誰が何の神を祀った神社なのか | |
読み方 | たかむ-じんじゃ(いまいけ) |
所在地 | 名古屋市千種区今池1-4-18 地図 |
創建年 | 不明(伝・成務天皇時代) |
旧社格・等級等 | 郷社・五等級・式内社 |
祭神 | 高皇産霊神(たかみむすびのかみ) 神皇産霊神(かみむすびのかみ) 應神天皇(おうじんてんのう) |
アクセス | JR中央本線/地下鉄東山線「千種駅」から徒歩約5分 駐車場 あり(境内) |
電話番号 | 052-731-2900 |
その他 | 例祭 10月14日 授与所 各種祈祷 神紋:橘(菊座橘) |
オススメ度 | ** |
『延喜式』神名帳(927年)の尾張国愛智郡高牟神社、『尾張国内神名帳』の高牟久天神とされている。 本当だろうか? 『尾張志』(1844年)や『張州府志』(1752年)、『尾張名所図会』(1844年)などは古井村の八幡が『延喜式』神名帳の高牟神社だといい、津田正生などは違うといっている。 社伝は第13代成務天皇時代に創建されて、第56代清和天皇(在位858-576年)の勅命によって応神天皇が配祀されたとする。 江戸期の書では祭神は高皇産霊神とし、現在は高皇産霊神・神皇産霊神、應神天皇となっている。 江戸時代は古井村の八幡社だったのは間違いない。『延喜式』神名帳の高牟神社とされたのは明治元年(1868年)のことだ。 江戸時代前期の古井村には八幡と山神があり、どちらも前々除となっていることから1608年の備前検地以前からあったことが『寛文村々覚書』(1670年)から分かる。古井村祢宜の杢左衛門持分となっている。 『尾張名所図会』はこう書く。 「古井村にあり。成務天皇の御宇(ぎょう)の鎮座なり。【延喜式】に高牟神社、【本国帳】に従三位高牟天神とあるは此社にて、俗に古井八幡と稱す。 本社 祭神高產霊尊。 清和天皇の勅によりて、應神天皇を合祭れり。毎年正月元日寅の刻より辰の刻まで開扉あり。御正體は船に乗り給へる神像なり。故に船出八幡とも稱す。寛永十一年、山下大和氏勝修復を加へたり。 神寶 辨慶が書写せしといひ傳へたる大般若経五十巻あり」 船に乗る姿の神像が御神体になっているとある。これを應神天皇としていたようで、元日の午前3時から午前9時の間、開帳していたらしい。 寛永11年は江戸時代前期の1634年に当たる。山下氏勝は飛騨白川郷の生まれで、徳川家康に仕えて小田原の役などで活躍し、その後、名古屋城初代藩主となる家康九男の義直の守り役を命じられ、尾張藩士となった人物だ。義直に清洲越しを進言したのが山下氏勝だともいわれている。 『尾張志』は社伝を紹介しつつ、まず高牟の読み方がよく分からないと疑問を呈している。続けて、『国内神名帳』に高牟久(タカムク)とあることからすると本来は高向で、これは地名か姓から来ているのではないかと思うけれど、このあたりに高向という地名はなく、氏神を祀ったとしたら高皇産霊ということはあり得ないだろうから、高牟は誤字なのではないかといっている。 津田正生や瀧川弘美は、郡域の点から古井村の八幡を『延喜式』神名帳の愛智郡高牟神社と認めていない。 彼らのいうには、旧の山田郡と愛智郡の郡境は名古屋城下から飯田街道(今の53号)あたりで、その北の古井村も八事も平針も山田郡だったというのだ。もし実際にそうであったら、古井村の八幡は”愛智郡”高牟神社ではあり得ないということになる。 高牟神社の少し北に物部神社があり、そこも『延喜式』神名帳の愛智郡物部神社とされているのだけど、その区域も旧山田郡なら愛智郡物部神社ではない。 津田正生の考えでは、愛智郡物部神社は御器所八幡宮で、高牟神社は八事村の神明社にある天神社(現在のどの神社かは不明)ということになる。 『尾張国神社考』の中でこう書いている。 「(愛智郡高牟神社は)集説本に古井村八幡宮といへるは誤也。古井は舊は山田郡なるべし。且又一村のうちに式社を二社まで引當たるも心得かたき事也 【正生考】八事村の神明社は氏神なるよし府志に見えたり。