五社宮

いろいろあったけど今は落ち着いてます

五社宮

読み方 ごしゃ-ぐう
所在地 名古屋市天白町八事天道322番地 地図
創建年 不明
社格等  村社・十三等級
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
外四柱
アクセス

・地下鉄鶴舞線「八事駅」から徒歩約3分
・駐車場 なし

webサイト  公式サイト
オススメ度 **

 八事駅南の八事天道の地名は、かつて天道宮と呼ばれていたこの神社が由来となっている。
 五社宮の社名は、日神・月神・星神・神明・祇園の五社を祀っているところから来ている。
 中心のお宮が日宮社で、天照大御神を祀っている。
 その左右に月宮社の月夜見尊(ツクヨミ)と星宮社の五百箇磐石尊(イオツイワムラ)を祀る。
 日の神を中心に、左右に月と星の神を祀るというのは理にかなっていてしっくりくる気がするのだけど、これはかなり珍しい。名古屋ではここだけだと思う。
 星宮で祀られている五百箇磐石尊は、文字通りなら五百個の磐石(いわお)=大きな石という意味だ。
 火の神であるカグツチ(軻遇突智)が生まれたことでイザナミ(伊弉冉尊)が死んでしまったことに怒ったイザナギ(伊弉諾尊)は、十握剣(とつかのつるぎ)でカグツチを斬り殺し、そのとき飛び散った血が五百箇磐石となったと『日本書紀』の一書で書いている。
 五百箇磐石から磐裂神(イワサク)・根裂神(ネサク)が生まれ、経津主神(フツヌシ)の祖となったともいう。
 経津主神は香取神宮(web)の主祭神であり、鹽竈神社(web)でも祀られる神だ。
 どうしてカグツチの血から生まれた神が星の神とされたのかはよく分からない。
 星神を祀るとされる神社では五百箇磐石の子の根裂神を祀っているところもある。中川区の赤星神社などがそうだ。
 この三社の他、神明社で豊受大神(トヨウケ)を、祇園社で須佐之男命(スサノオ)を祀っている。

 創建年は不明ながら、江戸時代には尾張国丹羽郡稲木荘寄木村に天道社と称して鎮座していたという。現在、稲木神社があるところだ(江南市大字寄木字東郷中)。
 天道(てんどう/てんとう)というと太陽のことをお天道様というように太陽のことであると同時に天の道、つまり天の意志、天命といったものでもある。
 中国から仏教や儒教の思想として日本に入ってきて、日本では神道と結びついて独特の天道思想へと発展していった。
 簡単にいうと、人の行いや生き死には天が決めることで、因果は巡る、つまり運命論や因果応報といった思想だ。特に戦国時代に天道思想というものが武士から農民にまで浸透していったと考えられる。
 寄木村にいつ誰がどんな神を祀る神社を建てたのかは分からないのだけど、戦国時代までには天道思想による天道社となっていたと考えていいのではないか。それは決して、太陽神である天照大神を祀る神社ではなかったはずだ。
 江戸時代中期の1724年(享保9年)、天道社は天道山高照寺という臨済宗の禅寺になった。
『尾張名所図会』によると、「尼僧これを守る。臨済宗、京都妙心寺末」とある。
 1741年(寛保元年)に愛智郡八事村の現在地に遷座した。尾張藩の命という話もあるけど、そのあたりの事情についてはよく分からない。
 当時は広大な境内を持つ寺だったようで、『尾張名所図会』にも絵図が載っている。鳥居はないものの、本堂の前に拝殿がある。「おひのや」だろうか、その社と、弁天が描かれている。
 本堂は天道宮と呼ばれ、本尊は大日如来だった。神仏習合では大日如来=天照大神なので、当時から太陽信仰めいたものはあったのかもしれない。
 遷座と書いたけど、実は元地にも元宮として残っていたようなので、引っ越しというよりも新宮を八事村に建てたといった方がいいだろうか。
 明治の神仏分離令を受けて、寺は高照寺として八事に残り、神社部分は五社宮として独立し、元宮があった寄木村でも再び祀るようになった。
 その元宮は天道社ではなく稲木神社と称しているのには理由がある。そのことがこの神社の変遷を複雑なものにしている。

