片山八幡神社

片山八幡社は式内社か否か

片山八幡神社社殿と境内

読み方 かたやま-はちまんじんじゃ
所在地 名古屋市東区徳川2-13-26 地図
創建年 伝511年(継体天皇時代)または伝1171年(平安時代末)
社格等  県社・六等級
祭神

誉田別命(ほだんわけのみこと/応神天皇)
天照大神(あまてらすおおみかみ)
菊理媛神(くくりひめのかみ)

アクセス

・名鉄瀬戸線「森下駅」から徒歩約5分。
・駐車場 あり(無料/境内)

webサイト  公式サイト
オススメ度 **

 式内論争、といったものがある。
 平安時代中期の927年にまとめられた律令に関する『延喜式』の中に「神名帳 (延喜式神名帳/えんぎしきじんみょうちょう)」があり、それに載っている神社は国が認めた公式のもので、歴史と格式のある神社ということになるから、そこに奉仕する神職をはじめとする神社関係者ならぜひとも式内社を名乗りたい気持ちは理解できる。「ミシュランガイド」で*をもらうようなものだ。
 しかし、長い年月の中で名前が変わったり、祭神が違うものになったり、場所が移ったり、災害に遭ったり、戦火で資料が焼けてしまったりで、神名帳に載っている神社を特定するのは難しい。場所と名称が合っていればその神社で間違いないとも言い切れない。まったく別の名前の神社だったものを、延喜式に載ってるのはうちのことに違いないと、延喜式にある名称に変えてしまうということがよくあるからだ。
 同じ東区にある片山神社と片山八幡神社も、どちらが山田郡片山神社なのか、その地位をめぐって長らく論争が続いてきた。
 ここに限らず、5社も6社も候補の神社(論社という)となっているものもある。
 現在は、片山神社が式内社を名乗り、片山八幡神社は引っ込む形になり名乗っていない。じゃあ、片山神社で決まりなんじゃないかというと、話はそう単純ではない。

 片山八幡神社の創建は社伝によると継体天皇5年の511年という。
 しかし、八幡社の起源とされる宇佐八幡(宇佐神宮)によれば、八幡神が初めて姿を現したのが571年で、神社の実質的な創建は721年というから、片山八幡神社の511年というのはちょっとない。
 もし511年創建というのであれば、そのときは八幡神社ではなかったということだ。
 もう一説の1171年創建というのが何を根拠としているのか分からないのだけど、それが正しいとすれば、927年の『延喜式』に載っているはずがない。
 かつては大曽根八幡(おおぞねはちまん)と称していたという。曽根(そね)というは砂地の低高地を意味する言葉で、それに類する地名が全国各地にある。川が氾濫して自然の堤防ができた土地といったものだ。
 東区のこのあたりは東から西へ流れる矢田川が進路を北へ変えて庄内川に合流するところで、大雨で川が氾濫しやすかったであろうことは容易に想像がつく。ただの曽根ではなく大曽根というくらいだから大規模な氾濫によってできた砂地だったと考えられる。大曽根の町の名前は、大曽根八幡から来ているという。
 片山というのは、片方の山、つまり片側が切り立った山のことだ。片山神社は名古屋台地の縁(へり)にあり、北側の斜面が切り立った崖になっているから、片山の地名を冠するのにふさわしい。
 ただ、片山神社の起源として、中世にある人が蔵王権現を自宅に勧請して祀っていたのが始まりという説があり、そうなると片山神社も式内社の候補から外れてしまうことになる。
『尾張国地名考』の中で津田正生は、瀧川弘美曰くとして次のように書いている。
「大曽根八幡の地是なり 宮地は往昔の山田郡片山天神にして 祭神大伴武日命 もとは大曽根の産神なりしに元禄中瑞龍院公の御時是は何の神かと御尋ありしに里人しらず候と答ふよりて吉見氏へ御尋ありければ傍題に八幡宮と申上しかば御造営ありて大曽根御屋敷乾方の守護神に祭り玉へり(中略)其後杉村の蔵王の社人片山の社号を拾ひて式内の神社とせるものは末世の人情憎むべし」
 それに対して津田正生はこう書く。
「瀧川氏蔵王の神主が片山の名を奪ひしとのみ心得て常に不快に思はれて強て大曽根を片山にせられしなるべし 片山神社は七尾永正寺の天神ならんもしるべからず」
 ふたりの言い分をまとめると、瀧川弘美は延喜式の山田郡片山神社は片山八幡社のことで、瑞龍君(尾張藩二代藩主光友)が荒れ果てた片山八幡社を見てこれは何の神を祀っているのかと尋ねたら里人は知らないと答え、吉見という人物に尋ねたら八幡だというので八幡ということになってしまったため、蔵王権現を祀っていた神社の人間が片山の名前を拾って式内社だと名乗っているのは憎むべしと言っている。
 津田正生はそれに対して、瀧川弘美は蔵王権現社の人間が片山の名前を拾ったので怒ってるけど、式内・片山神社は実は七尾神社のことなんだよと言っている。
 それぞれの言い分は分かったけど、本当のところは分からない。