此摂社の中に天神と呼ぶ社、疑らくは高向天神にあらね歟。八事は借字にて石田の約(つづま)れるなり。夫木抄、方角抄等に石田とあるは、八事村にて當れる也」 『特選神名牒』(とくせんじんみょうちょう/『延喜式』神名帳の注釈書)はこう書く。 「今按社傳祭神應神天皇一座とし又高皇産霊神神皇産霊神應神天皇とありこの高皇産霊神は社號の高牟と云によりて云出たる説なるべければ信じがたし其は國内神名帳に高牟久天神とあれば高皇産霊神に非ること明けし高産霊神に産霊神を並べ擧たるにて意義なしかくて思ふに高牟久はこむくにて高牟をこむくとよみしなるべく書紀に應神天皇の皇女澇來田(コムクタ)皇女とあるを古事記に高目郎女(コムク)とあるに由ありて應神天皇を祭りし社なるを高牟と云によりて後人の産霊神二座を祭る由云そめつるなるべし故今應神天皇を云ふ説によりて記せり」 『愛知縣神社名鑑』はこうなっている。 「古くは八幡宮と号し、俗に古井の八幡と称した。『延喜式神名帳』に愛知郡高牟神社とあり、『国内神名帳』に高牟久天神とある。第十三代成務天皇の代に鎮座する。清和天皇の貞観年中(859-877)造営の時勅により、應神天皇を配祀した。嘉吉元年(1441)、寛正二年(1461)十一月、天文元年(1532)九月、永享八年(1565)五月、慶長八年(1603)十一月に改造し、寛永十一年(1634)正月、山下大和守氏勝修造、天和三年(1683)九月、尾張藩主光義(ママ)修復以来城南の鎮護として崇敬あり。絶えず修造料の寄進あり元禄十一年(1689)五月、宝永六年(1709)十二月、享保七年(1722)四月、寛保元年(1741)四月、寛延四年(1751)九月、宝暦八年(1758)八月、天明六年(1786)八月、弘化四年(1847)二月修造あり。明治初年式内に治定し明治5年5月郷社に列格する(名古屋市史)昭和19年県社昇格内定、昭和20年3月25日の空襲により社殿炎上せしも御神体は無事仮殿に奉安す。昭和24年第一期工事から第十二期まで復興工事により立派に完成する」 以上の情報を踏まえた上で少し考察してみる。 まず、郡域、郡境についていうと、これはなかなか微妙で悩ましい問題で断定するのは難しい。これまで数百年の間、多くの人たちが考え、説を出し、議論してきて定説に到っていないので、ここでも保留とするしかない。 飯田街道あたりより北は山田郡だったというのは確かにあり得る話で、個人的には賛同したいとも思っている。愛知郡物部神社が御器所八幡宮だという説は魅力的だ。 ただ、郡域、郡境は律令時代と平安時代中期では変わっている可能性があることを留意しておく必要がある。 『延喜式』(927年)と同時代に編まれた漢和辞典の和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう/931-938年)を見ると、愛智郡には中村・千電・日部・大毛(太毛)・物部・厚田・作良・成海(奈留美)・駅家・神戸の8つの郷があると書かれている。山田郡は9郷で、主恵・石作・志談・小口・加世・両村・余戸・神戸・駅家となっている。 今も残る地名もあるのだけど、そうではない郷についてはどこのことを指しているのか不明な点も多い。写本によって表記が違ったり郷が抜けていたりするので、そういう部分での問題もある。 古井村は古代、物部郷古井村といっていたというのだけど、実際のところ物部郷がどこにあったのかははっきりしない。津田正生は御器所のあたりだといっており、それが御器所八幡宮を物部神社とするひとつの根拠としている。 古井村の由来について、通説では高牟神社にある古い井戸から来ているとされることが多いのだけど、ここでも津田正生はそれを否定する。 古井村は本来、小井村で、それは飲料水としての井戸ではなく農地の灌漑用に掘られた溜め池のことだという。確かに、古い井戸が村名にまでなるとは考えづらく、古井戸から来ているというのは俗説に思える。 