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神明社(新茶屋)


茶屋家の三十番神から関戸家の神明社に



茶屋後神明社

読み方しんめい-しゃ(しんちゃや)
所在地名古屋市港区新茶屋5丁目1809 地図
創建年1679年(江戸時代前中期)
旧社格・等級等指定村社・九等級
祭神天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
アクセス近鉄名古屋線「近鉄蟹江駅」から徒歩約51分
新西福橋バス停留所」から徒歩約10分
駐車場 あり
その他例祭 10月1日
オススメ度

 尾張茶屋家二代・茶屋長以が開発した茶屋後新田(ちゃやのちしんでん)の氏神として建てられたのが始まりだ。
 当初は三十番神で、明治になって神明社として再出発することになった。



 茶屋家については東茶屋の八幡社のページに書いた。
 信濃守護の小笠原長時の家臣だった中島明延が武士を捨てて京都で呉服商になり、その息子の清延が茶屋の屋号で幕府と徳川御三家の御用商人となったのが茶屋家の始まりだ。
 清延の三男・新四郎長吉(長意)が尾張にやってきて尾張茶屋家の初代となる。
 茶屋長意は尾張藩の御用商人を務めながら新田開発にも乗り出し、1663-1669年にかけて茶屋新田を開発した。
 それから8年後の1677年に二代・長以が茶屋新田の西に茶屋後新田を開発することになる。
 新田開発に先立って三十番神を祈願して、堤防が無事に完成した1679年にあらためて三十蕃神を勧請して氏神とした。
 茶屋後新田の開発は二代・長以で、三十蕃神を建てたのは初代・長意だったようだ。
 三十蕃神というのは日替わりで30の神が守護をするという神仏習合の信仰だった。主に日蓮宗などで祀られた。茶屋家は日蓮宗の信徒だった。
 東茶屋の八幡社も、三十蕃神の中の八幡大菩薩を祀ったが始まりだ。
 明治になって神仏分離令が出されると三十蕃神を神社で祀ることが禁じられたため、伊勢の神宮(web)から天照大皇神を勧請して神明社とした。
 三十蕃神は境内社として今も祀られている。



『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「社伝に延宝五年(1677)茶屋長寛、新田開発に際し三十番神を祀る。明治制度改めにより神仏混淆を廃して神明社とした。明治5年7月、村社に列格する。明治41年6月、社殿を改築し、明治42年9月1日、指定社となる。大正3年4月20日、社殿を改築した。昭和46年社殿を修復する」
(長寛は長意の間違い)



『尾張志』(1844年)に茶屋後新田の神社は載っていない。
『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。
「庄屋書上帳ニ三十蕃神社内一畝十歩村除、是ハ当新田開発ノ時茶屋長意勧請スル由」
「熱田社家大原多宮太夫書上帳ニ、神明社内三畝灯明田七畝御国検除」
「神明宮田一反三畝十八歩、是ハ寛延四未年繰出来新田検地ノ時御除ニナル」
 この神明がどの神社のことをいっているのかちょっと分からない。現在の新茶屋(かつての茶屋後新田)に、ここ以外の神明社は現存していない。新茶屋の神明社に合祀したということだろうか。



『尾張徇行記』は茶屋後新田についてこう書いている。
「此新田ハ茶屋古新田ノ西ニアリ、一番割二番割三番割ト分リ、此内ニ茶屋長意拝領知入交レリ、農屋ハ戌亥ノ方ニアリテ一村立ノ処ナリ、高ニ準シテハ佃力不足シ漸ト半分ホト村人耕耘ス、其余ハ蟹江舟入西福田アタリヨリ承佃スト也、此中ニ 漁師モ少シアリ、村立モ大体ヨキ所ニ村中茶屋会所モアリ、庄屋清右衛門宅ニ黄柑数株アリ能生立リ」
 茶屋長意が拝領した土地もあり、一番割から三番割まで分かれていたようだ。
 神社がある場所の旧町名は南陽町大字茶屋後新田字ロノ割だった。イロハ割とも呼ばれていたということだ。



 茶屋後新田の経営に関してはあまり上手くいかなかったようだ。
 度重なる水害によって借金が膨らみ、そこへ持ってきて茶屋家で内輪もめが起きて、新田を抵当に名古屋の関戸家から借金をしてしのいでいたのが返済できなくなり、1811年に新田の3分の2が関戸家の所有となった。更に残りの3分の1は伊藤忠左衛門(川伊藤)の所有となる。
 明治初年、九代目・長与のときにすべての所有権が関戸家に移った。
 ここは多くの河川が合流する日光川の河口付近で低湿地帯だったため、排水が上手くいかずに毎年のように冠水して収穫量も少なかった。
 そこで関戸家は排水機を導入したりして乾田化をはかり、結果、収穫量が上がった。
 戦後に自作農創設特別措置法が施行されると、当時の当主だった関戸有彦は小作人128人に安値で田を分譲した。
 神明社境内にある関戸家頌徳碑(せきどけしょうとくひ)は、こうした温情に農民達が感謝して建てたものだ。



 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、南北に通っている道沿いに民家がややばらけながら建っている。東の戸田川右岸にも少し家がある。集落のスタイルとしてはちょっと変わっている。
 北の西福田新田との境の道は、明治になってからの新東海道で、もとは堤防だった。
 神社があるのは茶屋後新田の北西で、新東海道を少し南に入った福田川の左岸堤防沿いになる。周囲に集落はなく、何故この場所だったのかは分からない。
 茶屋後新田の様子は戦後まではほとんど変わらない。
 1960-1970年代になると、西の福田川沿いやや北に民家が増えた。
 その後、区画整理されて少しずつ民家が増え、田んぼが減っていった。それでも、現在に至るまでこのあたりが田園地帯ということに変わりはない。まだ多くの田んぼが残っている。



 茶屋家が建てて関戸家が引き継ぐ格好になった神社ということで、東茶屋の神明社と同じくらい立派だ。港区を代表する神社のひとつといっていい。駐車場の広さでいうと港区一だ。
 半ば独立した格好の秋葉社の他、龍神社や鹽竈神社・熱田神宮・津島神社の合社などがある。
 全体的にやや荒れ気味などが気になった。
 東茶屋神明社のような何者かが守っている感は弱い。



 宝物として昭和41年に名古屋市の文化財に指定された神楽屋台や獅子頭三つを所蔵している。
 戦前までは町内各地で嫁獅子や棒の手が行われていたという。
 昭和40年代以降に、尾張信次郎太鼓や海東流神楽太鼓、男獅子舞神楽を復活させて、名古屋まつり(web)や神社の大祭などで披露している。



 変わるものと変わらないものがある。
 茶屋家の繁栄と衰退をこの神社は知っている。




作成日 2018.8.20(最終更新日 2019.7.31)


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茶屋家の忘れ形見の三十番神が茶屋後神明社に

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