高座結御子神社

高倉下や仲哀天皇より前の高蔵の神とは?

高座結御子神社

読み方 たかくらむすびみこ-じんじゃ
所在地 名古屋市熱田区高蔵町9-9 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 式内社
祭神 高倉下命(たかくらじのみこと)
アクセス 地下鉄名城線「西高蔵駅」から徒歩約2分
駐車場 あり(無料)
webサイト  
オススメ度 **

 熱田七社のうちのひとつで、『延喜式』神名帳では名神大社とされた歴史のある重要神社だ。
 しかし、その実態はとても分かりづらい。一番分からないのは熱田社(熱田神宮 web)との関係性だ。

 ここは熱田台地の中央やや南寄りで、弥生時代前期から古墳時代にかけての遺跡が多く見つかっていることから、古くより人が暮らす土地だったことが分かっている。
 熱田貝塚(または高蔵貝塚)と呼ばれる弥生時代の遺跡が、沢上、外土居、高蔵町あたりで見つかっており、弥生土器をはじめ、土師器(はじき)、須恵器(すえき)や石器などが出土している。
 それに加えて、弥生時代の環濠集落の跡や方形周溝墓の跡も多数確認されている。
 古墳時代の5世紀後半から6世紀前半にかけて多くの小型方墳が造られ、6世紀後半には高座結御子神社を囲むように7つの円墳が築かれた。その周囲には20基ほどの古墳があったとされる。

 問題は、熱田社と断夫山古墳/白鳥古墳、高座結御子神社と高蔵古墳群、火上山と氷上姉子神社との関係性と順番だ。笠寺台地についてもあわせて考える必要があるのだけど、ここでは置いておく。
 全長150メートルを超える尾張地方最大の前方後円墳である断夫山古墳(だんぷさんこふん)が築かれたのは6世紀前半とされる。熱田神宮の北西650メートルほどのところだ。断夫山古墳の300メートルほど南には6世紀初頭の前方後円墳の白鳥古墳がある。 
 古墳の原型とされる方形周溝墓が造られたのは弥生時代で、5世紀後半から6世紀前半にかけて小型方墳が多く造られている。これは巨大な前方後円墳を造った集団とは明らかに別の集団によるものだ。順番でいうと、先に高蔵古墳群があり、熱田の巨大前方後円墳が築かれ、その後に高蔵の円墳が造られた、ということになる。
 その流れを受けて、熱田社、高座結御子神社、氷上姉子神社は、いつどういう順番で建てられたか、ということだ。
 熱田社創建は113年としているけどこれは神話の話だ。いろいろ考え合わせると、社殿をともなう神社としての創建は645年の大化の改新の後というのが現実的なようだ。
 ただし、創祀(そうし)がそんなに遅いわけはなく、創祀ということでいえばもっとさかのぼることは確実だ。
 ヤマトタケルが実在したと仮定するとそれは4世紀前半ではないかという説がある。
 ヤマトタケルが亡くなり、ミヤズヒメが火上山で草薙剣を祀ったのがその後で、ミヤズヒメが年老いたので熱田の地に草薙剣を祀ったのが4世紀の半ば頃。後に火上山にミヤズヒメを祀ったのが氷上姉子神社の原型という流れになるだろうか。
 高座結御子神社の創建は熱田社と同時期という話がある。それは社殿創建ということなのか創祀ということかによっても違ってくる。
 5世紀後半から6世紀前半にかけて高蔵で築造された円墳は、高座結御子神社を取り囲むようにあった。社殿の創建は7世紀半ばとして、5世紀までには原型となる創祀の場がそこにあったということではないのか。
 それがヤマトタケルや尾張氏、熱田社とどう関係してくるのかが分からない。
 そのあたりのことはテーマが大きすぎてこの場では扱いきれないのでこれくらいにしておく。

 これらを踏まえた上で、高座結御子神社はいつどういう勢力がどういう神を祀るために建てたのか、ということを考えてみる。
 個人的な印象を言えば、高蔵の集団はもともと火上山や熱田を本拠とした尾張氏ではないと思っている。別勢力だっただろうと。
 その後、尾張氏が熱田に進出してきたときに飲み込まれたか傘下に入ったのではないか。
 実質的なヤマト王権初代の大王は崇神天皇ではないかという説があり、その妃は尾張大海媛といった。名前からして尾張氏の女と考えられる。應神天皇皇后である仲姫命は、ミヤズヒメの兄とされる建稲種命(タケイナダネ)の孫に当たる。
 継体天皇の正妃は尾張連草香の娘の目子媛(めのこひめ)で、その子供は安閑天皇、宣化天皇として即位している(当時は大王)。
 このことから熱田の断夫山古墳の被葬者は尾張連草香か、継体天皇の皇后で安閑・宣化天皇の母親でもある目子媛ではないかとも考えられている。
 ただし、継体天皇の在位期間が507年から531年ということからすると築造年代が微妙に合わないようにも思う。尾張連草香が500年代初頭に死去していたとしても、150メートルを超える古墳を築くのには数年を要したはずで、そうなると古墳は6世紀前半といえるかどうか。
 隣接する白鳥古墳は誰の墓かということにもなる。
 それに、尾張最大の古墳の被葬者として尾張連草香がふさわしいかというと疑問だ。娘が天皇の皇后になって天皇の外祖父になったということ以外の事跡は伝わっていない。
 かつてはミヤズヒメの墓という伝承もあったけど、それはそれで年代が合わない。ヤマトタケルはいってみれば通りすがりのよそ者だし、ここで亡くなっているわけでもないので熱田に巨大古墳を築く必然はない。
 熱田台地の歴史を解き明かす重要な鍵を握るのが断夫山古墳の被葬者なのだけど、今のところ不明とするしかない。
 その頃までに高蔵の集団が尾張氏の支配下に入っていたとすれば、実際に古墳を築いたのは高蔵の集団だったかもしれない。古墳築造の技術を要していたはずだから。
 では、高蔵古墳群の被葬者は誰かということにもなってくる。尾張氏ではなく別の勢力として、首長クラスを埋葬するためのものにしては規模が小さく数も多すぎる。ここにはここの独自の埋葬文化があったと考えるべきか。前方後円墳はヤマト王権の許可がないと造れなかった。高座古墳群の中に前方後円墳はない。
 高座結御子神社を取り囲むように古墳を築いたとすれば、一番重要なのはここで祀られているのが誰かということになる。創祀は古墳築造より以前と考えられるので、4世紀から5世紀にかけての誰かということになるだろうか。

