式内社論争といったものがある。 平安時代中期の927年にまとめられた律令に関する施行細則、『延喜式』の中に「神名帳 」があり、それに載っている神社は平安時代に官社とされた神社で、一般的に格式が高いとされる。尾張国は121座121社が載っている。 その神社を式内社(延喜式内社)と呼び、他の神社とは一線を画す存在とされる。それゆえ、その神社の神職をはじめ関係者であればぜひとも式内社を名乗りたい気持ちになるのは理解できる。 しかし、確実に式内社と断定できる神社はごく少ない。長い歳月の中で名前が変わったり、祭神が違うものになったり、場所が移ったり、災害に遭ったり、戦火で資料が焼けてしまったりで、ほとんどの神社は創建当時の原形をとどめていない。 「神名帳」にあるのは神社名のみで、祭神も所在地も書かれていないことが特定を難しくしている。 うちがそうだ、いやうちだと複数社が名乗りを挙げていることも少なくなく、決めかねる場合はその神社を論社と呼んでいる。 式内社かどうかという論争は江戸時代に入って盛んになり、その頃まではすでに分からなくなっていた神社も多かった。 明治の神仏分離令を経て、あらためて神社の祭神や社名を決めることになったときに初めて式内社と定められたところがほとんどだ。江戸時代までは神仏習合していたので、本来とは別の社名になっていたところが多く、そういうところは式内社ということになってから「神名帳」にあわせて改称した。 同じ東区にある片山神社と片山八幡神社も、どちらが山田郡片山神社なのか、その地位をめぐって長らく論争が続いた。 現在は、片山神社が式内社を名乗り、片山八幡神社は引っ込む形で名乗っていない。では片山神社で決まりなんじゃないかというと、話はそう単純ではない。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「社伝に第二十六代継体天皇の五辛卯年に尾張国山田郡片山郷(現在の社地)に鎮座したという。元亀、天正の頃(1570-1591)続く戦国時代の禍をうけ頽廃し、祭事の鄭重を守って、一時熱田神宮に預けられたが、江戸徳川の世になり、元禄八年(1695)尾張二代藩主瑞龍公(光友)敬神の念あつく、社殿を荘厳に道営する。尓来名古屋鬼門の鎮護の祈願所として徳川氏より営繕を進められた。近在に神田、鈴田、社田、太鼓田、中供御、みくりや林などの字名あり往古は大社で式内社に相当の社と考えられる。明治5年、村社に列格し、明治41年10月26日、指定村社となる。昭和4年9月17日、県社に昇格し境内に大改造を行うも昭和20年4月、5月の空襲により境内林を始め社殿は悉く焼失した。昭和32年、隣接の神明社を合祀し社殿の復興造営34年竣工し、昭和49年社務所の建設成る。(大曽根八幡宮)」
式内社かどうかの前にまずの大曽根の地理を見ておく。 ここは熱田台地(名古屋台地)の北の縁で、大曽根面と呼ばれる台地上に当たる。 曽根(そね)というのは一般的に洪水によってできた土地や自然堤防を指す。大きな曽根というくらいだから氾濫によって形成された大きな曽根という意味で名づけられたと考えられる。 JR中央本線の大根駅から千種駅の部分は3メートルほど低い位置を線路が通っている。これはかつて矢田川が削ってできた谷だ。大曽根のあたりも矢田川が運んだ砂礫層から成っている。 熱田台地の北にはのちに名古屋城が築かれ、城下町が作られたため、それ以前の状況が分かりづらくなっているのだけど、若宮(若宮八幡社)や天王(那古野神社)など古い神社もあり、金城学院中学(地図)の敷地で長久寺遺跡で貝塚や縄文時代から古墳時代にかけての遺物も見つかっていることから歴史のある土地だったことが分かっている。 社伝がいう継体天皇5年(511年)創建の根拠は分からないのだけど、古い神社がこの地にあっても不自然ではないといえる。 片山神社という社名から祭神を推察するのは難しい。一般的には片方の山、つまり片側が切り立った山のことを片山といい、そこから地名になって例が多いとされる。 ただ、『延喜式』神名帳には春日井郡や伊勢国、近江国にも片山神社が載っており、いずれも祭神は定かではないことからすると、地名以外から呼ばれていた可能性も考えられる。
津田正生は『尾張国地名考』の中で、【瀧川弘美曰】として次のように書いている。 「(片山神社は)大曽根八幡の地是なり 宮地は往昔の山田郡片山天神にして 祭神大伴武日命 もとは大曽根の産神なりしに元禄中瑞龍院公の御時是は何の神かと御尋ありしに里人しらず候と答ふよりて吉見氏へ御尋ありければ傍題に八幡宮と申上しかば御造営ありて大曽根御屋敷乾方の守護神に祭り玉へり(中略)其後杉村の蔵王の社人片山の社号を拾ひて式内の神社とせるものは末世の人情憎むべし」 それを受けて津田正生はこう書く。 「瀧川氏蔵王の神主が片山の名を奪ひしとのみ心得て常に不快に思はれて強て大曽根を片山にせられしなるべし 片山神社は七尾永正寺の天神ならんもしるべからず」 ふたりの言い分をまとめると、瀧川弘美は延喜式の山田郡片山神社は片山八幡社のことで、瑞龍君(尾張藩二代藩主光友)が荒れ果てた大曽根の社を見てこれは何の神を祀っているのかと尋ねたら里人は知らないと答え、吉見氏に尋ねたら八幡だというので八幡ということになってしまい、蔵王権現を祀っていた神社の人間が片山の名前を拾って式内社だと名乗っているのは憎むべしということだ。 