夜叉龍神社とはまたまがまがしい名前の神社だ。 夜叉龍-神社なのか、夜叉龍神-社なのか、よく分からないのだけど、とりあえず「やしゃりゅうじん-しゃ」としておく。 夜叉はもともと古代インドの鬼神で、男はヤクシャ、女はヤクシーと呼ばれていた。仏教に取り込まれる中で守り神という一面を持つようになり、日本に入ってきた。 日本では夜叉というと女のイメージが強いかもしれない。夜叉龍もまた女の龍神とされる。
夜叉龍神社の本社は、岐阜県揖斐川町にあり、夜叉ヶ池に棲む龍神の妻となった夜叉姫を祀っている。 そこにはこんなお話がある。
平安時代前期の817年、美濃国平野庄(岐阜県安八郡神戸町)に雨がまったく降らないため作物が実らず、村人たちは困り果てていた。 そんなある日、郡司の安八太夫安次が道を歩いていると小さな蛇に出会った。藁にもすがる思いでその蛇に向かって、もしおまえが雨を降らせることができれば娘をやろうと語りかけてみた。 するとその晩、夢枕にその蛇が現れ、自分は揖斐川の上流に棲む龍神で、そなたの願いを叶えようと告げたかと思うと、いきなり大雨が降り出したという。 翌日、若者の姿に変身して蛇は現れ、約束を果たすように迫る。 安次には三人の娘がおり、事情を話すと心優しい次女が自分が行くと申し出た。そうして娘は龍神の嫁となるべく揖斐川の上流へと去っていったのだった。 しばらくして心配になった安次は娘に会うため、揖斐川の上流の更に先にあるという池へと向かった。その池を見つけた安次は、池に向かって叫んだ。 「娘よ、もう一度だけ父に姿を見せておくれ」と。 すると水面が盛り上がり、一匹の巨大な龍が現れた。それは龍神の嫁となった娘で、もうこんな姿になってしまったからには人前に姿を見せることはできませんと告げて池の底に消えていった。 安次は龍神となった娘を祀るために池の畔と自宅に祠を建てた。 その娘の名前が夜叉だったことから、池はいつか夜叉ヶ池と呼ばれるようになったという。 泉鏡花の戯曲『夜叉ヶ池』はこの伝説が元になっている(話の展開や結末は別物)。
現在の夜叉龍神社は、1647年に大垣藩主だった戸田氏鉄が建てたと伝わっている。そこは夜叉姫が髪を洗ったことからお洗池と呼ばれる池の畔だったという。 しかし、明治28年(1895年)に起こった鉄砲水によって社殿は流され、お洗池もなくなってしまった。 その後、昭和9年(1934年)になって揖斐川電工(現イビデン)が川上発電所を開設するときに再建して現在に到っている。
いつ誰が中村のこの地に夜叉龍神社を建てたのかは分からない。アパートの敷地内のようなところに神社はあり、そのアパートの名前が第一明龍荘となっている。ひょっとすると大家さんと関係があるのかと想像したりもする。 ここは夜叉龍神社には違いないのだけど、同時に御嶽信仰が色濃い神社でもある。 祭神として八大龍王が祀られている他、明照霊神も祭神となっている。
御嶽山に対する信仰自体は古くからあった。ただ、鎌倉、室町期は修験者の修業の場という性格が強く、民衆に御嶽信仰が広まったのは江戸時代中期以降のことだ。 御嶽講と呼ばれる結社が作られ、御嶽山で修業をした行者と弟子たちが信仰を各地に広めていった。 その先達が尾張国春日井郡生まれとされる覚明行者(かくめいぎょうしゃ)だった。 続いて武蔵国秩父郡出身の普寛行者(ふかんぎょうしゃ)が現れ、その弟子たちによって御嶽信仰は関東にまで広まり、大衆化していくことになった。 行者は死ぬと霊神と呼ばれる神となり、祀られることになる。 ここで祀られている明照霊神は、岐阜県岐阜市鶉(うずら)発祥の照王講の先達・大嶋明照のことのようだ。 夜叉ヶ池で修業を積み、夜叉龍神は夜叉姫ではなくもともと池にいた男神の龍のことという。 明照と弟子たちが御嶽山の神を信仰していたというから、夜叉龍神と御嶽の神を一緒に祀っているのは最初からということだろう。 表の紙に書かれた「江州 夜叉龍神」というのが引っかかっている。江州(ごうしゅう)は近江国、今の滋賀県のことだ。滋賀県といえば琵琶湖だけど、琵琶湖の夜叉龍伝説は聞かない。夜叉ヶ池があるのが滋賀県との県境にも近いということか、もしくは明照一派が滋賀県と関わりがあるのか。 非常に古い時代、西日本地区一帯を江州と称していたという話を聞いたことがある。もし、その江州のことを指しているのだとしたら、非常に古い龍神信仰が元になっている可能性も考えられる。
入っていって正面にふたつ並んだ社は、それぞれ夜叉龍神と八大龍王が祀られているのだろう。その隣にあるやや大きめの石像が明照霊神か。 手前の地面には大黒と恵比須の石像が置かれる。 隣接するお堂の中がなかなかの不思議空間となっている。石仏や人物像が並び、小さな社や白蛇などもいる。 幟には白河大神、弘法大師、十一面観世音菩薩とあるから、これらの石像がそうなのだろう。 色あせた写真が数枚額の中に飾られている。神事の格好をした神職さんや祭の様子がそこにある。揃いのはっぴを着た人たちは御嶽講の人だろうか。
祀られている八大龍王にしても、夜叉龍神にしても、雨乞いの神という性格を持っている。それが合体しているということは、農耕に携わる人たちの手で創建された神社ということだろうか。 あるいは、御嶽講の拠点がここにあって、関係する神を祀ったのが始まりか。 夜叉龍が先にあって、そこに御嶽信仰が一緒になったのか、違う経緯を辿ったのか、そのあたりについては想像がつかない。 ひとつ確かなのは、他に類を見ないユニークな神社だということだ。ここは小さなワンダーランドだと思った。でも、決しておどろおどろしいといったものではない。いろんなものが混沌としているという点において、民間信仰らしい神社ともいえる。 これを読んで興味を持った方は一度訪れてみることをおすすめしたい。百聞は一見にしかずとはこのことだ。
【追記】 この神社は廃社になったのではないかという話を聞いた。 ストリートビューを見てみると、神社があったであろう場所に新しいマンションが建っている。隣は確か古びたアパートだった。そこには新築の一軒家が建ったらしい。 現地に行って確認したわけではないのではっきりしたことは分からないのだけど、確認できたら追記します。
作成日 2017.5.25(最終更新日 2020.9.14)
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