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有松天満社

祇園寺から独立して有松の氏神に

有松天満社

読み方 ありまつ-てんまん-しゃ
所在地 名古屋市緑区鳴海町米塚10 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 指定村社・十一等級
祭神 菅原道真公
アクセス 名鉄名古屋本線「有松駅」から徒歩約9分
駐車場 なし
その他 春季大祭 3月第3日曜日 秋季大祭 10月第1日曜日
webサイト 公式サイト
オススメ度

 有松の町の氏神なのだけど、住所は鳴海町なので鳴海町の一部住人の氏神でもある。
 すぐ南の祇園寺で祀られてた祠を山の上に移して社殿を建てたのが江戸時代後期の文政七年(1824年)という。
 祇園寺と天満について『尾張徇行記』(1822年)はこう書いている。
「祇園寺、書上ニ禅宗、鳴海村瑞泉寺ニ属ス、大雄山ト号ス、此寺草創ハ不知、往昔鳴海村ニアリテ猿堂寺ト号セシカ、宝暦五亥年当村ヘ易地シ、其年祇園寺ト改号ス、全体当寺ハ其以前地蔵堂アリシカ、当寺ヲ易地セシニヨリ猿堂寺ノ跡ヘ地蔵堂ヲ引移シ、其後地蔵堂ヲ又庚申堂ト改号セシトナリ」
「天神社当村ニアリ、是ハ主僧信仰ニ太宰府ノ天神ヲ勧請シ、村人ノ請ニ因テ鳴海ノ内当寺控定納山ニ遷座シテ氏神ト崇メ、社内五畝歩アリ」

『尾張名所図会』(1844年)は天満社(文章嶺)についてこう説明する。
「祇園寺の後の山をいふ。天満宮を安置す。神廟もと祇園寺境内にありしが、寛政の初め、寺僧卍瑞(まんずい)の開基にして、数千人より捧げし詩歌文章等をこの山頂に埋め置き、文政七年その上に今の神廟を基立し、新たに八棟造の高廟を構え、以前に百倍の荘厳とはなりぬ。こは當所有信(うしん)の輩(ともがら)、莫大な資財を寄附せしとぞ。夫(それ)よりして文章嶺(ふみのみね)と稱す。山の中腹に瀧あり。いろはの滝といふ。是御手洗なり。又瑞垣の内に、冷泉為泰卿御自筆の御詠を其まま石に彫りて建つ。今左に記して以て世に公にす」

『愛知縣神社名鑑』はこう書く。
「創建は明かではないが、『尾張名所図会』に有松町大字有松の祇園寺の境内に鎮座ありしを寛永初年(1789)寺僧卍瑞ら数千人より捧げた詩歌文章をこの山頂に埋め置き、その上に文政七年(1824)神廟を建立する。その構えは八棟造りの高廟で従前より百倍荘厳となった。これより文章嶺(ふみのみね)と称し、寺の守護神から離れ有松町の産土神として尊崇せられた。明治12年7月9日、村社に列格し、明治40年10月26日、供進指定社となる。鎮座地は鳴海町、氏子崇敬者は有松町と異なり両町より供進された」

 少しややこしいので祇園寺から整理していった方がよさそうだ。
 まず瑞泉寺は諏訪社(諏訪山)のページに書いたように、1396年に鳴海城主の安原備中守宗範(やすはらびっちゅうのかみむねのり)が平部山に瑞松寺(ずいしょうじ/web)を建立したことに始まる。
 ここにはすでに諏訪社があって、当時は並んで建っていたようだ。
 瑞松寺は応仁の乱(1467-1477年)の時期に兵火で焼けて、1501年に東海道沿いの現在地(地図)に移され、瑞祥寺と改め、1716年に現在の瑞泉寺と改名した。
 それ以降、鳴海一帯の中心寺となり、鳴海の寺は瑞泉寺の末寺が多い。祇園寺もそのひとつだ。
 祇園寺は初め、鳴海村の鳴海城跡すぐ東にあって、今はそこに圓道寺(地図 / web)が建っている。
 圓道寺のwebサイト等によると、創建は安土桃山時代の文禄年間(1592-1595年)で、1706年(宝永3年)に猿堂寺と改称し、1755年(宝暦5年)に現在地に移り、祇園寺と改めたという。
 それとは別の説として、戦国時代の天正年間(1573-1592年)に瑞泉寺の第11世・仁甫良義(にんぽりょうぎ)が猿堂寺という名で開いたのが始まりともいう。
 圓道寺が移った跡地に地蔵堂が置かれ、後に庚申堂と名を変え、昭和17年(1942年)に庚申山圓道寺と改めた。
 これが祇園寺の流れで、その祇園寺の中に天満祠が祀られていたのが有松天満社の始まりとなる。鳴海村の圓道寺だった時代からなのか、有松に移って祇園寺となって以降のことなのかははっきりしない。
『尾張徇行記』に「是ハ主僧信仰ニ太宰府ノ天神ヲ勧請シ」とあることから、最初から菅原道真を祀る天満だったと思われる。
 天満社がある小山を文章嶺(ふみのみね)と呼ぶようになったのは『尾張名所図会』がいうように「
寛政の初め、寺僧卍瑞(まんずい)の開基にして、数千人より捧げし詩歌文章等をこの山頂に埋め置き」ということから来ている。寛政元年は1789年になる。
 天満社の社殿(神廟)が建てられたのはその後で、文政七年(1824年)としている。
「八棟造の高廟」という立派な社殿のための資金を出したのは有松宿の絞り染めで財を成した商人たちだった。

