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淺間神社(那古野)

名古屋城以前の古い浅間社のひとつ

那古野浅間神社

読み方 せんげん-じんじゃ(なごの)
所在地 名古屋市西区那古野1丁目29-3 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 指定村社・十二等級 
祭神 木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)
 アクセス 地下鉄桜通線「国際センター駅」から徒歩約5分
駐車場 なし
その他 例祭 10月1日・2日
オススメ度 **

 名古屋城築城以前からあった神社のひとつ。
 名古屋にはいくつか古い浅間社がある。創建年が伝わっているものとしては、東区東桜にある冨士神社が1398年、大須にある富士浅間神社が1495年の創建とされている。西区浅間の富士浅間神社は、名古屋城築城に伴い、東桜の冨士神社を仮に遷したものがそのまま定住して今に到っている。
 那古野の浅間神社も、室町から戦国にかけて建てられた可能性が高そうなのだけど、まったく別の話もある。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は明かではない。『尾張志』に”大船町の西にあり、もとは広井村のうちなる河原といふ地に在りしを正保四年(1647)ここに移せり”と、又”遷宮正保四年、元禄十四年(1701)享保二年(1717)”と記るす。その後は宝暦八年(1758)5月、天明三年(1783)三月、文化十二年(1815)七月、天保十年(1839)十一月、明治三年八月、社殿を修造する。明治五年十月、村社に列格し、明治十年十月二十六日、指定社となる」

『尾張志』(1844年)にはこうある。
「大船町の西にあり木花開耶姫神を祭る鎮座の年月しられすもとは廣井村のうちなり河原といふ地に在しを正保四年ここに移せり
 摂社 稲荷社 恵比須社 遷宮 正保四年元禄十四年享保二年
 神主 正六位上森駿河介藤原政信」

 もともと廣井村の河原という場所にあったものを1647年(正保四年)に現在地に移したのだという。
 廣井村の河原は、300メートルほど南の現在光明院(地図)があるあたりのようだ。
 ただ、このすぐ南には花車神明社がある。この神社もわりと古い神社なので、両社の関係がどうだったのか気になるところだ。
 現在地に移した理由が何だったのかは分からないのだけど、1647年というのはなんだか中途半端な時期だ。このとき何があったのか。

 それに対して『名古屋市史』(大正4年/1915年)は、『尾張年中行事絵抄』(高力種信/小田切春江)に書かれている話として、河原は廣井村ではなく春日井郡の河原村(清須市新川)のことで、そこにあった神社は『尾張國内神名帳』にある従三位川原天神のことだという説を紹介している。しかもその神社は星宮(星天神)と称して星神を祀っていたという。
 かなり突拍子もない話なので、にわかには信じられない。とりあえずそういう話もあるということで保留とする。

 神社のすぐ東の通りは四間道(しけみち)と呼ばれている。その一本東の堀川沿いの道が美濃路で、美濃、清須方面と熱田を結ぶ重要な通りだったから、四間道は裏道ということになる。
 1610年の清須越で移ってきた商人たちが名古屋城下の外れのこの地に集まって町ができた。
 1700年(元禄13年)に城下の大半を焼き尽くす火事があり、この辺りも焼けてしまった。
 そこで尾張藩4代藩主の徳川吉通は、商家への延焼を防ぐため、美濃路と四間道の間に土蔵を並べることを奨励し、中橋から五条橋にかけての道幅を4間(約7メートル)に拡げる工事を行った。そこから四間道と呼ばれるようになったのだった。
 このあたりは空襲の被害が少なかったところで、四間道はかつての面影を残しており、名古屋市の町並み保存地区に指定されている。
 浅間神社の遷座が1647年というのであれば、四間道の工事とは関係がない。何の理由もなく移すはずもないから、何か必然があったのだろう。

『寛文村々覚書』は1655年から1658年にかけて行われた調査をもとに1670年頃まとめられたとされる。なので、その頃にはすでに現在地に移された後ということだ。
 ここが廣井村なのか名護屋村なのかがよく分からないのだけど、名護屋村本田は「社四ヶ所 内 浅間 天神 弁才天 山神 当村祢宜 丹後持分 社内弐反弐畝拾歩 前々除」とあり、廣井村は「社三ヶ所 神明 弁才天 社内壱反壱畝保 前々除 右ノ上野持ち分 富士浅間社内年貢地 当所祢宜 若狭持分」となっている。
 現在この辺りに二社の浅間社はないので、どちらかの浅間社が那古野の浅間社に当たるのだろう。おそらく廣井村の富士浅間社がそうだと思う。

『尾張名所図会』(1844年)には「中橋裏浅間社」と題した絵が載っている。
 説明文にはこうある。
「この辺南北十余町の間商家の裏にして土蔵夥しくたてつらね、その数千に及べり これ府下豊饒の余溢ならんか」
 四間道沿いに蔵が建ち並び、四間道を挟んで向かいに浅間社が描かれている。浅間社は周囲を屋根付きの塀で囲んでいたことが分かる。門があり、入った先に鳥居が建ち、すぐに拝殿があるという配置や境内の広さは今と変わらなかったようだ。雨が降っていて、道行く人が傘を差している。

 室町、戦国に建てられた浅間社は、戦の神としての浅間大神(あさまおおかみ)を祀るものだったのではないかと考えるけどどうだろう。富士山の女神であるコノハナサクヤヒメを祀るという意識ではなかったのではないか。
 江戸時代に入ると浅間社に対する認識は変わっていっただろう。コノハナサクヤヒメをどの程度思っていたのかは分からないのだけど、富士山に対する憧れや信仰が強くなっていったはずだ。
 ただ、名古屋には富士信仰というものがあまり見られない。富士塚も残っていないし、富士講の痕跡もほとんどないといっていいくらいだ。江戸時代ですら名古屋から富士山はほぼ見えなかったということはあるにしても、この地域における富士信仰の希薄さは気になるところだ。江戸時代まではもっと強かったのが明治以降急速に廃れていったということだろうか。
 そのあたりの事情ももう少し追求していかないといけない。

 境内には樹齢300年を超える欅(ケヤキ)の他、樹木が生い茂って鬱蒼としている。名古屋駅から徒歩圏内とは思えないほど時代がかっている。それは空襲で焼けなかったことも大きい。時代の空気が途切れることなく積み重なり、とどめ置かれているような感じだ。
 名古屋は空襲や都市開発によって古い町並みがあまり残らなかった。東京や大阪にあるような下町と呼べるようなところが少ない。
 その中で、四間道や円頓寺は名古屋の下町と呼べる数少ない場所のひとつだ。屋根神様も残っており、江戸時代を感じられる散策コースとしておすすめできる。
 浅間神社もなかなかいい神社だ。

 

作成日 2018.3.29(最終更新日 2020.3.18)

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