高牟神社

誰が何の神を祀った神社なのか

高牟神社境内と社殿

読み方 たかむ-じんじゃ
所在地 名古屋市千種区今池1-4-18 地図
創建年 伝131年頃(第13代成務天皇の時代)
社格等 式内社・郷社・五等級
祭神

高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
神皇産霊神(かみむすびのかみ)
応神天皇(誉田別尊/ほんだわけのみこと)

アクセス

・JR中央本線/地下鉄東山線「千種駅」から徒歩約5分
・駐車場 あり(無料/境内)

webサイト  
オススメ度 **

『延喜式神名帳』に尾張国愛智郡高牟神社、『尾張国内神名帳』に高牟久天神とある式内社に比定される神社。
 第13代成務天皇の時代(在位131年-190年)に創建され、第56代清和天皇(平安時代前期858年-876年)の勅命により応神天皇が配祀されたと伝えられる。
 室町時代中期の1441年以降、何度も社殿が造営、修復されたという記録が残る。江戸時代に入っても変わらず、尾張徳川藩が大切に守った。
 明治5年(1873年)、郷社に列格。県社に昇格が内定するも、第二次大戦の空襲で社殿が焼失。戦後に再建され、現在に至る。
 城山八幡宮山田天満宮とともに「恋の三社めぐり」のひとつとなっており、若い女性の参拝客も多い。
 境内にある古い井戸を古井(=恋)と掛けたものだ。
 このあたりの地名の元古井、古井ノ坂などは、この古井戸が由来になったという説がある。昔から名水としてよく知られていたという。

 高牟神社について簡単に紹介すると以上のようになる。ただ、それでは納得できないとなると話がややこしくなる。
 まず、どうして祭神がカミムスビ(神皇産霊神)とタカミムスビ(高皇産霊神)なのか、という点だ。
 ここから450メートルほど北に物部神社があり、物部氏の祖とされるウマシマジ(宇摩志麻遅命/可美真手命(うましまでのみこと))を祀っている(個人的にはそう考えていないけど)。この物部神社も神名帳にある式内社とされる。
『尾張名所図会』でも、物部神社と高牟神社は一枚の絵の中に一緒に描かれているくらい両社は近い。
 このあたりは尾張物部氏が本拠としていた場所で、高牟の牟は古代の武器の鉾(ほこ)のことで、高はその装飾語を意味し、物部氏が武器や農具などを納めた倉が神社になったというのが定説となっている。
 果たして本当だろうか?
『延喜式神名帳』には愛智郡高牟神社の他に、春部郡高牟神社も載っている。守山区瀬古にある高牟神社の他、春日井市の松原神社などが論社として挙がるもはっきりしない。ただ、離れた場所に2つの高牟神社があって、その両方が物部氏の武器庫を神社にしたということがあるだろうか。
『尾張志』でも「高牟」についての疑問を投げかけている。そもそも読み方もよく分からないとし、本國帳は「高牟久」とあるから高向から転じたものかもしれないとしつつ、地名か姓の可能性もあるのではないかと書いている。あるいは高牟は誤字なのではないかとも。

