なかなか立派な神社だ。街中の神明社でここまで堂々としているところはなかなかない。 かつては茅葺きの大屋根に覆われていたというから、そのときの姿を今に引き継いでいるのだろう。 『愛知縣神社名鑑』はこう書く。 「境内は『神鳳抄』に記るす。伊勢神宮の一柳の庄の本貫の地である」 これだけではちょっと分かりづらいから説明がいる。 『神鳳鈔(じんぽうしょう/web)』は、伊勢の神宮(web)の領地の一覧で、鎌倉時代初期の1193年から室町時代前期の1360年にかけて完成したといわれている。 「一柳の庄の本貫の地」というのは、伊勢の神宮の荘園である一楊御厨(いちやなぎのみくりや)がこの地にあって、一楊庄(ひとつやなぎしょう)と呼ばれ、村名でいうと本郷村で、それは一柳庄の本貫地を意味するということだ。 津田正生『尾張国地名考』の本郷村の項を読むとなるほどそういうことかと納得する。 「本郷の稱は主村の謂也 近世に至りて支村おのおの独立して一ヶ村と成たるあとに只一村残りたるを本郷という也 此村一柳庄神戸郷(かんべ)の本郷にや」 伊勢の神宮の荘園だったところが、それぞれ村として独立して、最後に残ったところが本郷村になったということだ。 伊勢の神宮の荘園の一楊御厨の中心地に伊勢の神宮から勧請して建てたのがこの神明社ということになりそうだ。創建は早ければ平安時代、遅くとも鎌倉時代ではないだろうか。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の本郷村の項はこうなっている。 「神明壱社 中郷村 祢宜 孫大夫持分 社内七畝廿三歩 前々除」 本郷村には祢宜がいなかったのか、少し離れた中郷村の祢宜が管理をしていたようだ。 前々除となっているので江戸時代以前の創建は間違いない。 『尾張徇行記』(1822年)はこう書く。 「神明社界内七畝廿三歩前々除 府志ニモアリ」 「中郷村祠官高羽氏書上帳ニ、神明社内七畝廿歩御除地、末社浅間白山天王三狐神 此社草創ハ不知、再建ハ慶安四卯年ナリ」 創建は不明で、再建は1651年、末社に浅間、白山、天王、三狐神があったことが分かる。 『尾張志』(1844年)の内容も『尾張徇行記』と変わらない。 「神明社 本郷むらにあり 末社に浅間ノ社 白山ノ社 天王ノ社 宮司ノ社あり」
本郷村は、明治11年(1878年)に小塚村、七女子村と合併して小本村になり、明治22年(1889年)には小本村、四女子村、長良村、篠原村が合併して松葉村に、明治39年(1906年)に松葉村、岩塚村、柳森村が合併して常盤村になった。 現住所は小本1丁目なので、他と区別するため小本神明社と呼ばれることもあるのだろう。
神社は最初からここにあったのではなく、290メートルほど南西にあった。現在、JR東海バスの敷地になっているところだ(地図)。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)に鳥居マークが描かれているので場所が確認できる。本郷村集落から外れた西の田んぼの中だったようだ。 昭和52年(1977年)に境内地が国鉄に買収されて現在地に移された。 神社のすぐ南にあった秋葉社も一緒に移されて、今は神明社の境内社となっている。秋葉社があったのが薬師寺(地図)の西だった。
『愛知縣神社名鑑』で少し気になる記述がある。 「この地には珍しく本殿の覆殿あり」という部分だ。 覆殿(おおいでん)というのは風雨を避けるために本殿を覆った建物をいう。 拝殿からぐるりと高い塀で囲まれていて本殿は屋根の部分しか見えないのだけど、本殿が覆われているようには見えなかった。本殿屋根と思っているのが実は覆殿で、本殿そのものはその中に収まっているのかもしれない。 以前の茅葺きの大屋根というのを見てみたかった。昭和52年に移される前は今とは違う姿をしていたのだろうか。
作成日 2017.7.18(最終更新日 2019.6.20)
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