 尾張国の郡の話をすると、このあたりは山田郡と春部郡(春日部郡)、愛知郡の境界が曖昧な場所で、片山神社や片山八幡神社を山田郡と考えていいのかどうかという問題もある。
 延喜式には「春部郡片山神社」も載っていて、それは小牧市の片山八幡社や白山社、春日井市の天神社が論社となっている。
 実は片山神社も片山八幡神社も、どちらも山田郡片山神社ではないという可能性だってある。
 山田郡片山郷にあるから片山神社と称するという話もあるのだけど、そうなると片山郷がどこからどこまでの範囲なのかが問題となる。
 片山神社を山田郡片山神社として、片山八幡神社を春部郡片山神社とすれば丸く収まるのだけど、そう上手くはいかないか。

 室町時代には広大な敷地を有していたそうだ。
 しかし、戦国時代にたびたび戦火で焼け、社殿や資料なども失われ、一時はひどく荒廃していたという。熱田神宮が世話をしていたこともあったそうだから、宮司すらいなくなっていたときがあったということだ。
 藩主の光友が、名古屋東照宮の神主だった吉見民部大輔に命じて、社殿を再建したのが1695年のことだ。
 アマテラスとククリヒメを本殿に合祀したのもこのときだ。
 社殿は光友にも馴染みのあった東京早稲田の穴八幡宮のものを模したとされる。近くには光友の江戸屋敷・戸山山荘(現在の戸山公園)があった。
 代々尾張徳川家に大事に守られ、明治5(1872年)に村社に列し、昭和4年(1929年)には県社に昇格した。
 昭和8年(1933年)、社殿を再建するも、昭和20年(1945年)の空襲で焼失。
 再建がなったのは昭和34年(1959年)のことだった。
 平成10年(1998年)にも大規模な修造が行われ現在に至っている。

 瑞龍みこしと呼ばれる男神輿・女神輿があり、10月19日の瑞龍祭(10月の第4日曜日)では大曽根界隈を神輿を担いで練り歩く。
 瑞龍というのは光友が死後に瑞龍院と呼ばれたところからきている。
 境内社の谷龍神社は光友の大曽根屋敷にあった姫子龍神社を移したもので、淤加美神(クラオカミ)を祀っている。これは水の神様だ。
 その他、宗像社、秋葉社、津島社、青麻社、金比羅社、愛宕社がある。

 その神社が式内社かそうでないかは参拝者にとってどうでもいいことといえばそうだし、重要といえば重要だ。式内社ということは平安時代には公式の神社として認められていたということだから、その意味は小さくない。
 とはいえ、それよりも実際にその神社に足を運んでみて、自分自身が何を感じるかが大切には違いない。式内社ではなくてもいい神社と思えばそれは自分にとっていい神社だし、式内社でもこれが本当にそうかと首をかしげたくなるようなところもある。
 神社関係者でもない一般人レベルでいえば、どれが式内社でどれが違うのか、ここは山田郡なのか春部郡なのか、などとあれこれ思いをめぐらせて推理して楽しんでいるくらいが平和でいいのかもしれない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

片山八幡神社は表と裏の顔があって光友で穴八幡ともつながる

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