安倍晴明を祀るという名古屋晴明神社。 全国に安倍晴明に関係する神社がいくつかある。京都の一条戻橋近くにあった屋敷跡に建てられた晴明神社(web)はその代表だ。 1005年に晴明が死去したあと、一条天皇は晴明は稲荷神の生まれ変わりだから祀るようと命じて1007年に創建されたと伝わっている。 大阪の阿倍野清明神社(web)は、晴明生誕地の伝承が残る。 その他、東京葛飾区の立石熊野神社や愛知県岡崎市、福井県敦賀にも晴明ゆかりの神社がある。いずれも晩年にその地を訪れたという伝説が元になっているようだ。 しかし、晴明が高齢になって諸国を漫遊したという記録はない。水戸黄門こと水戸光圀が全国を歩き回ったことはないように、晴明の伝説もまた一人歩きしたようだ。
安倍晴明は晩年の数年間、この地(尾張国狩津荘上野邑)に移り住んだという言い伝えがある。 晴明がこの地にやってきたのは987年、67歳のときという。986年に起きた花山天皇退位事件のあおりを食らって尾張国まで飛ばされたのではないかとするのが説の根拠となっている。 17歳で即位した花山天皇(かざんてんのう)は、自分は天皇には向かないからやめたい、いっそのこと出家しようかとこぼしたら、それはいいですね、ぜひそうなさいませと藤原兼家などにそそのかされて本当に出家してしまったという事件だ。花山天皇はこのとき19歳。後を継いだのが藤原兼家の外孫の懐仁親王で、一条天皇として即位する。 晴明はこのとき花山天皇の出家を察知しながら間に合わず止められなかったとされる。 実際に晴明が尾張に飛ばされたかどうかは分からないし、公式記録に残っているわけでもない。2、3年後に京に呼び戻されたという話もあるのだけど、京都の晴明神社を建てたのは一条天皇なのだから、一条天皇側と必ずしも敵対関係というわけではなかったはずだ。 政変に嫌気が差してしばらく旅に出たくらいは考えられるだろうか。何年か尾張に住んだり地方をめぐってはみたものの、都が懐かしくなって戻っていったのかもしれない。 名古屋晴明神社の近くに、晴明の一族が創建したと伝わる上野天満宮(地図)がある。このあたりの地名の清明山(字違い)からしても、安倍晴明もしくはその子孫に関わりがあるという可能性はあるのではないか。 名古屋晴明神社は上野天満宮の宮司家の半田氏が管理している。 晴明が上野村に住んでいたとき、このあたりは湿地帯で蝮(マムシ)が多くて村人が困っていた。晴明は得意の術でマムシを退治して見事いなくなったという話が残っていることからしても、それなりに具体性が感じられる。 時は流れて江戸時代の中頃、再びマムシの被害に悩まされていた村人たちは晴明マムシ退治の話を思い出し、晴明を祀る祠を建てて祈ったところマムシは出なくなったという。それが1778年というから、これを名古屋晴明神社の創建と考えていいだろうか。 ただ、この神社は『尾張志』(1844年)や『尾張名所図会』(1844年)などには出てきていないから、江戸時代にその話は有名ではなかったようだ。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、晴明神社があるのは上野村の北のはずれだったことが分かる。大幸村に続く道沿いに当たるのだけど、その頃は今とは別のところにあったのではないかと思う。 上野村の北西一帯は、大正時代には軍の兵器庫や工兵作業所となった。その時代、今の場所に祠でもあったかといえばそれはちょっと疑わしい。 軍の施設があったことで空襲の被害を受け、戦後は住宅、学校、工場が共存する町になった。現在、ナゴヤドームがある場所にはかつて三菱の大きな工場があった。 清明山の町名は昭和55年(1980年)からで、それまでは萱場町といっていた。ただ、清明山の地名は鍋屋上野村の字名だったので、わりと古くからのものかもしれない。
安倍晴明は平安時代の中頃に生きた陰陽師だ。朝廷直属の陰陽寮という役所があって、そこの天文陰陽博士という職に就いていた。いわば国家公務員だ。術を操る怪しげな人物というのではない。 陰陽道というのは、中国で発明された陰陽五行説(陰陽の2つの気と木・火・土・金・水の5元素が万物の原理とする)を基に日本独自の発展を遂げた学問だった。当時の先端科学といっていい。 天体観測によって暦を作ったり、占いなどで吉兆を読んだりして、天皇のそばに仕えた。 それだけなら伝説の人にならなかったのだろうけど、式神(しきがみ)を駆使して数々の不思議を見せたり、挑まれる術合戦に勝利したことが評判となり、後世まで名が伝わることになった。蘆屋道満とのライバル対決はよく知られている。 ただし、安倍晴明の実像について分かっていることは意外と少ない。生まれた場所も、生年も、両親が誰かもよく分かっていない。母親は白狐という話まである。 没年の1005年というのは確かで、85歳だったと伝わる。当時としては異例の長生きだ。生誕地に関しては大阪の阿倍野以外に奈良県桜井市安倍など、いくつかの説がある。 実は晴明の読み方も「せいめい」と分かっているわけではない。「はるあき」かもしれないし、「はるあきら」かもしれない。 晴明の子供も陰陽師となり、安倍氏(土御門家)は明治の初めまで陰陽寮を統括することになる。 『竹取物語』に登場する右大臣・阿倍御主人の子孫とする説もある。 遅咲きの人で、表立って活躍したのは40歳を過ぎてからだった。天文博士になったのは50歳頃とされる。 花山天皇に大事にされ、そのあとを継いだ一条天皇や関白・藤原道長にもよく仕えていたというから出世と無縁だったわけではない。占いや術を駆使して多くの実績を上げ、名声を極めるとともに数々の官職を歴任した。
晴明の没後、すぐにその人物像は神秘化されることになる。『大鏡』をはじめ、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』に虚実取り混ぜた晴明の活躍が描かれ、人々の知るところとなった。 その晴明伝説を現代に蘇らせたのは夢枕獏だった。 1986年に連載が開始された『陰陽師』によって安倍晴明像は形作られることになった。その後、漫画や映画やドラマ、舞台化などが続き一大晴明ブームといったものが訪れたのが今から15年ほど前のことだ。個人的にはやはり、映画の野村萬斎のイメージが強い。 戦時中に陸軍の兵士が祠を移そうとしたら突然高熱を出して倒れたとか、戦後清明山住宅建設にともなって撤去したら事故が続いたなど、その後もいくつかの伝説を残す。 現在のような社殿が建てられたのは清明山住宅完成後の1967年(昭和42年)のことだ。話を聞いた入居者たちの意見だったという。 2000年代前半の晴明ブームの頃は県内外から多くの人がやって来た。そして、あまりのこぢんまりさと手作り感満載の神社に腰砕けになった人も少なくなかったんじゃないだろうか。ユニークというひと言で片づけるには惜しい神社というのが私の感想なのだけど、さてどうだろう。 かつては名古屋晴明神社と高牟神社と城山八幡宮が恋の三社めぐり企画の神社だった。名古屋晴明神社は常駐する人が不在ということで、代わって山田天満宮が引き継いだ。 訪れる価値があると思うかどうかはあなた次第です。
作成日 2017.3.20(最終更新日 2019.2.11)
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