『延喜式』の「神名帳」に載る丹羽郡稲木神社は、戦国時代には所在不明になっていた。
 それは寄木村にある天道社のことだとしたのが尾張藩の国学者で神社研究の第一人者、天野信景(あまのさだかげ)だった。
『尾張志』もこの説に賛同しており、寄木村の天道社は『延喜式』の「神名帳」の丹羽郡稲木神社だとしている。
 根拠としては稲木荘の稲木は和名抄にも載る古い地名で、古代氏族の稲木別(いなぎのわけ)が住んでいただろうからだとする。
 その稲木別が祖の
大中津日子命を祀るために建てたのが稲木神社ではないかと書いている。

 大中津日子(オオナカツヒコ)は、『古事記』では男性として描かれ、『日本書紀』では大中姫命(オオナカツヒメ)と女性として登場する。
 第11代垂仁天皇の第三子で、上には五十瓊敷入彦命(イニシキイリビコノミコト)と大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)という二人の兄がいて、下には妹の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)と稚城瓊入彦命(ワカキニイリビコノミコト)という弟がいる。
 垂仁天皇が二人の兄弟に何が欲しいか尋ねたところ、兄の五十瓊敷入彦命は弓矢が欲しいといい、弟の大足彦尊は皇位が欲しいというので、弟に皇位を譲り、第12代景行天皇となった(ヤマトタケルの父)。兄の五十瓊敷入彦命は菟砥川上宮(うとのかわかみのみや/大阪府泉南郡阪南町)で千の剣を作って石上神宮(web)に納め、それ以降、石上神宮の神宝を掌握することになった。
 その五十瓊敷入彦命が年老いたとき、もう自分は管理ができないということで妹の大中姫命を呼び、これからはお前が石上神宮の神宝を守っていって欲しいと頼んだところ、大中姫命は体が弱いことを理由に断り、代わりに物部十千根大連(モノノベノトオチネノオオムラジ)に石上神宮の宝を守ることを託した。物部氏が石上神宮を守ることになったのはこういう経緯があったとされる。
 倭姫命は豊鍬入姫命の跡を継いで天照大神を祀る場所を求めてさすらい、伊勢に神宮(web)を建てた皇女としてよく知られている。甥のヤマトタケルが頼ってきたとき、草薙劔を渡したのも倭姫命だ。
 稚城瓊入彦命に関しては記紀に活躍の記述がなくよく分からない。
 大中津日子/大中姫命は、『日本書紀』を見る限り女性の印象が強いのだけど、『古事記』では、山辺之別(ヤマノベノワケ)、三枝之別(サキクサノワケ)、稲木之別(イナキノワケ)、阿太之別(アダノワケ)、尾張国の三野別(ミノノワケ)、吉備の石无別(イワナシノワケ)、許呂母之別(コロモノワケ)、高巣鹿之別(タカスカノワケ)、飛鳥君(アスカノキミ)、牟礼之別(ムレノワケ)の祖としていることからすると、やはり男性とみるべきか。あるいは、別人という可能性もあるだろうか。
 三野別は『延喜式』の「神名帳」に中島郡見努神社(みぬじんじゃ)があり、その神社は三野別に関係があるのではないかと『尾張志』は書いている。
 見努神社は失われてしまって現存していない。

 稲木神社のもうひとつの論社として、犬山の天神社がある(犬山東古券)。
 かつては針綱神社(web/これも式内社とされる)に属していた古い神社で、川の氾濫で1767年に現在地に移されたという。
 ただ、旧地にも社は残り、田中天神と称していた。津田正生は、この田中天神が「神名帳」の稲木神社だとしている。
 犬山の天神社では天照大御神、大中津日子命、少彦名命、菅原道真を祀っている。
 田中天神は、丹羽郡石作神社の論社でもある。

 現在の五社宮は、式内社といったようなことを主張してはいない。
 月宮や星宮はもともと天道社の中にあったのか、高照寺のときにあったのか、どこか別のところから移してきたのか、そのあたりの調べがつかなかった。
 五社どころか、稲荷社、秋葉社、白山社、祓戸社もある。
 スサノオを祀る社は津島社ではなく祇園社の八坂権現を名乗っていたり、祓戸社があったりと、なかなか個性的なラインナップとなっている。
 よそから分社として見知らぬ土地へやって来て、ほどなく寺になったかと思ったら独立して、分社が元の地に戻っていって自分はここに残って、近所から集めてきた社を一緒に祀ってと、長い間にはいろんなことがありましたという感じの神社だ。
 境内は決して広くないものの、街中の喧噪を忘れさせるほど落ち着いた空気感が満ちている。いろいろあったわりに鎮まっている感じがする。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

八事の五社宮を訪ねる

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