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軻愚突知社(本星﨑)


ここは星宮社の元地なのか



本星﨑軻愚突知社

読み方かぐつち-しゃ(ほんほしざき)
所在地名古屋市南区本星﨑町寺坂726 地図
創建年不明
旧社格・等級等無格社・十五等級
祭神軻愚突知命(かぐつちのみこと)
アクセス名鉄名古屋本線「本星﨑駅」から徒歩約14分
駐車場 なし
その他例祭 10月8日(10月第1日曜日? 第2日曜日?)
オススメ度

 星宮社地図)の300メートルほど北にあるみこし山(神輿山)と呼ばれる小高い丘の上にある小さな神社。
 地図や社号標では秋葉社となっており、神社本庁の登録名は軻愚突知社になっている。
『南区の神社を巡る』は、秋葉神社(加具土社)としている。
 この神社自体はさほど重要ではないのだろうけど、この神社が建っている場所には大きな意味がある。



 星宮社の創建は舒明天皇(じょめいてんのう)時代の637年という説がある。舒明天皇時代(629年 – 641年)に、星﨑に隕石が降ってきたという言い伝えがあり、そのとき星の神である天津甕星神(アマツミカホシ)または天之香々背男命(アメノカガセオ)を祀ったというのだ。
 星宮の元地はここより北で、星﨑城が築城されたときに現在地に移されたという(最初から現在地にあったという説もある)。
 星﨑城は現在笠松小学校(地図)があるあたりにあった。
 戦国時代の星﨑は本丸の天守、二の丸、三の丸、侍屋敷、城下町を持つ東西350メートル、南北450メートルほどの規模で、その周囲を堀で囲む総構えの城郭だったという。
 元の星宮がどこにあったのか正確な場所は伝わっていないのだけど、もしかすると今軻愚突知社が建っているみこし山だったのではないかと個人的には思っている。根拠があるわけではなく、みこし山の上に立ったとき、強くそんな感じがしたからだ。少なくともここは普通の場所じゃない。特別な場所に違いない。



 みこし山の名は平将門の乱と関係がある。
 935年に平将門が関東で反乱を起こすと、それを抑え込むべく朱雀天皇の命により全国の寺社で平将門調伏祈願が行われた。
 尾張国では熱田社がそれにあたることになった。
 熱田大宮・八剣宮・日割宮・高倉宮・大福田宮・氷上宮・源田夫宮のそれぞれの神を神輿に乗せて、鳥居山(今の丹八山/地図)で祈祷を行った。
 その神輿が一時置かれたのがみこし山で、みこし山という呼び名はそこから来ているとされる。
 みこし山と鳥居山は狭間と呼ばれる谷を挟んで南北に並んでいる。その距離は150メートルほどだ。
 ここは笠寺台地の南端に近い西の縁で、ふたつの小山は古墳の可能性がある。
 平将門の乱が鎮圧されたのが940年で、翌941年に鳥居山に熱田の七神を祀る七所社が創建されたとしている(後に七所神社は現在地に移された)。
 何故、熱田社は熱田で将門調伏祈願をせずにわざわざ七神を神輿に乗せて笠寺の鳥居山まで運んだのか。それが大きな謎だ。熱田社から星﨑の鳥居山までは直線距離で5キロ近くある。星﨑の地が特別だったのか、鳥居山が祈願に向いていたのか。
 当時この場所は笠寺台地の突端近くの高台で、すぐ南は海だった。星﨑に何度も隕石が降ったという言い伝えもあり、実際江戸時代に落ちた隕石は保管されている。
 星降る場所と将門調伏を結びつけただろうか。大人物が死んだとき巨星墜つという表現を使ったりする。



