊されてしまった。

 熱田社の関連社の中に、御子とつく神社が3社ある。
 高座結御子神社、日割御子神社孫若御子神社だ。
 これらの神社についても創建年は分からず、祭神についても諸説あって定かではない。
 かつては、高座結御子神社は両道入姫命の子の足仲彦(タラシナカツヒコ/後の仲哀天皇)、日割御子神社は弟橘媛の子の武殻王(タケカヒコ)、孫若御子神社は孝霊天皇の子の雅武王(ワカタケヒコ)、またはヤマトタケルの孫に当たる応神天皇(ホムタワケ)とされていた時代があった。
『続日本後紀』(869年)に、「尾張国日割御子神 孫若御子神 高座結御子神 惣三前奉レ預二名神一 並熱田大神御児神也」とある。
 この三社は『延喜式』神名帳ではいずれも名神大社となっている(いずれも従二位)。平安時代中期までに国が認める霊験あらたかな官社になっていたということだ。
 高座結御子神社の祭神については古今多くの説が提出されてきた。
 中央に高皇産霊尊(タカミムスビ)・左右に正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)と栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ)とか、中央に天柱國柱神・左右に素戔嗚尊(スサノオ)と日本武尊(ヤマトタケル)とか、中央に國常立尊・左右に天照大神(アマテラス)と天御柱國御柱神とか、中央にアメノオシホミミ・左右にアマテラスとスサノオとか、中央に仲哀天皇・左右に成務天皇と神功皇后など、とにかく色々な人がそれぞれの考えを言っていて通説さえ定まっていなかった。
 現在は高倉下命(タカクラジ)となっているのだけど、これは単に「タカクラ」つながりではないのかと疑ってしまう。
 タカクラジは日本神話において、神武東征の際、熊野で敵の毒気にやられて倒れてしまった神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ/のちの神武天皇)に天から遣わされた剣を届けた神として登場する。その剣を受け取ったカムヤマトイワレビコ一行は目を覚まし、敵はおのずから倒れていったという。
 この剣は建御雷神(タケミカヅチ)が国譲りの際に使った十束剣で、タケミカヅチはイザナギがカグツチを斬り殺したときに使った天之尾羽張剣から生まれたとされることからして、どこかで尾張と重なっている部分があり、タカクラジを祭神とすることはまったく根拠のないものではない。
 タカクラジは尾張氏の祖神の天香語山(アマノカゴヤマ/アメノカグヤマ)と同一神という説もある。
 仲哀天皇・成務天皇・神宮皇后を祀るというのもあり得ないように思えて何か引っかかりがある。成務天皇(第13代)はヤマトタケルの異母弟で、仲哀天皇(第14代)はヤマトタケルの子供だ。神功皇后は仲哀の皇后なのでヤマトタケルの義理の娘に当たる。熱田社でヤマトタケルを祀り、高蔵宮でヤマトタケルの関係者を祀るということはあり得ることだ。
 御子は誰にとっての子供かということでいえば、高座結御子も日割御子も孫若御子もヤマトタケルの子ということも考えられる。もしそうだとすると、ヤマトタケルは中央の人間ではなく実際は尾張の人間だったかもしれない。熱田社にしても草薙剣にしても、通りすがりの人間や剣をここまで大がかりに祀り続けるということはあり得ないのではないか。
 神功皇后のことをいえば、三韓征伐に向かう際に妊娠中の子供(のちの応神天皇)が生まれるのを遅らせるために鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻いておなかを冷やし、帰国後に産んだと日本神話はいっている。この話にあやかったか、かつての高蔵宮では旅行の際に石を供える風習があったとされる。その頃の人たちの中では高蔵の神の中に神功皇后がいたのではないか。
 ついでに書くと、神功皇后の鎮懐石(月延石)は2つあったとも3つだったともいわれていて、長崎の月讀神社(web)、京都の月読神社(web / 松尾大社 webの摂社)、福岡の鎮懐石八幡宮(web)がそれぞれ祀っているといっているのだけど、その石を拾ってくるように命じられたのが神功皇后のお世話係をしていた尾張国造稲植(おわりのくにのみやつこいなだね)だったという話がある。
 この稲植は故郷の尾張国安井(北区)に帰ったとき、神功皇后からいただいた神胞を千本杉に祀ったという話が北区の別小江神社に伝わっている。
 少し話を戻して、タケミカヅチからタカクラジ、神武天皇へと渡った剣のその後についても少し書くと、物部氏の祖である宇摩志麻治命(ウマシマジ)が宮中で祀った後、物部氏の伊香色雄命(イカガシコオ)によって石上神宮(web)の御神体とされたということになっている。
 となると、熱田社や高蔵宮に物部が関わってくることも考えられる。『和名抄』(938年)の中に尾張国物部郷とあり、高牟神社物部神社に物部の足跡が残っている(個人的には御器所八幡宮がどちらかではないかと思っているのだけど)。
 尾張における物部氏の痕跡が色濃いのは北区味鋺(味鋺神社)や春日井市味美で、物部関連と思われる100基以上の古墳が築かれた(味鋺大塚古墳など)。
 その東には高座山がある。熱田の高蔵も高座結御子神社がそうであるようにかつては高座と表記していた。北に高座山があって、南に高蔵(高座)があり、高倉下が祀られているとなると、偶然の一致とは思えない。高座山と庄内川を挟んで東には尾張氏の拠点のひとつとも考えられている東谷山があり、東谷山の山頂には尾張戸神社尾張戸神社古墳がある。麓の志段味には尾張最古級とされる白鳥塚古墳(4世紀後半)もある。
 高座結御子神社の祭神に諸説あるということは、途中で何度も祭神が入れ替わったということかもしれない。それは高蔵一帯を支配する勢力が交替した可能性を示唆するものだ。
 ただ、平安時代までには熱田の尾張氏の勢力下に入っていたことは間違いないだろう。