 熱田社関連社の中に、御子とつく神社が3社ある。
 高座結御子神社の祭神は、両道入姫命の子の足仲彦(タラシナカツヒコ)。後の仲哀天皇。
 日割御子神社の祭神は、弟橘媛の子の武殻王(タケカヒコ)。
 孫若御子神社の祭神は、孝霊天皇の子の雅武王(ワカタケヒコ)、またはヤマトタケルの孫に当たる応神天皇。
 かつてはこれらの神を祀ると考えられていた。
『続日本後紀』には「尾張国日割御子神 孫若御子神 高座結御子神 惣三前奉レ預二名神一 並熱田大神御児神也」とある。
 今はそれぞれ違っている。
 高座結御子神社の祭神については他にも成務天皇説がある。ヤマトタケルの異母弟である稚足彦(成務天皇)がここで出てくる意味が分からない。
 分からないといえば、現在の祭神が高倉下(タカクラジ)になっているのもまったく分からない。
『古事記』、『日本書紀』に、神武東征の際、熊野で敵の毒気にやられて倒れてしまった神武は、高倉下にもたらされた剣によって目を覚まして敵を倒すことができたというエピソードが語られる。
 高倉下とは何者かという説明がないため正体はよく分からない。このときの剣を佐士布都神、またの名を布都御魂といい、もともとは建御雷神(タケミカヅチ)が地上を平定したときに使った剣だ。物部氏の祖である宇摩志麻治命(ウマシマジ)が宮中で祀った後、物部氏の伊香色雄命(イカガシコオ)によって石上神宮(web)の御神体とされた。
 そんな謎の神である高倉下を高蔵の地の神社で祀る理由がよく分からない。単に「タカクラ」つながりということはないだろうけど。
 あるいは、尾張氏が熱田に進出する以前に高蔵にいた集団は尾張物部氏で、高倉下を祀るというのはそのときの名残という可能性もあるだろうか。
 高倉下は天香語山命と同一という説があり、天香語山命は尾張氏が祖神とする天火明命の子なので、そこから御子神社の祭神としたのかもしれない。
 ただ、高倉下と天香語山が同一とはとても思えないので、尾張氏が高座結御子神社を取り込んだときに高倉下に祭神を変えたということは考えられる。
 そうだとすれば、仲哀天皇でも、高倉下でもない、その前の祭神がいたということになる。創祀が4世紀以前までさかのぼるとすると、それはもう分からないとしか言いようがない。
 ちなみに、結御子神社の「結」は、ムスヒ(産霊)のことと思われる。ムスヒとは天地・万物を生み出す神霊のことをいう。

『尾張名所図会』は高座結御子神社についてこんなふうに書いている。
「新はたや町東なる田野にあり。社地甚広く古木繁茂し、遠望するにもいと尊く神さびたり」
「熱田大宮に続ける大社にして、凄然たる森林・鳥聲・風籟まで耳に異なり。さながらいみじくぞ覚ゆる」
 今も歴史を感じさせるいい神社には違いないのだけど、ここまでではない。
 このあたり一帯も空襲でやられて、高座結御子神社も社殿が焼失している。それまでは丹塗りの尾張造だったというから、津島神社(web)のような感じだっただろうか。

 この神社は古くから子供の守り神とされてきた。そういう伝承というのは無視できなくて、往々にして本質を示していたりする。
 親神に対する子の神を祀る場合、若宮と称することがある。応神天皇の子供である仁徳天皇を祀る若宮八幡がその代表的な例だ。
 しかし、ここの場合、御子神社となっている。927年の『延喜式』成立時にはすでにそうだった。御子というからにはやはり親神に対する子の神を祀るということなのだろうけど、子供の守り神となると何か少し違うような気もする。子供を守る神というなら親の子神よりも子神を守る親神の方がふさわしいのではないか。高座結御子神社が子供の守り神とされたことにはどんな歴史的な背景があるのだろう。
 4月の幼児成育祈願祭に続いて6月1日の例祭では「高座の井戸のぞき」という祭事が行われる。幼児に井戸(御井社)をのぞかせると疳の虫(かんのむし)封じになるとされている。

 高座結御子神社とはどういう神社なのかという問いに対する答えが出ないことは最初から分かっていた。分からないということが分かっただけだ。
 ただ、どこがどう分からないかを自覚していることと、ぼんやり分からないというのとでは大違いで、分からない部分をはっきりさせることは大事なことだ。
 熱田社関連社全般について言えることだけど、分からない部分を明確化していくことで少しずつ外堀を埋めて本丸に近づけるのではないかと考えている。
 熱田社は名古屋の神社の最大の謎であり、難敵であるがゆえに、そこを避けては通れない。熱田社を理解できなければ名古屋の神社は理解できない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

熱田区の高座結御子神社は名古屋の重要神社のひとつ

HOME 熱田区

スポンサーリンク

Scroll Up