冨士神社(東桜)

引っ越していって戻ってこなかったので建て直した

東桜冨士神社

読み方 ふじ-じんじゃ(ひがしさくら)
所在地 名古屋市東区東桜1丁目4-12 地図
創建年 1398年(室町時代前中期)
社格等 指定村社・十等級
祭神 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやびめのみこと)
アクセス

・地下鉄桜通線「高岳駅」から徒歩約3分
・地下鉄名城線/桜通線「久屋大通駅」から徒歩約9分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 創建は室町時代前中期の1398年と、わりと古い。
 社伝によると、この地の郷士(下層の武士)の前山源太夫という人物が駿河国の大宮に出向いて分霊をを受けて勧請したのが始まりという。
 駿河の大宮といえば現在の富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ/web)のことだと思うのだけど、冨士神社の「冨」は「ウかんむり」ではなく「ワかんむり」なのが少し気になる。富士山本宮浅間大社などは「ウかんむり」なのに対し、山梨県の北口本宮冨士浅間神社(web)などは「ワかんむり」となっており、その違いがよく分からない。各地の冨士浅間神社も冨と富が混在している。
 富と冨の違いについては後付けと思える説がいろいろあるけど実際のところは明確な区別はないということのようだ。
 いずれにしても勧請したのは浅間大神(あさまおおかみ)であってコノハナサクヤヒメ(木花開耶姫命)ではない。祭神をコノハナサクヤヒメとしたのは明治以降のことだ。
 江戸時代は富士浅間宮や冨士権現、富士塚権現などと呼ばれていたというから神仏習合していたことが分かる。
 権現(ごんげん)というのは仏が神の姿を借りて権(かり)に現れたものとする考え方(本地垂迹)なのだけど、江戸時代まではなんでもかんでも権現やら明神やらといっていたようだから、神仏習合という意識すらなかったのかもしれない。
 その頃このあたりは山口の前山と呼ばれていたという。前山源太夫がいたから前山だったのか、前山という地名から前山を名乗ったのか。
 当初は四町四方(または二町四方)という広大な境内を持ち、杉や松の老木が生い茂る神域と呼ぶにふさわしい風景が広がっていたという。今は都会のど真ん中となっているから想像できない。
 天正十年(1582年)の7月1日に徳川家康が参詣したという記録が残っているそうだ。
 1582年の6月2日(新暦では6月21日)に本能寺の変が起こり、京にいた家康は伊賀越えをして命からがら故郷の三河に逃げ戻っている。それが6月4日だ。
 7月1日に参詣したということは、6月27日に開かれた清洲城(web)での清洲会議に参加した帰り道に立ち寄ったということだろうか。
 当然のことながらこのときはまだ名古屋城(web)は築城されていない。那古野城の跡はどんなふうになっていたのだろうか。

 冨士神社に転機が訪れたのが名古屋城築城のときだった。1610年のことだ。
 この場所に浅野幸長(浅野長政の長男で紀州藩初代藩主)の普請小屋が作られることとなり、神社は名古屋城西の巾下に移されることになった。
 これは一時的な遷座で、名古屋城築城が終わったら元の場所に戻すことになっていたらしい。
 しかし、その間に冨士神社の神主だった前山左兵衛が亡くなってしまい、後を継いだ嫡子がまだ幼かったこともあり、復旧願いを出すのが遅くなった結果、神社の敷地にどんどん屋敷が建ってしまい、戻すに戻せなくなってしまったのだった。
 富士塚と小さな社だけは残っていたようなのだけど、それも津田氏の屋敷内に取り込まれてしまった。
 巾下に移された冨士神社はそのままそこで定着することとなり、現在は冨士浅間神社(浅間1/地図)となっている。
 元地にあった冨士神社は、寛政十二年(1800年)にどうにか復活を果たした。

『愛知縣神社名鑑』は明治以降のことについてこう書いている。
「明治5年、村社に列格する。明治14年から25年にかけて氏子総代の尽力で境内拡張を進め四百五坪に拡幅し社殿も改造新築された神厳を増す。明治40年10月26日、供進指定社となる。昭和20年5月の空襲により社殿全てを焼失したが昭和35年に社殿を造営、その後斎館も新築成り、都心の鎮守として崇敬をあつめている」

 都心の幹線道路である桜通沿いという一等地にありながらこれだけの境内を持っているのは立派だ。同じ通り沿いにある桜天神社地図)よりもずっと広い。
 何故か神明鳥居と神明造になっているのだけど、その理由は不明だ。名古屋の神社は建築様式へのこだわりがないというか意識が低いように思える。
 いつ取り壊してしまったのか、富士塚は残っていない。

 桜通の地名の由来は桜天神に大きな桜の古木があったことから来ている。現在、桜はすでになく、イチョウ並木の名所となっている。
 東桜の地名は、桜通が東西に通っているからというのだけど、それをいうなら桜通の南だから南桜だったんじゃないだろうか。
 江戸時代、このあたりは冨士塚町と呼ばれていた。近くには駿河町などもあり、それらの地名はこの冨士権現から来ていた。

 一時的な避難的措置だったはずが戻ってこなくてこの地の住人たちは焦っただろう。怒った人もいたはずだ。
 けど、時間はかかったにせよなんとか復活して、両社ともに存続できたのはよかった。冨士神社は指定村社に、冨士浅間神社は郷社にまでなった。
 名古屋市内には他にも何社か冨士神社や浅間神社がある。ただ、どこも富士塚は残っていないのではないか。尾張の富士講事情はどうなっていたのだろう。
 そのあたりを少し調べてみる必要がありそうだ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

松や杉ではなく今はビルに囲まれる東桜の冨士神社

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