津田正生は、瀧川弘美は蔵王権現社の人間が片山の名前を拾ったので怒ってるけど、式内・片山神社は実は七尾神社だと言っている。 少し補足すると、『愛知縣神社名鑑』がいう元禄8年(1695年)というのは、尾張二代藩主の光友が1693年に隠居して大曽根の御下屋敷に移り住んだ年に当たる(御下屋敷は1679年に光友が建てさせた)。今の徳川園(web)が建てられたのがその敷地跡で、片山八幡はその裏通り筋にある。 神社の前を通りかかったときあまりも荒れているので再建しないといけないと思ったのだろう、名古屋東照宮の神官をしていた吉見民部大輔と息子の左京大夫に命じて造営させたということだ。 八幡と称するようになったのはこれがきっかけで、東京早稲田にあった穴八幡を模して社殿は建てられた。尾張藩の江戸下屋敷が今の早稲田にあって、光友は戸山屋敷(現在は戸山公園)を建てていたので、穴八幡がすぐ近くにあって馴染み深かったためだろう。 尾張の殿様が八幡というのだから八幡ということになり、それまで祀っていた神は遠慮して摂社で祀ることになったというのだけど、戦国時代に社伝なども焼かれてしまって何の神を祀っていたのか分からなくなっていたという。 この神社は今でも表と裏があって、奥に進むとがらりと空気が変わる。本来の神は裏手にいるように感じられる。
『尾張徇行記』(1822年)はこんなことを書いている。 「天道祠ハ八幡祠ノ西隣にあり、大曽根村中ノ氏神トス、社司沖左中」 光友が八幡を勧請する以前に祀っていた神を天道社に移して祀っていたということだ。それが大曽根村の氏神といっている。 祭神については書かれておらず、現在ある末社の宗像社、秋葉社、津島社、青麻社、金比羅社、愛宕社の中にこの神社は見当たらない。あるいは、この中のどれかが元の天道社なのか。
『尾張志』(1844年)は光友が再興したいきさつなどを書き、『延喜式』神名帳の片山神社という説があることにも触れている。地理的に見て片山ともいえるし、古社の風情もあって室町までは広大な社地を持っていて、一時は熱田神官の大原某という家が代々奉仕していたというし、古い土器なども見つかっているから古社には違いないけど式内社といえるかどうかは分からないとしている。
『特選神名牒』(1876年)は山田郡片山神社は蔵王権現(今の片山神社)で、大曽根の八幡社を式内の片山神社とするのは近年言い出したことなので違うといっている。 しかし、これは元禄八年の棟札を元に判断しているので、この認識は必ずしも正しくない。蔵王権現の方は天文や宝永年間の棟札に片山神社とあるからそちらに従うとするのも勘違いだ。そんな単純な話なら長く式内論争など起きていない。
『東区の歴史』(東区の歴史編さん会)は、山田郡片山神社を片山神社として、春日部郡片山神社を片山八幡社とすればいいと書いているのだけど、大曽根は中世までは山田郡に違いないので、この説は成り立たない。 春日部郡片山神社は、小牧市の片山八幡社や白山社、春日井市の天神社が論社となっていて、こちらもはっきりしていない。
片山八幡社は昭和4年(1929年)に県社まで昇格している。県社まで上がった神社は名古屋市内では若宮八幡社、名古屋東照宮、那古野神社、川原神社、成海神社、尾陽神社しかない。東照宮、那古野神社、尾陽神社は式内社ではないものの、格という点では納得がいく。ここに片山八幡社が入っている意味は小さくない。いうなれば官社にふさわしい。 片山神社は個人的に思い入れのある好きな神社で、ある種の絶対性を持っているのだけど、官社としての式内社ということでいえば、片山八幡社の方がふさわしいように思う。
『尾張名所図会』(1844年)に「大曽根八幡宮」と題した絵が載っている。 この頃までには境内はだいぶ狭くなっていたようだけど、周りは鬱蒼とした林に囲まれていたようだ。鳥居の横には大きな松が描かれている。 本社の隣に神明の社があり、その他、浅間、松尾、児宮、加茂、猿田彦、稲荷、秋葉、大黒、蛭子、弁天、荒神、若宮があったようだ。
瑞龍みこしと呼ばれる男神輿・女神輿を所蔵しており、瑞龍祭(10月の第4日曜日)では大曽根界隈を神輿を担いで練り歩く。 瑞龍は光友が死後に瑞龍院と呼ばれたところからきている。 境内社の谷龍神社は光友の大曽根屋敷にあった姫子龍神社を移したもので、淤加美神(クラオカミ)を祀っている。これは水の神様だ。
参拝者にとって式内社かどうかは、どうでもいいことといえばそうだし、重要といえば重要だ。平安時代以前からあった神社となれば背筋も伸びる。古さがすべてではないとしても、歴史の重みというのは無視できない。 とはいえ、それよりも実際に神社に足を運んでみて、自分自身が何を感じるかが大切に違いない。式内社ではなくてもいい神社と思えばそれは自分にとっていい神社だし、式内社といってもこれが本当にそうだろうかと首をかしげたくなるようなところもある。 式内論争が終わらないのは、昔も今もそれが楽しいからという面もある。部外者である一般人レベルの話でいえば、自分はこう思う、いや、それは違うだろうなどと論争するのも神社の楽しみ方のひとつといっていいかもしれない。
作成日 2017.2.18(最終更新日 2020.10.15)
|