次に祭神と社名について考えてみる。 高皇産霊神(タカミムスビ)は日本神話によると、造化三神のうちの一柱で、天地開びゃくのとき、天之御中主神(あめのみなかぬし)に続いて高皇産霊神と神皇産霊神が現れたとしている。 タカミムスビは男神で、カミムスビは女神とされることがあり、一対で祀られることもある。 ニニギの天孫降臨の場面では天照大神(アマテラス)よりも優位に立って指導していることから、アマテラス以前に皇祖神とされていたのはタカミムスビだったのではないかという説もある(本文と一書で違っている)。 高牟神社は物部氏の武器庫の跡に建てられたという言い伝えがある。 高牟神社の牟は古代の武器の鉾(ほこ)のことで高は美称だというのが通説として語られている。 物部郷と呼ばれていたということから来ているのだろうけど、これもにわかには信じがたい。 まず、物部郷が本当に古代豪族の物部氏が拠点とした場所とは限らないということを確認しておきたい。 物部氏は古代の有力豪族筆頭のような存在で、尾張にも勢力を拡げていたことは考えられる。物部氏の拠点だったのが色濃いのが北区味鋺から春日井市味美にかけてのエリアで、味美二子山古墳(96メートルの前方後円墳)を初め、百基以上の古墳が築かれた。 北区の味鋺神社はウマシマジを祭神としており、式内社である可能性が非常に高い数少ない神社だ。 味美二子山古墳にはかつて物部神社が祀られていた。 それに対して、古井村一帯からは大型の古墳や遺跡、遺物のたぐいは見つかっていない。近隣では、ここから東の城山や東明町あたりで縄文時代の遺物が見つかっている他、城山の北には5基の円墳があった。 地形でいうと、西の名古屋台地とは谷を挟んだ千種台上で、古代においても海からも川からも遠い。 物部氏の拠点だったというには痕跡が少なすぎるのが引っかかる。 高牟の牟は鉾から来ているというのも無理がある。鉾は金へんだから鉾なのであって、牟だけだと「ム」や「ボウ」と読み、牛の鳴き声を意味する言葉となる。その他の意味としては、むさぼる、奪う、多い、大きい、大麦、兜などがある。 鉾というのは諸刃の剣のことで、長い柄が付いており、片手で握り、切るよりも突く武器だったとされる。両手に持って突く武器は槍として区別される。 古代、大陸や朝鮮半島から入ってきたものがやがて祭祀用となっていったといわれている。 『特選神名牒』がいうように、『国内神名帳』で高牟久天神といっていることから本来は「タカムク」だったのではないかというのは妥当な推理で、高皇産霊神を祭神としたのは後付けという説は私も賛同する。 牟久(むく)は椋の木(ムクノキ)の別称で、ムクノキは生長が早く高木となることから大木を神聖視して高木神として祀ったのが始まりだったかもしれない。高木神は高皇産霊神の別名とされるので、高木神から高皇産霊神に転じたとも考えられる。 成務天皇時代に創建されたということについてもすんなり納得できる話ではない。 『日本書紀』によると在位は131-190年となるのだけど、こんな時代に天皇(大王)がいたかどうか。 一般的には第10代天皇の崇神天皇が実在した最初の大王という説が有力視されている(これも個人的には信じていないのだけど)。 纒向(まきむく/奈良県桜井市三輪山の北西)でヤマト王権が誕生したとすれば、それは3世紀後半から4世紀前半にかけてのことだろう。 成務天皇は第13代で、父は第12代の景行天皇、日本武尊(ヤマトタケル)の異母弟に当たる。 その実在性を疑う説も根強いのだけど、実在したとすれば4世紀半ばから後半にかけてだろうか。ヤマトタケルの東征物語の少し後といっていいかと思う。 その時代に社殿を伴う神社を建てたかといえばそれはまずあり得ない。創建ではなく創祀であったとしても、ではどういう勢力がこの地にいて、どういう神を祀ったのが始まりだったかということになる。 先ほども書いたようにこのあたりに遺跡や古墳が存在しないというのが弱い。