『尾張名所図会』には「文章嶺」と題して祇園寺と天満を一緒に描いた絵が載っている。
 南の東海道に面したところに祇園寺があり、山の上に天満社がある配置は今も変わっていない。
 現在は祇園寺と天満社の間を名鉄名古屋本線の線路が分断し、西側には国道302号線と名古屋高速が通って風景としては大きく変わってしまった。
 東海道から短い石段を上がったところに祇園寺の境内と堂があり、その右側(東)にに天満宮へと続く坂道がある。山の麓に鳥居があって、その手前に小川が流れて虹硯橋が架かかっている。この川は今も流れていて橋は近代のものに架け替えられているのだけど、境内に移されている石橋が当時のものかもしれない。
 鳥居をくぐって左に折れ、右に直角に曲がって山頂へ向かう。階段はなかったようで山道の斜面を登っていく人の姿が描かれている。
 途中右手に「イロハノ滝」とある。ごく小さな滝だったようだけど、ここが御手洗になっていた。今はそこに注連縄が張られているものの水は流れていない。
 第一の門があり、更に少し登ったところに垣と塀で囲んだ第二の門があって、その内側に拝殿、渡殿、本殿と続いている。
 これらの社殿の造りは、描かれた当時と大きく変わっていないように見える。

『尾張名所図会』には「例祭 二月二十五日。又八月十六日。ねり物数多あり」とも書かれている。
 ねり物(練り物)というのは神輿などを中心とした祭礼の行列のことで、当時から盛大な祭りが行われていたことを伝える。
 現在の例祭日は春季大祭が3月の第3日曜日で、秋季大祭が10月の第1日曜日となっている。
 有松には東町の布袋車、中町の唐子車、西町の神功皇后車の3台の山車があり、秋季大会に曳き出されて旧東海道を練り歩く。からくり人形の演技も披露される。
 布袋車は明治24年(1891年)に中区錦の袋町にあった道具屋から購入したもので、製造年については分かっていない。 大将人形が布袋様ということで布袋車と呼ばれている。
 
唐子車は天保年間(1803-1844年)に知多の内海で製造されたもので、明治8年(1875年)に中町が購入した。三体の人形が唐子(文字書き人形・喜び人形・麾振り人形)であるところから唐子車と呼ばれる。
 神功皇后車は明治6年(1873年)に有松村が名古屋の大工、久七(きゅうしち)に依頼して製造したもので、神功皇后・武内宿禰・神官の三体のからくり人形が乗っている。
 3台の山車は昭和48年(1973年)に名古屋市の有形民俗文化財に指定され、平成26年(2014年)に祭り全体が名古屋市指定無形民俗文化財になった。
 例祭のとき以外にも、土日祝日に有松山車会館で1台展示されているのを見ることができる。

 下から上まで長い階段を登っていくのはけっこうしんどいけど、昔は階段もない土の斜面を登っていたことを思えば楽になった。
 境内社に神明社、稲荷社、秋葉社、琴平社、御鍬社、津島社がある。
 境内には「聖戦 完勝祈願 陸軍大将松井石根書」と刻まれた祈願碑がある。
 昭和8年、陸軍大将だった松井石根(まついいわね)は桶狭間の古戦場を訪れている。松井石根は桶狭間の戦いに今川方の先鋒として参加して討ち死にした松井宗信の子孫とされる。
 第二次大戦終結後、南京大虐殺の責任を取らされ、B級戦犯として処刑された。
 松井石根が揮毫(きごう)した石碑は桶狭間古戦場田楽坪碑や上飯田の六所宮(赤心富士)などにも残されている。

 

作成日 2018.11.3(最終更新日 2019.4.7)

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