「牟」は古代武器の「鉾」のことである、というのは本当だろうか。
 鉾は金へんが付くから鉾なのであって、牟だけで「ホコ」とは読まないはずだし、武器の鉾の意味になるとも思えない。
 一般的に読み方としては「ム」や「ボウ」で、牛の字が入っているのは、もともと牛の鳴き声を意味する言葉として生まれたからだ。
 その他の意味としては、むさぼる、奪う、多い、大きい、大麦、兜などがある。
 鉾の異字としてはよく知られる矛盾の「矛」や、桙、戈、鋒、戟などがある。
 鉾というのは諸刃の剣で、長い柄が付いており、片手で握り、切るよりも突く武器だったとされる。両手に持って突く武器は槍として区別される。
 古代、大陸や朝鮮半島から入ってきたものがやがて祭祀用となっていったという経緯があり、どれほど武器として使われたのかは分からない。スサノオやヤマトタケルが剣で戦ったように、鉾は主力武器ではなかったのではないか。だとしたら、物部氏の武器の象徴が鉾というのは疑問に思える。祭祀用の鉾をしまっておくか奉納しておくための倉だったという説明ならまだ納得はいく。
 ちなみに、山車の上に飾る山鉾(やまぼこ)はこの鉾が元になっている。
 ついでに書くと、奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)には国宝に指定されている七支刀(しちしとう)が奉納されている。300年代後半、朝鮮半島では百済と高句麗が争っており、日本(倭国)は百済の側について戦った。その同盟の証として百済から日本に贈られたのが七支刀だった。
 鉾に似た形状をしており、左右から三本ずつ枝分かれした刃先が付いているという珍しい形をしている。もちろん、武器として使うものではない。
 石上神宮で祀られているのは布都御魂剣(ふつみた まのつるぎ)だ。タケミカヅチ(建御雷神)がこの剣を使って地上(葦原中国/あしはらのなかつくに)を平定し、神武天皇がピンチに陥ったとき、タカクラジ(高倉下)が神武天皇に授けたところ戦に勝利し、ウマシマジが宮中で祀っていたものをのちに石上神宮に納めて御神体とした。もともとニギハヤヒが持っていた十種の神宝の中のひとつともいわれる。
 ニギハヤヒは物部氏の祖神、ウマシマジはその息子で物部氏の祖とされる。高倉下は文字通り高い倉の下の神のこととすると、もう少しで高牟神社と物部氏がつながりそうだ。
 熱田神宮摂社の高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)で祀られているのがこの高倉下命だ。

『尾張志』では祭神をタカミムスビとしていて、カミムスビにつていは触れていない。
 天地開びゃくのとき、最初に現れたのが天之御中主神(あめのみなかぬし)で、次にタカミムスビとカミムスビが現れたとされる。
 この三柱の神は造化三神と呼ばれ、人間界からは姿が見えない独神(ひとりがみ)とされる。性別はないとされつつも、タカミムスビは女神の性質を持っていて、カミムスビと一対として祀られることもある。
 天孫降臨の場面ではアマテラスよりも優位に立って指導していることから、アマテラス以前に皇祖神とされていたのはタカミムスビだったのではないかという説もある。
 物部氏の武器庫にどうしてタカミムスビを祀ったのかが謎だ。タカミムスビは、すべての結びを司る創造の神で、軍神の性格は持っていない。カミムスビもそうだ。物部氏と深い関わりがあったとも思えないし、そもそも氏神になるような神ではない。どちらかというと皇室とのゆかりが深い。
 物部氏の祖ウマシマジを物部神社で祀ったというのは分かる。高牟神社と物部神社の創建時期が分からないのだけど、両社に関係があったとして、高牟神社は実際のところ何の神を祀るどんな神社だったのだろうか。
 愛知県尾張旭市に山田郡総鎮守とされた渋川神社がある。そこでタカミムスビを祀っている。第12代景行天皇の時代に創建されたとされる古い神社だ。高牟神社の創建が第13代成務天皇とされるから、その父親の代ということになる。
 渋川神社は天武天皇時代(676年)に斎田(新嘗祭に使用する新穀を作る田)が作られたということからも農耕の神といった色合いが濃く、物部氏や尾張氏の影は感じられない。それが本来、タカミムスビ、カミムスビを祀る神社の姿だったのではないか。
 話は飛ぶけど、福岡県久留米市に高牟礼山(たかむれやま)がある。今は高良山(こうらさん)と呼ばれ、筑後国一宮の高良大社(こうらたいしゃ)では高良玉垂命(コウラタマタレ)を祀っている。
 もともと高牟礼山には高木神(タカミムスビの別名とされる)がいて、コウラタマタレが一夜だけ借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、コウラタマタレが結界を張って居座ったため高木神は戻れなくなり、仕方なく郷の高樹神社に鎮座することになったというお話がある。
 高牟神社の高牟はここからきているという可能性はないだろうか。
『本國神名帳』にある高牟久の「久」は何を意味するのか。

