旧岩倉街道沿いにある秋葉社。 社殿が東を向いているのは、すぐ東を岩倉街道が通っていたからだ。 岩倉街道は、名古屋城下と岩倉を結ぶために1667年に整備されたとされる。元となる道はそれ以前からあっただろう。 名古屋城と清洲を結ぶ美濃路と枇杷島橋の北で別れ、そこから北上して小田井、岩倉を通り犬山までつながっていた。 江戸時代、枇杷島には日本を代表する青果市場があり、尾張北部から野菜を運び入れるために作られたのが岩倉街道で、当時は大変な賑わいだったという。中小田井には往事の街道沿いの面影を残す一角があり、名古屋市の町並み保存地区に指定されている。かつてそこに野菜運搬人のための小さな商店が並んでいた。 そんな岩倉街道沿いにある秋葉社ということで、このあたりの住人が街道沿いの守り神として祀ったのが始まりではないかと思う。創建時期としては江戸時代中期から後期にかけてあたりだろうか。あるいは江戸時代前期という可能性もあるし、逆にもっと新しいものかもしれない。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、街道沿いの集落の北の外れに位置していたことが分かる。その集落は平田村の中心から外れた出町と呼ばれた小さな集落だ。集落の入り口に秋葉社を祀るということはよくあった。
秋葉神社から150メートルほど南に、新川に架かる平田橋がある。その北側に平田橋事件の殉難記念碑が建っている。 自由民権運動が激化した明治17年(1884年)に起きた平田橋事件の現場がここだ。 明治7年頃に始まった不平士族による抗議活動は明治10年の西南戦争でいったん静まるかに思えたのだが、明治11年以降、運動は農村にまで広がり、各地で暴動と鎮圧が頻発するようになる。 名古屋にも自由党員の過激な一派がいて、高利貸しの家に押し入って強盗を繰り返すなどしていた。 明治17年8月12日の深夜2時頃、警ら中だった巡査と過激派がこの橋で行き合い、乱闘の末、巡査二人が惨殺されるという事件が起こった。 これをきっかけに20数名が検挙されることになり、後に名古屋事件と呼ばれた。 記念碑というのもおかしな表現に思えるのだけど、石碑が建てられたのは昭和2年(1927年)のことだ。以降、毎年8月12日に慰霊祭が行われている。
江戸時代の光景から明治、大正、昭和を経て平成の現代までを秋葉社は見続けてきたのだから、秋葉の神も隔世の感があることだろう。
作成日 2018.3.22(最終更新日 2018.12.11)
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