大須春日神社

名古屋では貴重な春日神社

大須春日神社

読み方 おおす-かすが-じんじゃ
所在地 名古屋市中区大須3-46 地図
創建年 伝948年(平安時代中期)
社格等 郷社・七等級
祭神

武甕槌命(たけみかづちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
比売神(ひめがみ)

 アクセス

・地下鉄鶴舞線「上前津駅」から徒歩約1分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 名古屋市内では意外に少ない春日神社のひとつ。
 天暦2年(948年)に、この地域の郡司(こおりつかさ)だった藤原なにがしが大和国の春日神社から勧請して建てたと伝わる。
 奈良の春日神社(春日大社と名を改めるのは昭和21年)が創建されたのは768年としている。
 神社を建てたのが上前津(かみまえづ)の地だったのには理由がある。
 ちなみに、上前津の地名は、かつてこのあたりは入り海で、すぐ前が津(海)だったことから名付けられたとされる。ちょうどここは熱田台地の中央部に当たる。
 平城宮に春日神社を建てるとき、常陸国(茨城県)鹿島神宮からタケミカヅチ(武甕槌命)を呼んで来てもらった。タケミカヅチは白い鹿に乗ってやってきたとされており(奈良の街に鹿がたくさんいるのはそのせいだ)、その途中にこの地に泊まったのが大須春日神社の起源とされている。
 なんだか唐突で嘘くさい話に聞こえるのだけど、調べてみるとまんざらでたらめでもないかもしれないと思えてくる。

 同じような話が三重県桑名市にある桑名宗社にも伝わっている。
 桑名宗社は、桑名神社と中臣神社の両社をあわせた名称で、どちらも『延喜式神名帳』に載る古い神社だ。そのうちの中臣神社は、タケミカヅチが常陸国から大和国へ向かう途中に通った場所に建てられたとしている。769年創建というから、奈良の春日神社が創建された翌年ということになる。
 この話を裏付ける間接的な証拠として、古東海道の存在がある。
 645年の大化の改新以降、中央集権国家へと変わりゆく中で、朝廷は地方の整備、管理を進めていった。国を郡(こおり)に分け、都と地方を結ぶ道を整備した。
 この時代の道は、とにかく直線で、住民の意向や利便性などはほとんど無視されてとにかく最短距離で結ぶことを旨とした。時代の変遷の中で道が変わっていったりもしたのだけど、奈良時代の古東海道はのちの東海道とはルートがずいぶん違っている。
 平安時代の927年に完成した『延喜式』の中に、尾張国には馬津、新溝、両村、と3つの駅があると書かれている。
 西の馬津駅は伊勢国から木曽三川を渡った東岸、今の津島市西方松川あたりにあったと考えられ、東の両村駅は三河国との境、境川の手前の豊明市二村山のあたりとするのが定説となっている。中央の新溝駅については諸説あるものの、古渡あたりという説が有力だ。
 ルートが海岸沿いではなく大きく北側を回り込んでいるのには理由があったはずだ。海岸線は干潟や湿地で道を作るのに適さなかったか、国府が置かれた稲沢付近に通す必要があったとも考えられる。
 新溝駅が古渡だったとすれば、上前津はそのすぐ北に位置しており、古東海道沿いか、すぐ近くにあった可能性が高い。
 南には熱田神宮や熱田の湊があり、熱田台地の上は古墳や集落の密集地帯でもある。
 ただし、奈良の春日神社創建が768年で、大須春日神社の創建が948年だとすると、その間の180年という時間をどう考えるべきかという問題はある。
 創建したのがこの地にいた藤原氏だとすれば、それは理にかなっている。春日神社はもともと藤原氏(中臣氏)が氏神を祀るために建てた神社だからだ。