古墳時代後期から鎌倉時代にかけて千種区東山から名東区にかけて多くの窯が築かれたというのはあるのだけど、古井村のこのあたりは平地で東山古窯のエリアから外れている。 ただ、何の根拠もなく成務天皇時代創建という話が伝わるとも思えないから、その伝承の元になった何かがあったには違いない。 第56代清和天皇のときに勅命で應神天皇が配祀されたというのも唐突な話だ。 清和天皇の在位は858年から876年なので、平安時代前期に当たる。 第15代応神天皇は早くから八幡神と同一視されていた。神仏習合していた平安時代に応神天皇を祀るとしたことは必ずしも不自然なことではないとはいえ、鎌倉時代以降のような武神という認識があったかどうか。 あわせ祀ったというのが本当であれば、このときすでにこの神社の元になった社があったということにはなる。それが『延喜式』神名帳の愛智郡高牟神社かどうかはまた別の話だ。 しかし、どうしてここで清和天皇の名前が出てくるのかも不思議だ。清和天皇はこれといった業績もなく、影の薄い天皇だ。兄が3人いたにもかかわず9歳で即位して、27歳で突然9歳の息子(のちの陽成天皇)に譲位して、自分は仏門に入り、寺めぐりの旅に出てしまった。後世に知られるのは、応天門炎上事件くらいだろうか。 清和天皇が応神天皇を祀るように命じたというのは作られた伝承としては不自然なだけにかえって真実味がある。その時点でのこの神社はどういった神を祀るどういった性格の神社だったのか。応神天皇を祀る神社をあらたに建てるのではなく、すでにある神社にあわせて祀るように命じたとしたら、そこには何らかの意図や理由があったに違いない。それがどういうことだったのかを推測するのは難しい。 修造の記録として一番古いものは1441年というから、室町時代中期にはすでにあったことは確かなのだろう。その頃はすでに八幡社だっただろうか。 『延喜式』神名帳には愛智郡高牟神社の他に春日部郡高牟神社も載っている。 ただ、この高牟神社は『国内神名帳』には従三位高見天神とあるから、名前は同じでも別系統の神社と見るべきかもしれない。 春日部郡高牟神社については守山区の高牟神社(瀬古)のページで書いた。 ついでに少し付け加えておくと、福岡県久留米市に高牟礼山(たかむれやま)がある。今は高良山(こうらさん)と呼ばれ、筑後国一宮の高良大社(こうらたいしゃ/web)で高良玉垂命(コウラタマタレ)を祀っている。 もともと高牟礼山には高木神がいて、コウラタマタレが一夜だけ借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、コウラタマタレが結界を張って居座ったため高木神は戻れなくなり、仕方なく郷の高樹神社に鎮座することになったという話がある。 高牟神社の高牟はここからきているという可能性はないだろうかと考えたことがある。高樹神社はかつて高牟礼権現と称し、現在は高皇産霊神を祀るとしている。 現・高牟神社が『延喜式』神名帳の愛智郡高牟神社かどうかを別にすると、ここはいい神社だと思うし個人的には好きだ。ギラギラしていいないけど人気のある神社で、日常的に訪れる人も多い。 境内にある井戸水は昔から名水といわれ、近所の人たちがよく井戸水を汲みに来ている。 古井村の「こい」と「恋」を引っかけて城山八幡宮(連理木)、山田天満宮(男女道祖神)とともに「恋の三社めぐり」のひとつとなっており、若い女性の参拝客もよく訪れる(もともとは地元の女子高生たちが発案したものだ)。 現・高牟神社は『延喜式』神名帳の愛智郡高牟神社で間違いないかと問われれば、即答はできない。可能性としてはどちらもあり得る。ここがそうかもしれないし、津田正生がいうように八事村の天神かもしれない。あるいは、古い時代にすでに失われて現存していないとも考えられる。 あとはそれぞれに判断を委ねるしかない。 作成日 2017.3.2(最終更新日 2020.8.26) | |
ブログ記事(現身日和【うつせみびより】) 恋の三社めぐりと高牟神社 | |