『尾張名所図会』(1844年)は高座結御子神社についてこんなふうに書いている。
「新はたや町東なる田野にあり。社地甚広く古木繁茂し、遠望するにもいと尊く神さびたり。(中略)抑當社は熱田大宮に続ける大社にして、凄然たる森林・鳥聲・風籟まで耳に異なり。さながらいみじくぞ覚ゆる」
 今も歴史を感じさせるいい神社には違いないのだけど、ここまでではない。このあたり一帯も空襲でやられて、高座結御子神社も社殿が焼失している。それまでは丹塗りの尾張造だったというから、今の津島神社(web)のような感じだっただろうか。

 この神社は古くから子供の守り神とされてきた。そういう伝承というのは無視できなくて、ときに本質を示していたりする。
 親神に対する子の神を祀る場合、若宮と称することがある。応神天皇の子供である仁徳天皇を祀る若宮八幡がその代表的な例だ。
 しかし、ここの場合、御子神社となっている。御子というからにはやはり親神に対する子の神を祀るということなのだろうけど、子供の守り神となると何か少し違うような気もする。子供を守る神というなら親の子神よりも子神を守る親神の方がふさわしいのではないか。高座結御子神社が子供の守り神とされたことにはどんな歴史的な背景があるのだろう。
 4月3日の幼児成育祈願祭に続いて6月1日の例祭では「高座の井戸のぞき」という祭事が行われる。幼児に井戸(御井社)をのぞかせると疳の虫(かんのむし)封じになるとされている。

 高座結御子神社とはどういう神社なのかという問いに対する答えが出ないことは最初から分かっていた。いつ誰が建てたかを推測でも言うのも難しい。結局、分からないということがあらためて分かっただけだ。
 ただ、どこがどう分からないかを自覚していることと、ぼんやり分からないというのとでは大違いで、分からない部分をはっきりさせることは大事なことだ。
 熱田社関連社全般について言えることだけど、分からない部分を明確化していくことで少しずつ外堀を埋めて本丸に近づけるのではないかと考えている。
 熱田社は名古屋の神社の最大の謎であり、そこを避けては通れない。熱田社を理解できなければ名古屋の神社は理解できない。

 

作成日 2018.5.1(最終更新日 2021.3.12)

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