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冨士神社(東桜)

仮引っ越しから戻ってこなかったので建て直した

東桜冨士神社

読み方 ふじ-じんじゃ(ひがしさくら)
所在地 名古屋市東区東桜1丁目4-12 地図
創建年 1398年(室町時代前中期)
旧社格・等級等 指定村社・十等級
祭神 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやびめのみこと)
アクセス 地下鉄桜通線「高岳駅」から徒歩約3分
地下鉄名城線/桜通線「久屋大通駅」から徒歩約9分
駐車場 なし
その他 例祭 5月11日
オススメ度

 創建は室町時代前中期の1398年という。
 社伝によると、この地の郷士(下層の武士)の前山源太夫という人物が駿河国の大宮に出向いて分霊を受けて勧請したのが始まりという。
 駿河の大宮といえば現在の富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ/web)のことだと思うのだけど、冨士神社の「冨」は「ウかんむり」ではなく「ワかんむり」なのが少し気になる。富士山本宮浅間大社などは「ウかんむり」なのに対し、山梨県の北口本宮冨士浅間神社(web)などは「ワかんむり」となっている。各地の冨士浅間神社も冨と富が混在している。
 富と冨の違いについては後付けと思える説がいろいろあるけど実際のところは明確な区別はないようだ。
 もともとは浅間大神(あさまおおかみ)を祀るという意識だったのではないかと思うのだけど、『尾張志』(1844年)に木花開耶姫尊を祭るとあるから、少なくとも江戸時代後期には淺間大神と木花開耶姫は同一視されていたのだろう。
 その頃このあたりは山口の前山と呼ばれていた。前山源太夫がいたから前山だったのか、前山という地名から前山を名乗ったのか。
 当初は四町四方(または二町四方)という広大な境内を持ち、杉や松の老木が生い茂る神域と呼ぶにふさわしい風景が広がっていたという。今は都会のど真ん中となっているから想像できない。
 天正十年(1582年)の7月1日に徳川家康が参詣したという記録が残っているようだ。
 1582年の6月2日(新暦では6月21日)に本能寺の変が起こり、京にいた家康は伊賀越えをして命からがら故郷の三河に逃げ戻っている。それが6月4日だ。
 7月1日に参詣したということは、6月27日に開かれた清洲城(web)での清洲会議に参加した帰り道に立ち寄ったということだろうか。
 当然のことながらこのときはまだ名古屋城(web)は築城されていない。那古野城の跡はどんなふうになっていたのだろうか。

 冨士神社に転機が訪れたのが名古屋城築城のときだった。1610年のことだ。
 この場所に浅野幸長(浅野長政の長男で紀州藩初代藩主)の普請小屋が作られることとなり、神社は名古屋城西の巾下に移されることになった。
 これは一時的な遷座で、名古屋城築城が終わったら元の場所に戻すことになっていたらしい。
 しかし、その間に冨士神社の神主だった前山左兵衛が亡くなってしまい、後を継いだ嫡子がまだ幼かったこともあり、復旧願いを出すのが遅くなった結果、神社の敷地にどんどん屋敷が建ってしまい、戻すに戻せなくなってしまったのだった。
 富士塚と小さな社だけは残っていたようなのだけど、それも津田氏の屋敷内に取り込まれてしまった。
 巾下に移された冨士神社はそのままそこで定着することとなり、現在は冨士浅間神社/地図)となっている。
 元地にあった冨士神社は、寛政十二年(1800年)に津田氏の屋敷から出して独立させたという。

 以上は『尾張志』や『尾張名所図会』(1844年)などに書かれていることなのだけど、『愛知縣神社名鑑』はこんなふうに書いている。
「社伝に、応永五年(1398)六月、前山源大夫、冨士大宮の浅間神社により分霊をうけ創建するという。天正十年(1582)七月、徳川家康参詣あって神主前山五郎左ヱ門方に休息し四町四面の前山一帯を下付された。慶長遷府と共に周辺は武家屋敷となり境内狭くなる」
 ここでは名古屋城築城のときに巾下に移したとは書かれておらず、名古屋城下になって周囲に屋敷が建ち並んで境内が狭くなったとあるだけだ。
 しかし、『尾張志』などの話の方が理にかなっているし説得力がある。冨士塚町と巾下の浅間社それぞれにそういう話が伝わっているというのであれば、そちらの方が事実だった可能性が高い。1800年代から見ると名古屋城築城は200年も前の話ではあるけど、こんな作り話をする必然性もない。
『尾張名陽図会』(高力猿猴庵 1756-1831年)はちょっと面白いことを書いている。
「相伝ふ、この地内の宮居を巾下にうつせし頃は何も無かりしが、折りふしその宮の跡に美女あらはる事しばしなり。これを思へば、年久しく住み給ひし所ゆゑに、むかしを忍ばしくおもしめされての神意ならんと、その後宮居をたつとかや」
 ここでいう美女というのは幽霊のたぐいだろう。それをコノハナサクヤヒメと見て、この場所が恋しくて出てきたのはきっと神意だから、あらためて社を建てようということになったというのだ。

『愛知縣神社名鑑』の記述で気になったのは、1582年に徳川家康が前山宅を訪れて四町四面の前山一帯を神官の前山五郎左ヱ門に与えたという点だ。
 1582年7月というと先ほども書いたように本能寺の変の後で、本能寺の変の前まで尾張国は信長の子の信忠の領国だった。信忠も本能寺の変で命を落としたため、清須会議を経て、信雄の所領となった。
 織田家の所領だった尾張国の土地を無関係の家康が勝手に神社に与えることなどできただろうかと考えると疑問だ。
 そもそもでいうと、おそらく清須会議のときだろうけど、家康はどうして前山宅に立ち寄ったのだろう。以前から懇意にしていたのか、たまたまだったのか、何か特別な用事でもあったのか。
 名古屋城築城の際に巾下に移されたということと関係があるのかないのか。

『愛知縣神社名鑑』は明治以降についてこう書いている。
「明治5年、村社に列格する。明治14年から25年にかけて氏子総代の尽力で境内拡張を進め四百五坪に拡幅し社殿も改造新築された神厳を増す。明治40年10月26日、供進指定社となる。昭和20年5月の空襲により社殿全てを焼失したが昭和35年に社殿を造営、その後斎館も新築成り、都心の鎮守として崇敬をあつめている」
 都心の幹線道路である桜通沿いという一等地にありながらこれだけの境内を持っているのは立派だ。同じ通り沿いにある桜天神社地図)よりもずっと広い。
 何故か神明鳥居と神明造になっているのだけど、その理由は不明だ。昭和35年に建て直したときのものだけど、意図があったのかこだわりがなかっただけなのか。
 富士塚は残っていないので取り壊してしまったか、空襲のときに壊れてしまっただろうか。

 一時的な避難措置だったはずが戻ってこなくてこの地の住人たちは焦っただろう。怒った人もいたはずだ。
 けど、時間はかかったにせよこうして復活して、両社ともに存続できたのはよかった。冨士神社は指定村社に、冨士浅間神社は郷社にまでなった。恨みっこなしで丸く収まったということでいいと思う。

 

作成日 2018.1.9(最終更新日 2019.9.24)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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