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熱田社(宝神町敷地)

神宮寺新田の八劔社=熱田社?

宝神町敷地熱田社

読み方 あつた-しゃ(ほうじんちょう-しきち)
所在地 名古屋市港区宝神町敷地759 地図
創建年 1817年(江戸時代後期)
旧社格・等級等 無格社・十四等級
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
須佐之男命(すさのおのみこと)
倭武命(やまとたけるのみこと)
宮簀媛命(みやすひめのみこと)
アクセス あおなみ線「荒子川公園駅」から徒歩約46分
駐車場 なし
その他 例祭 10月8日
オススメ度

 宝神町にあるふたつの熱田社のうちの一社。
 こちらは北の宝神町敷地で、かつて神宮寺新田だったところだ。
 南の熱田社地図)は宝神町会所裏で、かつて宝来新田だったところに当たる。
『尾張志』(1844年)では、宝来新田に「八劔稲荷相殿ノ社あり」とあり、神宮寺新田に「八劔ノ社弁才天水天宮相殿社あり」とある。
 どちらも八劔社から熱田社になり、現在の会所の裏の熱田社からは稲荷社が消え、敷地の熱田社からは弁才天と水天宮が消えている。どうしてそういうことになったのかよく分からない。『尾張志』にある八劔社と今の熱田社は別の神社なのだろうか。

 敷地の熱田社の祭神は天照大御神、須佐之男命、倭武命、宮簀媛命で、会所裏の熱田社祭神は天照皇大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命となっている。
 表記は違うものの基本的には現在の熱田神宮(web)の祭神にならっている。敷地の熱田社で抜けた建稲種命は神社の由緒書きにはあるから、『愛知県神社名鑑』の書き落としかもしれない。
 由緒書きでは秋葉三尺坊大権現も祭神に入っているから、どこかで秋葉社を合祀したようだ。

『愛知県神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「社伝に当新田の開発は文化十四丁丑年(1817)で、村内の安全を祈って同年九月に奉斎した。明治12年9月、据置公許となる。昭和34年9月、伊勢湾台風により社殿被災したが氏子の熱意により復興した。昭和60年9月5日、土地整理組合より土地55坪(港区神宮寺2丁目302番地)と建物二階建41坪を寄進された」

 平成2年(1990年)に建てられた境内の由緒碑には、嘉永五年(1852年)、明治10年、明治23年、大正2年、昭和8年、昭和38年の6回の遷座が行われ、東南海地震、三河地震、太平洋戦争の空襲、伊勢湾台風の災害、戦災にはほとんど被害を免れたとある。
『愛知県神社名鑑』は名古屋南部の神社はどこも伊勢湾台風の被害を受けたとしているけど定型文にように書いているだけなので、神社の由緒の方が正確だろう。
 それにしても、これだけの災害をかいくぐって無事だった神社というのは相当強運といえる。
 現在の社殿は平成2年に鉄筋コンクリートで再建されたものだ。

 神宮寺新田開発が行われた1817年(文化14年)は、隣の山藤・元美新田の開発と同じ年に当たる。このあたりを一気に干拓で陸地化したということだ。
 宝来新田は5年後の1822年に開発されている。
 神宮寺新田の神宮寺は、熱田の神宮寺の名前を出した方が藩の許可を得やすかったためで、一種の名義貸しだ。熱田社の神宮寺は愛染院、不動院、医王院だった。
 複数人が共同で開発したようで、天保二年(1831年)の検地帳には、神宮寺、山田弾六、藤川屋九郎助、長須賀村・初蔵、永楽屋伝右衛門の名が見られる。
 戸田村の庄屋だった山田弾六が中心人物で、宝来新田や山藤・元美新田にも関わっている。
 新田開発のために熱田の神宮寺の名前を使ったので、熱田社系の神社を祀ったのは必然だ。それが八劔社だったのか熱田社だったのかはやはり気になるところで、その違いは小さくない。

 明治9年(明治11年とも)に、神宮寺新田、宝来新田、山藤新田、元美新田は合併して宝神新田となった。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、現在の場所にすでに鳥居マークがある。庄内川左岸の堤防沿いで、集落の西端に当たる。
 ただ、1932年(昭和7年)の地図では鳥居マークが北に移動し、辯天寺(べんてんじ)の中に取り込まれる格好になっている。実際に寺の境内に移されたのだろうか。
 辯天寺はは大正14年(1925年)に創建された真言宗智山派の寺で、琵琶湖の竹生島宝巌寺(web)の名古屋別院だ。
 本尊の辯才天像は彦根藩主の井伊家が竹生島に明治はじめに奉納したものという(1月1日から7日に開帳)。
 名古屋三弘法( 如意山寶珠院・ 宝生山辮天寺・臨江山善光寺)の第二番で、なごや七福神、名古屋二十一大師12番札所でもある。
 建立当時は広い池に囲まれていたのが、昭和34年の伊勢湾台風で被害を受けて縮小した。
 戦後の1947年(昭和22年)の地図から鳥居マークは元の位置に戻っている。
 ちなみに、西に隣接する慈光寺(じこうじ)は安政元年(1854年)に永徳新田に創建された浄土宗の寺で、慶応3年(1867年)に現在地に移された。
 神社北の多加良浦町(たからうらちょう)は宝来新田の「宝」を「多加良」としたもので、昭和17年に惟信町の一部より成立した。
 大正から昭和初期にかけて
多加良浦海水浴場があったことはもうほぼ忘れられているだろうか。水が濁って人気が落ちて、昭和30年頃に自然消滅した。

 栄枯盛衰というとちょっと大げさだけど、町にしても家にしても神社にしても、いいときがあれば悪いときもあり、繁栄の後には没落が待っていることも少なくない。かつてのこのあたりの田畑を牛耳っていた家は今はどうなっているのだろう。田畑自体はなくなっても、まだ大地主として続いているだろうか。
 いずれにしても時代は移り変わり、人も入れ替わり、町の風景も大きく変わって、神社だけが残った。

 

作成日 2018.7.14(最終更新日 2019.7.24)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

宝神町敷地の熱田社が神宮寺新田の八劔ノ社弁才天水天宮相殿社か

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