 奈良の春日神社には謎がある。
 創建されたのが768年というのもそのひとつだ。
 奈良の都、平城京に遷都したのが710年。何故、平城京遷都から春日神社創建まで58年も間が空いてしまったのか。
 645年、乙巳の変(いっしのへん)で中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに蘇我入鹿 を暗殺したのが中臣鎌足だ。天智天皇時代は腹心として活躍し、臨終の際に藤原姓を授かった(669年没)。
 藤原家を継ぎ、のちの藤原氏繁栄の基礎を築いたのが次男の不比等だった(長男の定恵は出家して僧になっている)。
 不比等は平城京遷都にも関わっており、春日神社は710年に春日の御蓋山(みかさやま)にタケミカヅチを祀ったのが始まりともされる。
 しかし、正式な創建としては768年で、藤原永手によるとしている。永手は不比等の孫に当たる。
 神社創建に際して、どうして地元大和の神ではなく、遠く関東の神を呼ぶことになったのかが春日神社最大の謎だ。
 中臣氏(藤原氏)の氏神は、天児屋根命(アメノコヤネ)だ。アマテラスが天の岩戸に隠れて出てこなくなってしまったとき、どういう方法を取ったらいいのか太玉命(フトダマ)が占い(太占/ふとまに)、アメノコヤネが祝詞をあげた。
 その後アメノウズメが踊ったりなにやらしてアマテラスが少し戸を開けたとき、フトダマとともに鏡を差し出したというエピソードで語られる。
 ニニギの天孫降臨に付き従って地上に降り、中臣連の祖となったとされる。
 名前のコヤネが表すのは神の神託を伝えるための小屋のこととされ、祝詞の神とされる。
 藤原氏にとっては中心とすべき氏神のはずが、春日神社では第三殿で祀られている。第一殿、第二殿で祀られるのが、鹿島の神タケミカヅチであり、香取の神であるフツヌシ(経津主命)だ。
 タケミカヅチは、アマテラスがオオクニヌシ(大国主命)に国譲りを迫ったとき、オオクニヌシの息子、事代主(コトシロヌシ)は了解したものの、もうひとりの息子、タケミナカタ(建御名方)が刃向かったのでそれをやっつけるために遣わされた神だ。そのまま地上にいることになり、鹿島の地で祀られることになる(負けたタケミナカタは諏訪大社に祀られた)。
 フツヌシについてはいろいろ説があってはっきりしないのだけど、タケミカヅチと対になる神と考えられている。
 神武東征のときに、タケミカヅチが神武に与えた布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を神格化したとする説もある。
 アメノコヤネのお祈りだけでは足りないから、戦の神を守護神とするために呼んだというのは分かるのだけど、それにしても藤原氏とタケミカヅチの関係性は不明だ。中臣氏の本拠が常陸国にあったからともいうけど、それだけが理由とも思えない。
 布都御魂剣は神武天皇時代は物部氏の祖とされるウマシマジ(宇摩志麻治命)が宮中で祀ったとされ、のちに大和国(奈良県天理市)の石上神宮に移されて御神体となった。
 このことから、物部氏の神だった布都御魂を藤原氏が奪ったのではないかといった見方もある。
 鹿島神宮にも布都御魂とされる剣(直刀黒漆平文大刀拵/韴霊剣)が伝わっている(国宝指定)。
 フツヌシが祀られている香取神宮は下総国一宮(千葉県香取市)で、鹿島神宮とともに早くから神宮の称号を与えられた神社だ。『延喜式神名帳』で神宮は伊勢と鹿島と香取だけということからしても、朝廷から重視されていたことが分かる。
 それは、藤原氏が栄華を極めることで奈良の春日神社の位が上がり、そこで祀られている神の位階も上がったということを意味するのだけど、逆に言うと、奈良時代以前に関東にすでに位の高い神を祀る神社があったということでもある。
 河内国(大阪府東大阪市)枚岡神社(ひらおかじんじゃ)から天児屋根命・比売神を勧請したのも何故なのかよく分からない。藤原氏の氏神ならよそから勧請しなくても自前で祀ればよかったのではないか。
 枚岡神社の社伝によれば、神武天皇時代に、家臣だった天種子命(あめのたねこのみこと)が勅命で神津岳の山頂に祖神のアメノコヤネ(天児屋根神)を祀ったのが始まりという。
 春日神社は更にさかのぼれば、春日氏が春日の神を祀ったのが起源という話もあり、春日氏と中臣氏の関係性から紐解かないと春日神社の実態は見えてこないということもあるのだけど、書くと長くなるのでここではやめておく。

 大須春日神社について書くつもりが大きく脱線してしまった。もう一度大須春日神社に話を戻すことにする。
 948年創建の他に、938年以前の創建という説もある。いずれにしても平安時代中期だ。『延喜式』の完成以降ということで、式内社にはなっていない。
 往事はかなり広い境内を有していたと思われる。
 戦国時代の1570年頃、奈良県桜井からこの地に移り、前津小林城を築いた牧長清が社殿を改修して整えたと伝わる。
 前津小林城と牧長清については大須三輪神社のところで書きたいと思う。
 尾張徳川家もこの神社を大事にして、二代藩主の光友の母は大須春日神社で安産祈願をしたという。
 江戸期を通じて何度も修繕された記録が残る。
 明治5年、村社に列格。
 昭和15年、郷社に昇格。
 昭和20年、空襲で社殿や宝物などを焼失。
 昭和35年、社殿再建。

 春日の神は、上前津で尾張の地にぎりぎりかすったといったところだろうか。他には、北区の八王子神社春日神社と、中村区の春日神社くらいしかない。どうしてこんなに少ないんだろうと逆に不思議なくらいだ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

大須では目立たない脇役の神社にもそれぞれの歴史がある

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