 星﨑の地は古くは千竈(ちかま)と呼ばれていた。このあたりは塩作りが盛んで浜辺に海水を煮詰める塩竈がたくさんあったことから千の竈、千竈と呼ばれるようになったと考えられている。
 千竈神社(知我麻神社)はここの本居神を祀っていた。祭神はこの地に塩作りを伝えた伊奈突智老翁(イナヅチノオジ)で、星宮よりも北にあった下知我麻神社だっとされる。
 927年完成の『延喜式』の神名帳には下知我麻神社(シモツチカマノ)と上知我麻神社(カムツチカマノ)が載っている。ということは、平安時代中期にはそれぞれ別の神社だったということだ。
 星宮社は『延喜式』にも尾張国の『国内神名帳』にも載っていない。
 上知我麻神社、下知我麻神社は鎌倉時代に熱田社の境外摂社として熱田に移されたとされる(境内に移されたのは戦後)。
 平将門の調伏祈願が行われた940年前後は、すでに千竈(星﨑)は熱田社大宮司の尾張氏の勢力下に入っていたのだろう。そうでなければここに神輿を運んで祈願などしないはずだ。
 上知我麻神社、下知我麻神社、星宮社はそれぞれ別の神社だったと考えていいと思う。今の星宮社にあったのが上知我麻神社で、のちに星宮社と下知我麻神社を移して合体させたのかもしれない。



 星﨑城はいつ誰が建てたのかはっきりしない。
 平安時代末の治承年間(1177-1181年)に源氏の武将、山田重忠が築城したという話がある。
 しかし、年代と山田重忠の足跡を照らし合わせるとこの話は無理がある。
 1221年の承久の乱で亡くなったときは56歳だったというから、1181年でもまだ16歳やそこらだ。1181年は治承・寿永の乱で父の重満と兄の重義が命を落とした年で、二男の重忠はまだ初陣も飾っていない(1183年に初陣)。その年までに少年が城を築城とは思えないし、そもそもこのときの山田氏の本居は北区大曽根の北の山田庄だった(山田天満宮のあるあたり)。星﨑とは離れすぎている。
 1183年に木曾義仲に従って平家と戦い、京都まで進軍してそのまま京中守護の任に就いている。
 もし本当に山田重忠が星﨑城を築城したのであれば、父と兄が命を落とした1181年の4月25日以降の同年ということになるだろうか。
 星﨑は京都と鎌倉を結ぶ鎌倉往還(鎌倉街道)の沿線にあるので、平家との戦いや鎌倉との連絡用に星﨑に拠点を置いた可能性は考えられる。
 そうであれば、星﨑城を築城するために星宮社を現在地に移したのもこのときということになる。
 山田重忠築城説とは別に、戦国時代に山田重忠の子孫の岡田重篤が築城したという説がある。
 それが1521年というのだけど、岡田重篤は小幡城主(守山区)として知られており小幡城を築城したのが1522年とされていることをどう見るべきか。
 山田重忠の子孫の岡田重篤が築城したことで山田重忠築城として話が伝わってしまった可能性もあるだろうか。
 岡田重篤は織田信秀・信長親子に仕えた。
 その後、鳴海の豪族・花井右衛門兵衛、岡田直教、山口重勝、岡田重善、岡田重孝と城主が移り、1588年、山口重政のときに廃城になったと伝わる。



 みこし山にいつ軻愚突知社が建てられたのかは分からない。どうして軻愚突知社だったのか。
『愛知縣神社名鑑』は「創建については明かではない。明治9年4月1日、据置公許となる」としか書いていない。
『南区の歴史』は永禄年間創建と推定されていると書いている。永禄は1558-1570年だから、桶狭間の戦い(1560年)の頃だ。
 実際にそうなのかもしれないけど、戦国時代この場所にカグツチを祀る社を建てたということにピンと来ない。



 境内には星崎城の城址碑がある。本丸から少し離れた位置にあって独立した小山ということで、物見用などに使っていたかもしれない。
 境内下には山車庫(廻間山車庫)があり、10月の第1土・日に行われる本地祭(星宮祭)のときに曳かれる山車が収められている。



 この場所に元の星宮社があったのかどうか。私はあったと信じている。そうじゃないかもしれない。




作成日 2018.2.16(最終更新日 2019.8.17)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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