 高牟神社で祀られている神が何にせよ、古くからある神社で、神名帳に載っている高牟神社であることは間違いないと思われる。物部氏がこのあたりに拠点を置いていたというのも本当だろう。かつてはたくさんの物部神社があったとされている。いつしかそれらは廃絶されたり合祀されたりして姿を消した。
 物部氏の祖神のニギハヤヒは、北九州に天下って大和国に移ったという説がある。ニニギよりも先に、神武天皇よりも前に大和入りしたとされ、早い段階で有力豪族となっていったと考えられている。
 尾張における物部氏はその中の一派だったのだろう。尾張氏よりも先に尾張に住みつき、この地を支配したのではないか。あるいは、その頃は物部氏と尾張氏は争わず上手く棲み分けができていたと言った方がいいだろうか。
 成務天皇の実在を仮定すると、300年代半ばくらいではないかという。この時代に高牟神社もしくはその原型が創建されたとすれば、かなり早い時期だ。
 この頃、尾張氏の本拠は大高にあったと思われる。のちに氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)が創建されるあたりだ。熱田に進出するのはもう少し先だ。
 尾張氏が全盛期を迎えるのが継体天皇の妃として尾張連草香の娘・目子媛を嫁がせた頃だ。継体天皇の在位が507年-531年とされていて、ちょうどこの頃に物部氏のものとされる味鋺古墳群や味美古墳郡が築かれている。
 物部氏の痕跡は名古屋市千種区よりも、北区味鋺や春日井市味美の方がずっと色濃い。
 それはつまり、大高から熱田、大須へと北上して勢力を伸ばす尾張氏に対抗しきれず北へ逃れて、味鋺、味美あたりを第二の拠点にしたことを意味するのではないか。
 だとすれば、ある意味で高牟神社や物部神社は物部氏が捨てた—というと言葉が悪いけど—去った跡という言い方ができるかもしれない。
 祭神がカミムスビ、タカミムスビというのは後付けで、本来は別の神を祀っていたのかもしれない。物部氏祖神のニギハヤヒとか。
 中央の都では、500年代の後半に物部氏は蘇我氏との政争に敗れ、以降没落していくことになる。その影響が尾張まで及ばなかったとは考えにくい。
 ただし、尾張氏と物部氏は必ずしも敵対関係ではないと思われる。元を辿れば同族といえるような間柄だ。尾張氏が物部氏を飲み込んだという理解の方が正しいだろうか。

 平安時代前期の第56代清和天皇の時代(858年-876年)に、勅命で応神天皇(ホムタワケ)が配祀されたということをどう捉えればいいだろうか。
 のちに武家の神となる応神天皇も、平安時代前期となると戦の神といえたかどうか。
 どういう意図と理由で応神天皇を祀るように清和天皇が命じたのかは分からない。
 清和天皇はこれといった業績もなく、影の薄い天皇だ。兄が3人いたにもかかわず9歳で即位して、27歳で突然9歳の息子(のちの陽成天皇)に譲位して、自分は仏門に入り、寺めぐりの旅に出てしまった。後世に知られるのは、応天門炎上事件くらいだろうか。
 このことがあって江戸時代は八幡宮と称していたという。
 式内社とされたのは明治はじめのことだ。

 高牟神社というのは意外に分からない神社というのが個人的な印象だ。
 創建したのが本当に物部氏だったのかどうか。このあたりを物部氏が支配していたからといって神社を創建したのが物部氏だとは言い切れない。
 そもそもの祭神がタカミムスビだったというのであれば、もっと素朴な信仰から生まれたものだったのかもしれない。どう考えても物部氏の武器倉庫とタカミムスビはつながるような気がしない。
 高牟神社、高牟礼山、高牟久、タカミムスビ、鉾、布都御魂剣、高倉下、石上神宮、物部氏、ニギハヤヒ、ウマシマジ……。
 もう少しでつながりそうな気がするのだけど、まだ全容は見えない。今後の課題、宿題としたい。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

恋の三社めぐりと高牟神社

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