山神社(田代町)

農民が祀った山の神は立派な山神社になった

田代町山神社

読み方 やま-じんじや(たしろちょう)
所在地 名古屋市千種区田代町字岩谷36番地 地図
創建年 不明
社格等 指定村社・十二等級
祭神 大山祇神(おおやまつみのかみ)
茂山祇神(もやまつみのかみ?)
瑞山祇神(みずやまつみのかみ?)
アクセス

・地下鉄東山線「覚王山駅」から徒歩約14分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度 **

 覚王山日泰寺(web)の少し西にある山神社。
 このあたりは起伏の激しい丘陵地帯で坂道が多い。昔は山林で、傾斜地を耕して畑にしていたという。
 神社がある田代(たしろ)という地名は全国的に多く、田を作るために開墾した土地という意味から来ている場合が多い。田の代わりということで畑地を指していたかもしれない。
 ここはかつての末森村かと思ったのだけど、上野村酉新田(うえのとりしんでん)と呼ばれる開墾地だったようだ。
 ここを耕す村人が山の神を祀ったのが神社の始まりとのことだ。
 明治39年に田代村と鍋屋上野村が合併して東山村が誕生し、大正10年に東山村大字田代を名古屋市東区に編入して田代町ができた。今の字は岩谷(いわや)となっている。

『寛文村々覚書』や『尾張徇行記』によると、江戸時代の末森村には、八幡社、白山社、仙現社(浅間社)、一宮社(一之御前社)、山之神社があったとなっている。
『尾張志』は「山ノ神ノ社 宇賀ノ神を祭れり」と書いている。宇賀神といえば頭は人間で体はとぐろを巻いた蛇という姿をしていて、弁才天と習合していたから山神社で祀るのはちょっと珍しい。
 白山社、山神社、浅間社、一之御前社は、明治41年(1908年)に城山八幡宮地図)に合祀された。

 鍋屋上野村の神社については、『寛文村々覚書』に、「天神 浅間 八幡 天王 愛宕 山神 一王御前」の七社が出ている。
『尾張徇行記』では、「牛頭天王祠 弁才天(永弘院ノ界内ニアリ)」、「一ノ御前祠 愛宕祠 八王子祠 山神祠」が載っている。
『尾張志』では「浅間社 天王社 一御前社 八王子社 愛宕社 天神ノ社」となっている。
 ここに載っている山神祠が田代町の山神社なのかどうか、ちょっと判断がつかない。というのは、南区道徳の観音町にある山神社は昭和15年に鍋屋上野から移されたものだからだ。
 ただ、神社は移されても元地に元社として残る場合もあるのでなんとも言えない。山神社が鍋屋上野に一社しかなかったとも限らない。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが、社蔵の棟札によると享保十九申寅年(1734)九日吉祥日に山之神大山祇神を鎮座奉斎、熱田之御師林三太夫が奉仕した。宝暦三癸酉(1753)八月、文政十三庚寅(1830)八月十一日、神主大原左五太夫武祐謹行、寛政八丙辰年(1796)二月林三太夫拳重謹行とそれぞれ社殿の造営を行う。明治5年10月村社に列格し、昭和16年2月11日紀元二千六百年記念事業として奉賛会を結成し社殿を改築、境内の拡張整備を行った。昭和20年11月20日供進指定社となる」

 享保19年(1734年)の棟札の「山之神大山祇神を鎮座奉斎、熱田之御師林三太夫が奉仕」というのが創建を意味するのか再建なのかは分からない。
 もともと村人が小さな祠で祀っていたものを社殿を建てて神社にしたということも考えられる。
 もしそうならば、村人の祠が指定村社にまで出世したということになる。

 祭神の茂山祇神と瑞山祇神というのはどういう神なのだろう。茂山と瑞山という山か地名があったのだろうか。
 他では見たことがないので、ここで生まれた独自の山神かもしれない。

 鳥居をくぐってすぐ左手の赤い鳥居と紅白の幟があるのは龍神社だ。もともとここにあったものではなく他から移された可能性が高そうだ。
 白龍・金龍大明神と幟には染められている。
 詳しいことは分からない。
 その他、境内社として、祖霊社、護国神社、津島神社、秋葉神社、金刀比羅宮がある。
 棒の手の道具や祭りのときの馬飾りの道具などを所蔵しているそうだ。大祭のときなどにそれらが披露されることがあるのだろうか。

 個人的に山神社全般に惹かれるものがあるようで、その中でも田代町の山神社は好きな山神社のひとつだ。
 境内が穏やかで暖かい空気に包まれていて居心地がよく、長居したくなるような感じだ。優しい気持ちになれる。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

千種区田代町の山神社は柄のいい神社

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